File.50 それは夕立のように
それは、いつもいきなりやってくる。それ――いや、正確には「彼」と言うべきか。
彼の名を仮に「ボブ」としよう。ボブは四十代前半、ガッシリとした体躯の、鋭い目つきをした男だった。どことなく、ロバート・デ・ニーロに似ていたかもしれない。
数年前のある夏の日、私は初めて彼と出会った。当時、私の贔屓にしていたバーでいつものようにギムレットを傾けていると、いきなり話しかけてきたのが彼だった。彼が何と言って話しかけてきたのか、それは覚えていない。ただ、彼の全身が水を浴びたように濡れており、それを拭こうともしていなかったのが印象的だった。彼のその様子を見て、私は雨が降ってきたことを知った。
「雨だよ、アメ。急に降ってくるんだから困っちゃうよね。こんなときには祈るしかないよ。アーメン、ってね。ハッハッハ」
いきなり、彼はそう言った。そして、あっけにとられる私を見て彼は更に言い募ったのである。
「あれ? 面白くない? 面白くなかったかなぁ? アーメンと雨を引っかけたんだよ。わかるだろう?」
そんなことは言われるまでもなかった。私があっけにとられたのは、もっと別の理由によることだった。しかし、彼は私の様子などまったく意に介することなく続けた。
「ボク、ついさっきこのダジャレ考え付いて大笑いしたのに。アナタ、ちょっとダジャレのセンスがないよ。もっと勉強しないとダメだね。ボクみたいに」
たしかに私に駄洒落のセンスがないのは認めるが、それにしてもこんなどうしようもない駄洒落を平気な顔で言うような人間には指摘されたくなかった。
この最初の出会いで、私はボブという人間の本質を理解したと思った。
ボブはアメリカからやってきたという白人で、その言動から常に軽度の躁状態に置かれているように見えた。その名前と、わずかばかり常人とはかけ離れた言動。それ以外、ボブに関して私が知る情報はなかった。彼は、恐ろしいほど自分のことを語らなかった。その代わり、何の意味もないようなダジャレや彼の言うところの「ウィットに富んだジョーク」のような話を延々と続けては一人で大笑いしていた。あっという間に、ボブはその店では有名な存在になっていった。
私が彼を見かけるのは決まって雨の日で、それも夕立の日が多かった。彼は、その店を雨宿りの場所に決めていたのかもしれない。
「なにか薬でもやっているのか」
と、ある男が訊いたことがある。
その問いに対するボブの答えは、
「ボクは毎朝トラベルミンを飲むんだ」
というものだった。そう答える彼の表情は恐ろしく真剣だったという。トラベルミンとは、酔い止めの薬剤だ。
「東京は電車に乗らないとどこにも行けない。ボクは電車も地下鉄も苦手なんだ。コッチに来たばかりのころ、ボクが乗っていた電車が人身事故に遭ってね。『電車でGON!』ってヤツさ。それ以来、よけいに電車が苦手になったんだ」
どこからそんなネタを仕入れたのかと、問い質したくなる話ではある。
ボブは、私が常連であったバーにときおり現れては妖しげな日本語で駄洒落を次々とまくしたてて突然消え去る。そんな男だった。外国人だから、とか日本語が不自由だから、という次元の問題ではなく、ボブは間違いなく、単なる変なオヤジであった。
ある日、私は総武線の終電でボブを見かけた。下りの総武線は、終電でも決して低くない乗客率を保っている。そんな中で彼を見付けたのは、偶然と言う以外にないだろう。
ボブはドアに近い座席に腰を降ろし、うつらうつらとまどろんでいた。電車がホームに入ると、その慣性によって眠りを妨げられたように薄く瞼を開くが、それも一瞬のことで彼はすぐに再び目を閉じる。眠っても眠ってもまだ眠いということはよくあるが、そのときのボブはまさにその状態だった。
電車が小岩駅に入った時のことだ。唐突に、何の予備動作もなくボブは立ち上がった。「ガバッ」という擬態語がピッタリくるその動きに、周囲の人々は驚いたように彼へ視線を走らせた。
ボブは、そんな周囲の視線を気にも留めなかった。立ち上がるや否や、彼は猛然と電車のドアに向かってダッシュしたのである。その鬼気迫る表情に、他の乗客たちはたじろいだ。が、無情にもボブの鼻先でドアは閉じられた。彼の俊足をもってしても、半ば閉じかけられたそのドアに身体を滑り込ませることは叶わなかったのである。仮に彼が100メートルを9秒台で走ることができたとしても間に合わなかったであろう。要するに、彼は寝過ごしたのだ。
みるみる青ざめていくボブの表情を見て、私は言葉を失っていた。知り合いだと知られたくなかった。ボブが私の存在に気付かない事を祈って、下を向いた。――だが、私の祈りは通じなかった。
「あっ、アナタ、……どーも!」
力なく、ボブが私に手を振った。私は自分の長身を呪いながら、人混みの中をすり抜けて近寄ってくるボブに義理の微笑を浮かべた。
「奇遇だな、ボブ」
私は簡単に言った。彼が寝過ごしたことを指摘して揶揄するほどの元気は持ち合わせていなかった。ボブはいきなり私の手を取ると、強く握った。そして、言ったのである。
「クスリ、持ってない……?」
ボブの声は大きい。一瞬のうちに、車内が静かになった気がした。
「薬?」
私が問い返すと、ボブは何も気付かない様子で更に大声でまくしたてた。
「とぼけないでくれ。知っているんだろう? あのクスリ、持ってないの……? イジワルしないで、少し分けてくれ……っ」
懇願するような口調だった。目つきが少しおかしい。おそらく、寝不足なのだ。だが、事情を知らない者が見れば、それは薬物依存による症状のように見えたことだろう。
「ま、待て。私はそんなモノを常用したりしない」
「そんなモノ、なんてヒドい言い方だね。ボクはもうアレなしじゃ生活できないんだ。アナタも一度やってみるといいよ。アレをやると、すごく気分が落ち着くんだ」
「あいにくだが、私には必要ないんだ」
「そう……。アナタ、強い人だからね。ボクみたいに弱い人間は、クスリに頼らなきゃダメなんだよ。今日は、ついうっかりクスリを切らせてしまったんだ。ミステイクだよ。手に入れるのは簡単だけど……」
「ま、待て待て」
私はボブを止めた。
さっと周囲に目をやると、明らかに他の乗客は私達二人を遠ざけるようにして聞き耳だけを立てている。錯覚ではなかった。
「ボブ、もう少し小さい声で話してくれ」
「どうして……? クスリの話なんて、いつもしてるじゃないか」
「とにかく、私はそんなモノ持ってないんだよ。この話は、もう終わりだ」
「そう……。アナタなら持ってると思ったのに。残念だよ」
ボブが言い、そうこうする間に電車は次の駅のホームへ入っていった。
ボブはいくらか血色の戻った顔で、
「この辺りで探してみるよ、クスリ」
とだけ告げ、先ほど彼が降りそこなったそのドアからホームへと降りていった。
数名の乗客が一度ホームに降りて車両を移ったのを、私は見逃さなかった。
ボブの欲しがっていた薬が「トラベルミン」であることを、声高に叫びたかった。しかし、今さらそんなことをしても言い訳にしか聞こえないだろう。私はボブを――そして彼と出会ったときの夕立を呪った。
「あの……、」
しばらくして私に声をかけてきたのは、派手なアロハを着た若い男だった。
「クスリ……、持ってるんですか?」
囁くような声は、小さく震えていた。
いっそ、このままバイヤーにでも転職すべきか。そんなのも、ちょっと悪くない。
