File27 寒い寒い寒い夜
その晩は、近来まれに見る寒さだった。恐らく、氷点下は越えているだろう。吐く息も白く、靴底から路面の冷たさが伝わってくる。
私はコートの襟を合わせ、少しだけ背を丸めて歩いた。寒空の下、背を丸めてとぼとぼと歩く私の姿は、まさに負け犬のそれだった。――そう。つい先刻、私は勝負に負けた。人生の岐路ともいえる重要な勝負に。
負け続きの私の人生の中でも、今回の敗北は特に手痛いものだった。もはや再起を賭けて次の勝負を挑むだけの気力もなかった。完全に、私は打ちのめされていた。
「蛮」
それが、私に敗北の辛酸を舐めさせた敵の名だった。それは、決して人の名ではない。悪魔の名だ。──いや、そうした比喩的な表現を使いたかった訳ではない。
「蛮」は、ある店の名だった。
ラーメン屋だ。正確には、タンメン屋と呼ぶべきだろうか。
「タンメン専門店 蛮」
そういう看板が出ている。年季を感じさせる店構えにふさわしい、それは毛筆体の文字で書かれた大時代的な看板だった。その看板が、「この店はうまい」と言外に語っていた。
わかる人間が見ればわかるものだ。うまい店が持っている独特の雰囲気とも言うべきものを、「蛮」は強く周囲に放っていた。それを見逃すほど、私は不注意な人間ではなかった。
初めて「蛮」を見かけたのは、一ヶ月以上も前のことだった。偶然、車で店の前を通りかかったとき、私は直感的に確信した。この店はうまい、と。
事実、そのとき店内には何人もの客がいた。ラーメン屋特有の活気に包まれたその店の雰囲気は、決して私の嫌いなものではなかった。 昼食を済ませたばかりであるにも関わらず、私は思わず店内に入ろうとさえしていた。車を停めておく場所さえあれば、本当にそうしていたかもしれない。
が、その時の私は甘かった。
いつでも食える。そう考えた。
いつものように、と言うべきだろうか。そうした甘い認識と共に、私は「蛮」に入る機会を次にゆずった。
が、その後、一転して「蛮」は私の入店を拒んだ。
店員が拒絶するわけではない。店自体が、私を拒絶するのだ。いつ行っても、店が開いていないのである。シャッターが下りているのだ。
曜日と時間を変えて、私は何度となく挑戦した。その、私の飽くことなき挑戦のことごとくを、「蛮」は撥ね返してきたのである。ただ一枚の「休業中」の立て札によって。
私の行く時間帯にも、たしかに問題はあった。私的な都合上、どうしても午後七時以前に行くことができなかったのだ。しかし、午後七時で営業を終える飲食店など、この世に存在するだろうか。おまけに、看板には「年中無休」とまで大書されているのである。
当然のことながら、営業を停止している可能性についても私は考えた。だが、「昼間見たら開いてた」という友人の証言により、その考えは即座に否定された。
なぜそのとき店に入らなかったのか、と私は友人を叱責した。自分のことは棚の上だ。
「だって俺、タンメン嫌いだし」
そう答える友人の顔面に右ストレートを叩き込みたい衝動に駆られたが、かろうじて私はそれを抑えることができた。そうして、どうにか情報を入手した。
水曜日午後8時。
それが、友人の確認した時刻であった。その曜日のその時刻に「蛮」は営業している。確実な情報のはずだった。たしかにこの友人は私と親交が深いだけあって人格的に問題はあるが、それでもこんな下らないことで嘘をつくほど落ちぶれてはいないはずである。
真冬の寒風に吹かれ、私は「蛮」へと向かった。
交通手段はなく、徒歩だった。かなりの距離だった。が、私は歩いた。タンメンのために。
――そうして、いま私は失意と絶望の底にいる。
「蛮」は閉ざされていた。私はタンメンを味わうことなく、帰途についた。
真冬の夜半。こんな日に限って、強い風が吹く。どうしようもないほど冷たい風が、私に吹き付けられる。寒かった。寒くてたまらなかった。所詮、私のタンメンへの想いは通じないのだろうか。
これほどに恋い焦がれても、決して彼は私に手を差し伸べてはくれない。なぜなのか。
それとも、私のタンメンへの想いが、まだ足りないのだろうか。
ああ、タンメン。どうしてあなたはタンメンなの?
風は、時間を追って強くなるようだった。これほどに寒いのは、タンメンを口にすることができなかった徒労感ゆえなのだろうか。
何か、温かい物がほしかった。チャーシューメンでもワンタンメンでもジャージャーメンでも良かった。別に麺類でなくても良いようにも思えたが。冷やし中華でさえなければ、何でも良かった。
いや、とりあえず飲み物だ。温かい飲み物。幸い、私の行くすぐ先に自動販売機がある。
私は変わらぬ歩調で自販機に近付き、財布から小銭を出した。取り出したその小銭を自販機に投入し、紅茶のボタンを押した。コーヒーでないあたり、私の上品さがうかがえよう。
言うまでもないことだが、私は温かい紅茶を買ったのだ。そのためのボタンを、私は間違いなく押した。
出てきたのは、冷たい紅茶だった。
もしや、あまりの寒さに一瞬で温かい紅茶が冷たい紅茶になってしまったのだろうか。
有り得る。
気を取り直し、私は再挑戦した。思えば、このとき他の自販機を探すという選択肢もあったのだが、それは後から気付いたことだ。この時の私は、とにかく一刻も早く温かい飲み物がほしかった。
まさか自販機の温度設定が間違っているとは思わなかったが、念には念を入れて、私は前回と違うボタンを押した。温かい紅茶だが、銘柄が違う。
出てきたのは、やはり冷たい紅茶だった。
寒風吹きすさぶ真冬の路上で、私はそうして冷たい缶紅茶2本を手にたたずんだ。こういう時だけ、私は神の存在を信じる。罵倒すべき対象として。
だが、そうしたところで事態が好転することはない。冷たい紅茶が温かい紅茶になったりすることはないのだ。
なす術もなく、私は缶紅茶の一本を開栓した。貧乏人の私に、それら2本の缶紅茶を投棄するだけの根性はなかった。加えて言うならば、3度目の挑戦を挑むほどの余剰資産も持ち合わせてはいなかった。
冷たい紅茶を、冷えた身体に流し込む。
よく冷えていた。なにもここまで、というほど冷えた缶紅茶だった。一口飲んだだけで、全身にその冷たさが伝わる。ヤケ気味になって、二口、三口と飲むうち、一人我慢大会的様相を呈してきた。私は一体、何をやっているのか。
寒い。
身も心も、――そしていつものように懐までもが、とにかく寒くてたまらなかった。
