File.37 深夜タクシー
あれは、3年前の夏の日だった。
昼ごろから降り始めた雨は夜半になってその勢いを緩めはしたものの、小糠雨のようになってしとしとと降り続けていた。どこか生温い感じの、嫌な雨だった。
その日、私は旧友を訪ねて東北のある街に来ていた。学生時代の友人で、もう何年も会っていない男だった。その彼から、先日、手紙が届いたのだ。遊びに来い、と。私は彼の自宅を訪れたことはなかった。手紙には地図が添えられており、最寄りの駅からの経路が記されていた。徒歩で15分ほど、ということだった。
少し複雑な道順だったが、歩いて行けるだろう。私は、そう判断した。――が、駅を降りた私を迎えたのは、夜の街並みを煙らせる霧のような雨だった。滅多に利用することのないタクシーを使うのに、それは十分な理由だったろう。
無愛想な運転手だった。初老のその運転手は、私が乗り込んでも一言も言葉を発さず、行き先を告げると無言のまま車を発進させた。
その時点で、私は既に違和感のようなものを感じていたかもしれない。無愛想なタクシーの運転手というのは珍しくないが、その男は度を越えていた。口を開くことで何か不利益を被るとでも考えているのだろうか――。私は、そう思った。
それでも、運転さえ普通にやってくれれば問題はなかった。おしゃべりな運転手よりは、無口な運転手の方がマシというものだ。
その運転手も、車の運転自体は何の問題もなかった。免許証を持っている私から見ても、特に目に付く点はなかった。いや、むしろ私よりよほど上手かった。ただ、どういうわけか、その運転手は不自然なほどに落ち着きがないのだった。変にそわそわしているとでもいうべきか。やたらと左右を見回したり、意味もなく身体をさわったりと、とにかくじっとしていない。少し不快感を覚えるほどだった。
が、
――ほんの十分ほどのことだ。
私は自分に言い聞かせ、その運転手を意識の外に追い出そうとした。
そうして何気なく車内に目をやっていた時のことだ。シートの下に、黒く光る物が落ちているのに気付いた。私は後部シート左側に腰を降ろしていたのだが、その右側シートの陰に隠れるようにして、何かが落ちていたのである。
よく見ると、それはハンドバッグであった。女性用の割と小さな物で、どこかのブランド・マークが入っていた。あいにくそういったものに疎い私にはそのブランド名がわからなかったが、安い物でないことは何となくわかった。
前の乗客の忘れ物だろうか。普通なら、それ以外には考えられない。だが、忘れ物ならばシートの上にあるのが自然ではないだろうか。
私は、思わず運転手に目を向けた。相変わらず落ち着きのない様子で、運転手はハンドルを握っている。私は何故か、ハンドバッグのことを運転手に告げられなかった。
見なかったことにしよう。そう考えていた。何故、そんな風に考えたのかわからなかった。ただ、私に告げる義務はない。言いわけのように、そうやって自分を納得させていた。
車内には沈黙だけがあった。一度も口を開かない初老の運転手は落ち着きのない様子で、しかし熟練した技術で車を静かに走らせる。
駅から5分ほども離れると、周囲は田畑に囲まれた田舎の風景になった。街灯は少なく、道は暗い。人影はまばらだ。重い雲が垂れ込めて、雨は収まる気配がなかった。こびり付くような雨粒がフロントガラスに貼り付いて、古い車体なのだろうか、ワイパーが動くたびに耳障りな金属音が響く。沈黙が重かった。
早く着いてくれ──。そればかりを、私は考えていた。
何度目かのカーブを曲がり、車はますます人通りのない道に入った。
おや、と思った。
道が違う。
地図をポケットから取り出し、確認した。やはり違う。どう見ても、この道ではない。
だが、私は運転手に声をかけなかった。――いや、かけられなかったと言うべきだろうか。きっと近道なのだ、と思うことにした。それ以外の理由は考えられなかった。いつの間にか、私は全身に汗をかいていた。その冷たい汗を拭くこともできないまま、私はルームミラーに映る運転手の姿を見据えていた。
運転手は色の付いた眼鏡をかけている。ミラーを通して、色付きレンズの向こうで運転手の目が微かに笑っているように見えた。
その目と合って、私は思わず目を伏せた。
――と、
ふいに車が減速した。
運転手がブレーキを踏んだのだ。少し急ブレーキ気味に、そうして車は路肩に寄って止まった。
もう着いたのか?
そう思って周囲を見回すが、視界に入るのは僅かばかりの民家と田園風景ばかり。友人が借りているというアパートらしきものなど、どこにも見当たらない。加えて、人影の一つさえもなかった。
どういうことかと運転手に問う暇もなかった。慌てた様子で、運転手は助手席側にあるダッシュボードを開き、その中へ手を突っ込んだ。尋常な様子ではなかった。勢い良く開かれたダッシュボードの中から、丸められたハンカチが転がり落ちた。真っ白なそのハンカチには、鮮やかなまでに赤い液体が染み付いていた。
それが、私の限界だった。
「こっ、ここで降ります!」
私は言った。声が上ずっていたかもしれない。
運転手は答えなかった。私の方を振り向きもせず、彼はダッシュボードの中を掻き回していた。私は汗ばんだ手で財布を引っ張り出した。料金メーターを見ると、530円。財布から500円玉と100円玉を取り出して、投げ捨てるようにアームレストに置いた。
置いたその右手が、強くつかまれた。心臓が跳ねた。運転手の手は冷たかった。
ポツリ、と私の手に赤いものが落ちた。
血だった。たったいま流れ出たばかりの、それは真っ赤な鮮血だった。
「な……!?」
私は戦慄した。力まかせに、運転手の腕を振りほどこうとした。
それと同時に、運転手が言った。
「……チリ紙、持ってない?」
見ると、運転手は鼻血を出していた。
「いやぁ、今朝から鼻血がとまらなくってさぁ。医者に行った方がいいかなぁ、これ」
妙に陽気な感じで運転手が言い、私は大きく溜め息をつくのだった。
