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 File.46  禁断の地


 先日、大学の講義に潜り込んだときのことだ。――いや、潜り込んだなどという表現は良くない。ただ学生証もなく授業料も払っていない大学で1時間20分ほど講義を拝聴させていただいただけである。
 まさか、この歳になって――というほどの年齢ではないが、講義を受ける羽目になるとは思わなかった。いかなる理由で私がそのような状況に陥ったのか敢えて説明する気もないが、要するに付き合わされたのだ。
「オレが受けるのだからオマエも受けろ」
 そういった非常に論理的かつ単純明解な言葉によって、私はその友人に付き合わされた。「オレ」などと言ってはいるが、友人は女性である。一応。たしか。

 自分のことを「オレ」と呼ぶ女性は少ないと思う。普通は「あたし」や「私」であろう。「あたい」、「ウチ」、「わし」、「あちき」なども一般的だ。
 どうして「オレ」なのか、彼――いや彼女に訊ねてみたことがある。……というか、いま訊いた。そう、現在講義の受講中なのである。あまりにもヒマなので、こうして筆を執った次第だ。
 こういう時は自分が雑文作家で良かったと思う。そうでなければ、ヒマをこじらせて死んでいたかもしれない。……何なんだよ、雑文作家って。
 それはさておき、「オレ」問題である。彼女の言うには、「子供のころは『あたし』だった」ということだ。では何故「あたし」が「オレ」になったのか、と私は訊ねた。彼女は少し考えた末に、こう答えた。
「昔は自分がスゴイ可愛い女の子だと思ってたんだ。自分はメチャクチャ可愛い子で、誰からも好かれてるって。だから『あたし』って言ってたんだ。その方が可愛いだろ?」
 絶句した。返す言葉もなかった。あきれてモノが言えない、というのはこういうことかと理解できた。まぁ、何を可愛いと感じるかは人それぞれであるから、その感性に批判を加えるつもりはないが、しかしそれにしても……。
 あきれ果てる私の前で、彼女は続けた。
「でも、中学に入ったころから、自分はそんなに可愛くないんじゃないかなぁと思ってきて。それで『オレ』にしたんだよ。言いやすいし」
 あぁ、なるほど。しかし、「そんなに可愛くない」か。……ということは、少しは可愛いと思っているのだな。まぁ、その程度ならば譲歩しよう。私はそこまで無慈悲ではない。では、講義の受講に戻ってくれたまえ。

 思い切り話がそれたが、とにかく私は80分間拘束された。
「小説批評」とかいう講義であったかと思うが、始まって10分としないうちに私は友人の陰謀に気付いた。陰謀とは即ち、「オレは普段こんなにもつまらない講義を受けさせられているのだ」という不幸自慢に他ならない。つまり、私は生け贄として捧げられたのである。
 さて、その講義を受けていると、不思議に思うことがあった。

 なぜ人は後方に座りたがるのか、という疑問である。
 大抵の大学の教室がそうだと思うのだが、私の軟禁されたその教室も二人掛けの机が整然と並べられた空間だった。横4列に並べられた机が、縦に11個。
 友人に連れられて私がその教室内に入ったとき既に20名ほどの生徒が席に座していたが、その一人として中央から前方寄りに腰を降ろしている者はなかった。皆、示し合わせたように中央より後方半分に座り、談笑なり睡眠なりに精を出しているのである。
 我が友人も例に洩れず中央より僅か後方に陣取り、私はその隣に拘禁された。
 講義が始まるころには全ての席が埋まるのだろう。そう思った。……が、講師が壇上に立ちチョークの音が黒板に響いてもなお、教室内の席は半分以上が空いていた。その全てが中央より前方の席だった。殊に前方から数えて3列目までの席は、だれ一人として使用していないという惨澹たる有り様だった。全滅である。まるで無人の荒野だ。
 4列目に至ってようやく、左端の席に人影が発見できた。5列目になると、左端と右端の両列に人影が見える。6列目では、端以外の並びにも人影が散見できた。それ以後の席では、特に異状は見られない。つまり中央より後方なのである。そこに人が密集しているのだ。人口密集地なのである。前方半分は過疎地だ。
 何故に、かような状況が現出するに至ったのか。

 最も考えられるのは、そこが予約席である可能性だ。予約してまで大学の講義を受けるとは、尋常ならざる勉強家と言わざるを得まい。……その割に講義開始時刻には遅刻したようだが。家族に不幸でもあったのだろうか。
 次に考えられるのは、そこが立ち入り禁止区域に指定されている可能性である。戦時中の不発弾が埋まっているとか、地雷が埋設されているなどということは十分に考えられる。あるいは放射性物質によって汚染されているのかもしれない。どこにもそんな警告はないが、そこがまた恐ろしいところである。
 それとも、その席は10kg以上の荷重に耐えるだけの強度を有していないのだろうか。腰を降ろした途端に粉々になるほど腐食が進んでいるのかもしれない。
 壇上で講義を繰り広げている講師にも目を向けなければなるまい。なにしろ、彼はこの教室内で最前線に位置する人間なのだ。彼自身がこの惨状の原因である可能性も高い。彼の実家は鮮魚店で、その全身から生臭い匂いが発散されているのかもしれない。ゴルゴ13のごとく、背後に立つ人間を無意識に攻撃してしまうのかもしれない。気狂いである可能性さえも否定できないのだ。今はおとなしく講義を続けているが、いつ豹変するかわかったものではない。こんな人物に教授の肩書きを与えておいて良いのか、本当に。

「なぁ」
 私は友人に呼びかけ、自らの疑問と考察を語った。
「……それに気付いたか」
 友人の口調は重かった。
「ど、どうした? 妙に深刻そうな顔をして」
「……出るんだ」
「何だ? トイレか?」
 バキッ!
 痛い。殴るか、普通。
「自殺した生徒の霊が出るんだ。あの席に座ると」
 言いながら、友人は最前列にある一つの席を指差した。
「つまらない冗談だな」
「キミの冗談よりはマシだと思うぞ。信じないなら、いいけどな」
 簡単に言って、友人は机上に広げられたノートに目を落とすのであった。

 この大学は大阪府南東に位置し、毎年何人かの自殺者が出ることで有名である。



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