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 File.31  開封方式


 マズいことになった。ミスだ。失態だ。取り返しのつかない馬鹿をやらかした。どうすれば良いのだろうか。どうにもならない。既に事は済んでしまったのだ。
 私は悔やんだ。痛いほどに唇を噛み、自らの愚かさを嘆いた。まさか、こともあろうにこのような失敗を犯すとは──。全ての非は私にある。それは認めよう。だが、それを認めた上でなお苦言を呈さずにはいられない。

 何故、コンビニのおにぎりは、こんなにも開封しにくいのか。

 そう、例のアレである。各地のコンビニエンス・ストアに於いて100円前後で販売されているアレだ。炊いた米を三角形に握り、海苔を貼り付けた上で咀嚼するアレである。鮭やら梅干しやらオカカ、果てはカニマヨネーズなどという神をも恐れぬ具材が内包されたアレだ。
 そういえば、何でオカカはオカカと言うのかふと疑問に思ったが、今はそんなことを問題にしている場合ではない。まぁ、カニマヨネーズをおにぎりにブチ込もうと考えた人間の精神状態ほどには疑問ではないが。

 問題は、おにぎりの開封法についてだ。
 コンビニおにぎりの包装規格については、既に多くの識者が論じている。その多くは、製造各社によって包装の規格が異なることによって引き起こされる弊害についての指摘である。
 弊害とは、たとえば包装を解こうとしておにぎり本体を落下、クズカゴへ直行させ咀嚼不可能な事態に陥るだとか、ラベルに邪魔された赤テープを力まかせに引っ張っておにぎり本体を真っ二つに割ってしまうだとかいった事態のことだ。
 そうした、主に自分自身が見舞われた災害を挙げて、識者達は提言するのである。おにぎりの開封方式を統一せよ、と。
 私も、つねづねこの提言には賛同していた。ことあるごとに「おにぎりの開封方式を統一せよ」と各方面に訴えてきた。各方面というのは大体が私の友人や家族であって、おにぎり業界に何の影響力も持っていないというのが実状なのだが。

 そうした状況の中、今回の事件が私を襲ったのである。
 海苔だ。三角形に固められた米を包むための、黒いシート状の物体。
 それが、破れた。いや、裂けた、と言うべきか。それはもう、みごとなほど真っ二つに裂けたのである。何もここまで、というぐらい綺麗に裂けた。完璧な左右対称形に裂けたのではないかと思えるほど、それは美しい裂け方だった。
 ゲームをやりながら開封したのがいけなかったのかもしれない。なにしろ、急いでいた。対戦ゲームの最中だったのだ。
「そんな時におにぎりを食うな」という批判は的外れである。「そんな時」に食うためのおにぎりなのだから。
 そもそも、片手でおにぎりを開封しようという考えが間違いだったのか。いや、違う。片手で開封できないようなおにぎりを作っている製造元が間違っているのだ。
 あんな物は最初から米に貼り付けておけば良いではないか、と私などは思うのだが、どうもおにぎり関係者は私のようには考えていないようで、多くのコンビニおにぎりは米と分断された形で海苔が収められている。
 おそらく、パリパリの海苔で米を包んだ方がおいしいではないか、というのが彼らの言い分であると思うのだが、そんなことは大した問題ではないと私は確信する。
 ベタベタな海苔でも良いではないか。パリパリの海苔でおにぎりを咀嚼するという、そんな些末な事象の実現のためにあれほど包装に苦心する必要が、どこにあるのか。コンビニおにぎりの海苔は、すべからくベタベタであるべきなのだ。パリパリの海苔を貼り付けたおにぎりなど、邪道である。
 だが、そういう私の主張もむなしく、コンビニの棚は相も変わらずパリパリ海苔のおにぎりによって占拠されている。仕方なく、私も主張を曲げてそれらのおにぎりを購入するのだが……。

 聞くところによると、コンビニのおにぎりというのはなかなかの人気商品らしい。店舗によっては、棚に並べられるや否や電光石火の速さで売り切れるそうだ。それほどの人気商品が、ああも扱いにくい形態であって良いのか。もう少し、どうにかすべきではないのか。たとえば、おにぎり本体と海苔を別売りにするとか、決して水分を吸収しない海苔を用いるとか、人力程度では破れない海苔を用いるとか。

 しかし、とりあえず現在只今の私に与えられた命題は、この真っ二つに裂けた海苔を使って、いかにおにぎりを食うかということだ。犯してしまったミスは仕方ない。大事なのは、そのミスをどうやってフォローするか、である。人間の価値は、これで決まると言っても良い。
 最も簡単かつ効果的な方法は、「なかったことにする」という方法だろう。つまり、「海苔は裂けなかった」のだ。真っ二つに裂けているように見える海苔を、あたかも一枚の海苔であるかのように扱うのである。これは決して不可能な方法ではない。手先が器用な人間であれば、だれにでも簡単にできることだ。もっとも、手先が器用な人間はそもそも海苔を裂いたりすることはないのかもしれぬが。
 次なる方法としては、「海苔を放棄する」という手段が挙げられよう。海苔の存在自体を否定してしまおうというこの方法は、己のミスを意識の外に放逐してしまうという実に優れた点を持っている。これを実行すれば、もう真っ二つに裂けた海苔を目にして自己嫌悪する必要もないのだ。ただ一つ、手が汚れるという欠点はあるが、これはまた別の問題だ。
 そして、最後の手段として「おにぎり本体をも放棄する」という選択肢もある。これは実に潔い選択であると言えよう。己のミスを認めるのならば、ここまでやるのが正しいのかもしれない。日本男児たるもの、これぐらい潔い人生を覚悟すべきである。私は嫌だが。

 思案のすえ、これらの選択肢の中から私は二つ目の方法を選んだ。
 海苔は海苔単体として咀嚼、嚥下し、おにぎり本体だけを手に取った。手が汚れるのを防ぐために、おにぎりを包んでいた透明なセロファンを使って、それを持ち上げる。何故だか、いつものおにぎりがひどく重たく感じられた。
 ――そして、また新たな苦悩が私を苛む。
 持ちにくいのだ。何故、おにぎりを包むセロファンはこんなにもベタベタと米にくっつくのか。もう少し考えた方が良いのではないか、おにぎり業界よ。

 などと考えている間に、さらなる悲劇が私を襲った。
 具材(カニマヨネーズ)が落下したのである。ベチャッ、と音を立てて、カニマヨは畳の上に飛び散った。とうてい、回収は不可能であった。
 私の手元には、そうして海苔と具材を失った米の塊が残された。畳の上に広がったカニマヨを見つめながら、再び私は自らの愚かさを嘆くのであった。嘆きながら、ただの米の塊と化したそれを食らうのであった。いつか、決して破れることのない海苔が製品化される日を信じて。



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