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 File.62  釣り糸を垂れながら


 真夏の昼下がり。
 私は、ちょっとした気まぐれで近くの川へ自転車を走らせていた。
 釣り竿を一本と、ウエスト・バッグに収まる程度の小物。それだけを持って、川辺まで足を運ぶ。何軒か並んだ釣り具屋の一つで餌となるミミズを買い、自転車を停めて川淵まで降りる。
 盆休みのせいか、平日にも関わらず何人かの釣り客がいる。
 私は、いつもと同じ場所に腰を下ろして糸を垂れた。河口に近い汽水域だ。色々な魚が釣れる。大抵の釣り客が狙っているのはコイだが、仕掛けによってはハゼやボラなども掛かる。食用にするわけではないので、とりあえず釣れれば何でも良い。
 ケヤキの大木が作る木陰でかすかに届く海の匂いを感じながら、無心に糸をたれる。先日来の雨のせいか、ほど良い涼気が川面から立ち上っていた。
 なかなかアタリがこない。どうも、日が悪かったらしい。
 エサを換えるのも面倒臭く、バッグから阿部昭の小説を出した。夏になると読みたくなる作家だった。時折ウキの方に注意を払いながら、ゆっくりとしたペースで読み進めて行く。
 ビールがほしいな――。
 そんな風に思ったときだった。
 不意に、近くで喧騒が生じた。

「よっしゃーー。今日は絶対に釣ってやるぜぃ」
「ムリムリ。せいぜい、この前みたいに川に落ちないようにしとけ」
「バカヤロウ。俺が本気を出せば、コイの10匹や20匹ぐらいなぁ」

 声の方向に目をやると、あきらかに酔っ払いとおぼしき中年男が二人。片手に釣り竿、片手に缶ビールという格好で、千鳥足を踏みながら土手を下りてくる。今にも川に落ちるのではないかと心配したが、どうにか二人は川べりまでたどり着くことができた。そして、「暑い暑い」と騒ぎながら仕掛けを整える。
 彼らの周囲から何人かの先客たちが遠ざかり、迷惑そうに場所を移った。が、酔っ払い二人組はそんなことを気にも留めない。おぼつかない手つきで練り餌を練りながら、「これじゃ硬すぎる」と水をドボドボ加え、「これじゃ柔らかすぎる」と粉餌をバサバサと追加する。
 どうやら、二人の狙いはコイのようだ。やがて、一人が立ち上がって竿を上段にかまえた。竿先からたれた仕掛けの先端には、テニスボールほどもあるのではないかと思われる練り餌の塊。
「それぃっ!」
 掛け声とともに、彼は竿を振った。

 パシャッ、
 ボチャン、

 水音は二つだった。一つは、ハリとウキが落ちる音。もう一つは、ハリを離れて遥か彼方に吹っ飛んだ練り餌の塊が落ちる音だった。
 おそらく、その場にいた全ての釣り人がその二つの音を聞いたはずだ。
 が。 酔っ払いは得意そうに言うのであった。
「よっしゃぁ、ナイス・ポイント! 俺ァ、あのポイントで今まで50匹以上のコイを釣ってるんだぜ」
 50匹以上も釣ったとは恐れ入るが、それにしてもエサの付いていないハリに魚は掛からないのではなかろうか。私はそう思ったのだが、酔っ払い二人組の考えは違ったらしい。
「いい場所に入れるじゃねぇか」
「狙ったポイントに入れるぐらい、朝飯前だぜ」
 彼らは、そのような会話を交わしているのであった。
 だから、あんたのハリにはエサが付いてないと言っているのに。
 しかし、二人には私の声が届かない。
「よし。それじゃあ俺はあの辺りに……」
 出遅れた酔っ払いは、そう言って立ち上がった。
 その針先には、ひどく歪んだ練り餌の塊。
「ふん!」

 ボトッ、
 パシャッ、

 竿を振った瞬間、練り餌は彼の背後の地面に落ちていた。従って、彼が投げたのはエサの付いていないハリとウキだけだった。
 いくら何でも、これは気が付くはずだ。そう思った。
 しかし、彼の言葉は、
「ありゃあ? ちょっと狙いが外れたか」
 というものだった。
 狙いも何もエサが付いてないんだよ。頼むから後ろの地面を見てくれ。そう言いたかった。
 もはや、釣り場は彼ら二人のパフォーマンス会場だった。周囲の釣り人たちは彼らを遠巻きにして失笑をこらえ、次にはどうやって笑わせてくれるのかと期待に満ちた目を投げかけていた。――そして、彼らはすぐにその期待に応えてくれた。

「おっ、引いてる引いてる!」
 甲高い声で、一人が竿を立てたのである。
 たしか、あなたのエサは空中分解して彼方の水面下に沈んだはずだったが。
 当然ながら、引き上げた彼の釣り針にはコイが掛かっている道理もない。
「畜生。エサだけ持ってかれたぜ」
 彼は、最初からエサなど付いていなかったハリを見て言うのであった。
「ここのコイは、スレてやがるからな」
「まったくだぜ」
 次は覚悟しろよ、などと高らかに告げて、彼は再び巨大な練り餌を針先に付ける。そして、同じように竿を振り――、同じようにエサとハリを異なる位置に落とすのであった。
「よーっしゃ! いまごろコイの野郎ども、先を争って食ってるに違いねぇぜ」
 まぁ、その言葉は当たってるかもしれない。

 見ていて退屈しない二人ではあったが、そのあまりの騒がしさに私は席を立った。土手を上がり、竿を肩に担いだまま自転車に乗る。リール竿を持って来ていて良かった。ルアーを使ってフッコを狙ってみるのも面白いかもしれない。
「おぅ、今度こそ引いてるぜ」
 酔っ払いの声が聞こえてくるのを無視して、私は自転車を走らせた。



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