File.33 ない
ない。
ないのである。
いや、財布の中身がないのは今に始まったことではないので、問題はそれではない。頭蓋骨の中身がないというのも、まぁこのさい目をつぶっておこう。そんなことは些細な問題だ。――そう。いま私を襲っているこの事態にくらべれば。
スプーンがないのだ。日本語で言うところの匙である。医者が投げるアレだ。それがない。
そして、存在しないそれを必要とするモノが、いま私の目の前にある。
アイス・クリームだ。言うまでもないが、カップに入ったヤツである。棒に刺さっているようなヤツではない。それにスプーンは必要ない。
つい十分ほど前、近所のコンビニエンス・ストアで購入したものであった。
早い話が、店員の怠慢である。スプーンをつけ忘れやがったのだ。その場で指摘しなかった私にも非はあろうが、それは二次的なことだ。客が何も言わなければ、スプーンをつけるのは当たり前ではないのか。いくら可愛い女性店員でも、許されることではないぞ。「許して♪」とか可愛い声で言われたら、許してしまうかもしれないが。いや、そうでなくて。
とにかく、スプーンだ。どうしたものだろうか。
私は目の前のカップ・アイスに視線を落とした。
「スーパーカップ(バニラ味)」である。何度聞いてもカップ・ラーメンみたいな名前なのだが、どうにかならんものだろうか、これは。
以前、ある友人に「スーパーカップを買ってきてくれ」と頼んだところ、まったく同じ名前のカップ・ラーメンを買ってこられて途方に暮れたことがある。そういえば、あの時も箸が入っていなかった。あの時はどうしただろうか。ストローを2本使って食べたのは、また別の時だったと記憶している。
ストローを使ってラーメンを食べるのには、ちょっとした技量が必要である。なにしろ、すぐに折れるのだ。おまけに、よく滑る。ストローを使ってツユを飲もうものなら、舌をヤケドすることは必至だ。馬鹿の所業である。
話がそれた。ストローでアイスを食うことはできない。ストローを箸の代替物として使用したように、今回も何かスプーンの代替となる物を探し出さねばならないようだ。それ以外、目の前のスーパーカップを片付ける方法はない。
代替物、代替物……。
まず考え付くのは、自前の指だ。最もポピュラーな代替物であり、また歴史と伝統のある方法とも言えるのだが、これは実に危険である。頭の不自由な人だと思われる可能性があるためだ。いや、私の頭が不自由であることは論をまたないのだが、必要以上にそう思われるのも、あまり愉快なことではない。そういうワケで、これは最後の手段だ。
その「最後の手段」を取ったことが過去に何度かあるようにも思うが、あまり考えないことにしておいて……と。
他の代替物を探して、私は周囲を見回した。言うのが遅れたが、ここは私の自宅ではない。ゲームと漫画しかないことで有名な友人宅だ。スプーンや箸などといった文化的な代物は、この空間には存在し得ない。
まず目についたのが、ゲームのCDである。厚さといい耐久度といい、申し分ない。ただ、少し大きすぎるのが難点か。とりあえず、次善策として保留しておく。
次に目に付くのが、部屋中に散乱している漫画雑誌だ。表紙などを切り取って何枚か重ねれば、使用には十分耐え得ると思われる。衛生的に少々問題があるような気もするが。
次に、MDが目に入った。厚みがありすぎるようにも思うが、そのコンパクトさには惹かれる。CDよりは、数段使いやすいだろう。
他には……、
……ない。
実に恐ろしいことだが、室内をどれだけ見回してみても、その程度の物しか見当たらないのである。生活必需品という物が、まったく存在しない。……もっとも、それらがスプーンの代わりになるかどうかは別の問題だが。
「どうした?」
この時になって、ようやく友人が私の行動に気付いたようだ。室内を物色していたのが露見したらしい。
「スプーンがないのだ」
「スプーン? ……ああ、そのアイスを食おうというのか」
「そうだ。あのコンビニの店員め、スプーンをつけ忘れおったのだ。ちょっと可愛いからといって、いい気になっているのではないか」
「それは関係ないと思うが。……ちょっと待て」
そう言って、友人はゲームの手を止めた。そうして、雑誌の山の上から一枚のCDを取った。パソコン雑誌の付録CDのようだった。
友人は、それを真っ二つに折り、更に二つに――つまり四つ割りに折った。そして、そのうちの一片を私に手渡した。その行動には、何の迷いもなかった。今までに何度も繰り返した行動のように、それは洗練された動きだった。
「……なぁ」
キラキラと光るそのスプーンを受け取って、私は言った。
「マトモなスプーン買えよ」
「必要ない」
「いや、現にこうして必要な事態に迫られているのだが」
「だから作ってやったろうが、スプーン」
「これをスプーンと呼ぶのか、君は。この円盤状の記憶媒体を」
「いらないなら、返せ」
「いや、いる」
そんなやりとりをしながらも、既に私はアイスのフタを開け、光るスプーンを動かしていた。
実に使いやすいスプーンであった。
アイスは少しばかり溶けていたが。
