File.34 落ちろぉッ!
オチが弱いのだそうである。
何のことかというと、私の雑文のことだ。
「出だしは良いが、詰めが甘い」
各方面から、そういった指摘は受けてきた。
「これは話の途中ではないのか」
そのような批判を受けたこともある。それも、一度や二度ではなく。
そんなことはわかっている。自分の雑文のオチが弱い(というかない)ことぐらい、書いている本人が一番よく理解している。──が、まさか母親にまで指摘されるとは思わなかった。
言っておくが、私が自ら進んで読ませたわけではない。私はそこまで愚かではない。我が母は、あろうことか、勝手に私の作品を読んだのだ。いや、作品なんていうほどの物でもないうえに、私自身がパソコンの電源を入れたまま外出したのが悪かったのだが。
しかし、だからといって普通読むものだろうか。見て見ぬフリをするのが親心というものではないだろうか。そう、息子の部屋でいかがわしい雑誌を見つけてしまった母親のように。――いや、私は見つけられてないが。というか、そもそも見つけられるようなモノは置いてないが。いや、本当に。
そういう、親と子の間にある暗黙の了解を無視して、my母は私の雑文を読みやがったのである。あまつさえ、読みやがったその後で、「つまらない」などと言いやがったのだ。加えて、「オチがない」とまで、のたまわりやがったのである。
何様のつもりなのだろうか。母上様であることは認めるが、だからといって勝手に私の部屋に上がり込み私の作品を閲覧するだけの権利があるとは認められない。「つまらない」などという発言は言語道断である。お世辞でも良いから「面白い」と、なぜ言ってくれないか。
「お世辞なんか言っても、あんたのためにならないでしょ」
とのことである。ごもっともです。母よ、あなたの教育は正しい。
しかし、私が思うに
「お世辞なんか言っても、何のメリットもないでしょ」
というのが本心ではあろう。
くそ、オレが売れっ子作家になっても食わせてなんかやらねぇぞ。
一生果たせない報復宣言かもしれないが。
……と、妄想の中で報復しておいて、さて本題に入ろう。
今回のテーマは「オチの強化」である。一体どうすれば、雑文のオチを綺麗に落とすことができるか。
これは、なかなかに深遠なテーマである。そして、実に難しい。一度でもこういった雑文を書いたことのある人ならば、それは身をもって理解されていることであろう。
何も考えずに書き始め、オチがつけられなくなって苦悩する。そういう体験をしたことが少なからずあるはずだ。ひどい場合、オチに至るまでの長広舌よりオチの数行の部分の方が時間がかかるということもある。もっとひどい場合にはそのままオチをつけずに終わったり、より最悪のケースでは「オチがありませんが気にしないでください」などと開き直ったりする。スマン、私だ。
こういった失敗を犯さぬようにするには、どうすれば良いか。
簡単なことだ。一番最初にオチを考えてから書き始めれば良い。しかし、これを実践すると私の執筆速度は限りなくゼロに近付く。決してゼロそのものではないが、ほとんどそれに近い。なにしろ、オチを考えてから書き始めたことなどないのだ。白状するだに恐ろしいことだが、私は常に書きながらオチを考えている。――そして失敗している。
念のために言っておくと、今回もその手法をとっている。それ以外の手法を知らぬとはいえ、まったくもって懲りない人間である。馬鹿なのであろうか。
ついでに言っておくと、この時点でまだオチは一つも考えついていない。大丈夫なのか。今回ばかりは「オチがありませんが、いつものことですね」というような開き直りは許されないぞ。「申し訳ありません」とか謝罪しても駄目だ。
……何か、自分を追い詰めているような気がする。本当に不安になってきた。今回の作品に自分の雑文作家生命がかかっているのではないか。今のうちに謝っておいた方がいいんじゃなかろうか。ごめんなさい。とりあえず、無闇に謝ってみました。
少しばかり気が軽くなったような感じがするので、では続けよう。
オチというものには、いくつかのパターンがある。
たとえば、どんでん返し。怪談調の語りで話を進めておいて最後で笑い話に落とす、とかはこれにあたる。「恐怖のシューマイ」などが、これの白眉と言えよう。
