File.56 七月七日の伝説
千年以上の昔。エジプトでの話。ある村に、セタという牛飼いがいた。彼は村でも評判の働き者で、真面目すぎるのが珠に傷というぐらいの謹厳な青年だった。
ところが、ある日のこと。町へ出た彼は一人の女性に一目惚れしてしまう。謹厳な性格のセタであるから、無論その場で声をかけたりはしない。家に戻って手紙を書き、それを恋文として後日彼女に手渡した。
駄目でもともと、と思っていたセタだったが、果たして彼女はセタの申し出を受け入れた。
セタは有頂天になった。ゆくゆくは結婚するつもりで、セタは彼女との交際を始めたのである。
しかし、彼の幸福な日々は長くは続かなかった。何回目かの夜を共にしたその日、彼女は唐突に「あなたとは、もう会えない」と言い出したのだ。
驚いたのはセタである。何故そんなことを言うのか、と彼女を問い詰めた。最初は頑として口を開かなかった彼女だったが、やがてセタの誠意に動かされたのか、涙ながらに語り始めた。自分には親の決めた許婚があり、しかもその相手は土地の有力者でもあって、とても婚約を破棄することはできない、と。
セタにとっては、だまされていたも同然である。にも関わらず、彼は決して怒らなかった。それどころか、彼女の結婚を祝福しさえした。そういう男だった。
そうして彼女は結婚したが、その生活は決して幸福なものではなかった。彼女の夫となった男は親の遺産を継いでそれを食いつぶしているだけの遊び人で、しかも何か気に食わないことがあると彼女に暴力を振るうという、どうしようもない人間だった。
彼女が夫の目を盗んでセタと会うようになるまで、さして時間はかからなかった。
とはいえ、彼女の周辺には常に監視の目が光っており、理由もなく家を出ることも許されなかった。簡単にはセタと連絡が取れない。そこで、彼女は一計を案じた。
それは、夫やその周囲の人間が彼女の身近にいない時には軒先の木に小さく切った短冊状の紙片を下げるというものだった。セタは、この目印を見て裏口から入れば良い。一ヶ月に一度か、あるいはそれ以下の確率だったが、ともかく二人はそのようにして密会した。
彼女の夫にそれが露見したのは、風聞による原因だった。
彼は人を使って調べさせ、彼女の不倫の証拠とセタの存在を突き止めた。逆上した彼は、立てなくなるまで彼女を殴打し、セタには容赦ない私刑を加えた。両目を潰し、利き腕を切り落としたのである。セタは一命を取り留めたが、もはや普通の生活は送れなかった。沢山の牛を売り払い、彼は隠遁を余儀なくされた。
彼女は夫の口からその事実を聞かされ、半狂乱になって泣き喚いた。が、自宅に軟禁された彼女にはセタと会うことはおろか、彼の様子を知ることさえできない。かくして、二人は引き裂かれた。
光を奪われたセタは生きる気力を失い、無為な日々を送るのみだった。軒先に吊るした小さい短冊だけが彼の夢の残滓であり、生きる望みだった。彼にできるのは、それぐらいのことだった。何ヶ月もの間、来るはずもない彼女を待ち続け、彼女のことだけを考え続けた。
――そして、彼の最期の日となる7月7日がやってくる。
その日の夕刻、セタを訪ねる者があった。
戸口へ出たセタだが、そこにいるのが誰だかわからない。目が見えないのだから、当然だ。しかし、相手の発した一言でわかった。それは確かにセタの両目を奪い、片腕を落とした男だった。
何をしにきたのかと問う間もなく、彼はセタの足元に何かを投げ捨てた。まるで、ゴミのように。そして、言ったのである。「そんなに会いたければ、会わせてやる」と。
卒倒しそうなほどの衝撃を受けながら、セタは足元に転がったそれを手探りで拾い上げた。
それは紛れもなくセタの愛した彼女の首だった。
膝をつくセタに、今朝まで彼女の夫であった男が哄笑を浴びせた。このとき初めて、セタは他人に対して殺意を覚えた。見えない目で男の位置をつかみ、殴り掛かった。が、それはあっさりとかわされてしまう。そして、そのまま彼は斬殺された。深い恨みと悲しみと――彼女の首とを抱いたまま。
数日後、この地方には滅多に降らない雨が地表を洗い流した。雨は一週間以上にも及んで降り続け、人々はセタの恨みの雨だと恐れた。その恨みが降りかからないよう、人々はセタの供養のために軒先に短冊を吊るしたという。
のちにこれがインドを経て中国に渡り、いわゆる「七夕」になったと伝えられている。
