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 File.29  蛮


 その蛮は、近来まれに見る寒さだった。
「蛮」とは、あるタンメン屋の名前である。この数ヶ月というもの入りたくても入れなかった、伝説のタンメン屋である。何度となく私の挑戦を撥ね返してきた宿敵の名だ。
 一体、この日この時に至るまで何度、「休業中」の立て札を突き付けられてきたことだろうか。両手の指では足りない。それは確かだ。ややもすると、足の指を加えてもたりないかもしれない。思い返すだけでも屈辱的な、それは敗北の日々だった。

 が、今。私の目の前で、「蛮」は営業している。
 正午。真冬の弱い日差しを浴びて、「蛮」の店先には「営業中」の看板が出ているのだった。
 最初からこうしていれば良かったのだ。馬鹿みたいに夕方以降にばかり挑戦してきたのが間違いだった。好きでそうしてきたわけではないのだが、少々意地になっていたのも確かだ。
 なにがなんでも夜に食ってやる。そう思っていた。が、もはやそんなこだわりは放棄した。とにかく勝つことだ。そのためには、勝ち方などにこだわっている場合ではなかった。
 結果、ついに私は勝利したのだ。いま私の立っているこの地点から店までの数メートルを歩く間に地殻を変動させるほどの大地震が起こったり某国からの核ミサイルが打ち込まれたりでもしない限り、私の勝利は揺るぎない。凱旋の英雄気取りで、私は「蛮」までの数メートルを進んだ。

 地震も核戦争も起こらなかった。私は無事、店先までたどりつくことができた。
「蛮」の入り口は手動の引き戸になっていた。
 私は小さく武者震いし、それから意を決して扉を開けた。

 店内には誰もいなかった。
 誇張ではない。客はおろか、店員さえもいなかった。これは一体どうしたことか。私に恐れをなして逃げだしたのだろうか。
 私は途方に暮れ、店内を見回した。カウンター席が5つほど。四人掛けのテーブルが2つ。小規模な飲食店の見本みたいなレイアウトだった。カウンターの向こうがすぐ厨房になっていて、本来ならばそこには店員の姿があるべきだった。
 店内はよく片付けられていた。まるで、たったいま店を開いたばかりのようにも見えた。TVやラジオ、有線といった物もなかった。シンと静まり返った店内に、私は一人立ち尽くした。
 ――いや、立ち尽くしている場合ではない。

「すいませーーん」
 私は声を張り上げた。
 そうする以外、私にできることはなかった。
「もしもーーし」
 どこともしれない誰かに呼びかけながら、私は狭い店内を歩いてみた。ひょっとしたら、どこかに店員が隠れているかもしれない。もしかすると、客も一緒に。
 しかし、店内には誰もいなかった。私の呼びかけに応える声もなかった。

 厨房の窓ガラスが開かれていて、そこから風が吹き込んでくる。寒い。入り口の扉を開きっ放しにしていたのがマズかったようだ。非常に風通しの良い店内で、外よりも強い風が吹く。
 といって、入り口の扉を閉めるのもなにやら気が引ける。別に後ろめたいことをするつもりではないが、その気になればレジの現金を奪うことはおろか、厨房のタンメンを持ち逃げすることさえ可能なシチュエーションであった。
 まぁ、すぐに店員がもどってくるだろうと思い、私はしばらく待つことにした。
 そうして、一分が経過し、二分が過ぎ去った。
 店員は姿を見せない。
 三分が経過するに及んで、私は一つの考えに思い至った。

 もしや、ここはセルフ・サービスの店なのではっ!

 調理まで客にやらせるとは、なかなか画期的なセルフ・サービスぶりである。かたづけられたドンブリなどから察するに、使用後の食器洗いまで客の方でやらねばならないらしい。最後には、レジに代金を収めて行かねばならないのだろう。これを新機軸と言わずして何と言うのか。どこか破綻しているようにも思えるが、どうやらこの店はそういう経営方針らしい。ここの店主は性善説の信奉者に違いあるまい。
 しかし、気になるのは店内のどこにもそれらしき表示のないことだ。普通、こういう店には「当店はセルフ・サービスです」という旨の掲示がなされているはずである。それとも、どこか見えない所に書かれているのだろうか。キャッチバーの値段表みたいに。
 自由に使えるはずの厨房への入り口が見当たらないのも、疑惑に拍車をかける。カウンターを乗り越えて行け、ということなのだろうか。それは、あまりに客への負担が大きすぎやしまいか、「蛮」よ。

 だが、どうやらそうする以外にこの店でタンメンを食する方法はないようだった。いくら待っても店員は姿を見せず、再三にわたる私の呼びかけに応じる者もいない。
 せめて、セルフ・サービスの手本を示してくれる客だけでもやって来てくれないだろうか。正直なところ、このカウンターをよじ登るのには勇気がいる。事情を知らぬ者から見れば、その姿は犯罪者そのものだろう。タンメン一杯のためにそこまでのリスクを背負うことができるほど、私は若くなかった。
 いや、あるいはこれこそが試練なのか。カウンターを乗り越えることができた者のみがタンメンにたどりつけるという試練。……だとするならば、私はその試練の前に敗れたと言えよう。「蛮」侮りがたし。

 更に数分の時が流れるも、事態には何の変化も訪れなかった。
 店員はもどらない、客は来ない、風は寒い。
 カウンターの前で、私はうなだれた。微笑みかけた勝利の女神が通り過ぎて行くのがわかった。またしても、私は敗北したのだ。
 はい、僕は敗北しました。
 寒い。
 とにかく寒くてたまらなかった。



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