そういえば先日、「恐怖のシューマイ」を知らないという人に出会った。初めて聞いた、と言うのである。私は驚いた。私の認識としては、ほとんど一般常識に近いものだと思っていたのだが。一体どういう教育を受けたのだろうか。
「恐怖のシューマイ」のように含蓄のある話は義務教育で教えるべきなのではないかと私は考える。この場合、国語の授業で扱うべきか物理の授業で扱うべきか。家庭科という選択も有り得るが。――おっと、小中学校で物理の授業はない。理科である。こうした誤謬は即座に指摘されるので、気をつけねば。
まさか、これを読んでいる人の中で「恐怖のシューマイ」を知らない人はいまいと思うが、もし該当者がいた場合、こちらへ反省文を提出するように。
さて、オチのパターンとして次に挙げられるのは駄洒落オチである。これに説明は不要であろう。
「隣の垣根に家ができたってねぇ」
「イエーー!」
というヤツである。雑文なのか、これは。
このパターンを成功させるのに要求されるのは、駄洒落のセンスのみである。つまり、私には無理だということだ。「サンマはマグロに限る」とかの駄洒落で大笑いしているようでは駄目なのである。「産婆は喪黒に限る」とかも同様だ。しかしこれ、原典を知らない人にとっては面白くもなんともない駄洒落だな。まぁ、駄洒落なんて大体そんなもんだが。念のために言っておくと、喪黒とは「笑ウせえるすまん」の名である。
……説明せねばわかってもらえないようでは、駄洒落としては最低クラスだな。しかも意味不明だし。
3つめのパターンは、最もオーソドックスな方法。つまり、論調を変えることなく流れるように結論へと導いてゆく方法である。
たとえば、「コンビニで買ったアイス・クリームにスプーンがついていなかった」という書き出しで始めたとする。このテーマを演繹的に展開させていった場合、最後に導き出される結論は「近くのコンビニまで匍匐前進でスプーンを取りに行く途中、2tトラックに撥ねられた」といったものになるはずである。それ以外に、「スプーンの代用としてアナログ盤を割ろうとしたが、その場にないので仕方なく近くのレコード屋まで匍匐前進で取りに行く途中、2tトラックに以下略」という結論も考えられよう。いずれにせよ、CDを割ってスプーンの代用にするなど論外である。CDはフリスビーの代用品であって、断じてスプーンの代用品などでは有り得ない。
さて、オチをつける方法として3つの代表的な手法を挙げてみた。今回の雑文に最も適しているのは、これらのうちのどれだろうか。
まず「どんでん返し法」だが、これは難しい。そもそも「オチの強化」というのが今回の主眼であって、これをどんでん返しでひっくり返そうと思ったら、これはもう「オチなど不要である」という路線にならざるを得ないわけで、開き直っているのと変わりない。というか、いつものパターンがまさにそれではないか。この方法は棄却である。
第二の「駄洒落法」については、最初から諦めている。私の駄洒落精製能力は、常人のそれと比較してみても著しく劣っているのだ。「アルミ缶の上にあるミカン」などという駄洒落で笑っていた自分を恥じるのみである。さすがに「布団が吹っ飛んだ」では笑えなかったが。
となると、最後の「演繹法」に頼らざるを得ないということになるのだが、いまだにオチの片鱗すらも思い浮かんでいない現状を考えるに、難しいものがある。一体どうすれば、「流れるような結末」に持っていくことができるのか。
淀みなく流れる川のような論理と、その結論――。
実に美しいものである。
私の文章などといったものは、さしずめ栓塞を起こした血管のようなもので、見苦しいことこの上ない。自覚しているだけまだマシかもしれないが、解決しようと思わなければ自覚していないのと同じである。だからこそ、こうして苦悩しているのだが……。やはり栓塞している。
願いを込めてつけた今回のタイトルだったのだが、どうやら願いは通じなかったようだ。どうしても、「流れるような結末」が思い付かない。
そんなわけで、今回のオチは公募します。我こそはと思う方、あなたの考えたオチを当方へメールで送付してください。あなたのネタを世に知らしめるチャンスです。「演繹法」に限らず、「どんでん返し法」でも「駄洒落法」でも構いません。あなたの会心のオチをお待ちしております。
最後になりましたが、タイトルの元ネタがわかる方はオタクだと自覚しましょう。
