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 File.63  幽霊アパートの恐怖


 さて、そんな次第で夏の納涼企画第二弾である。納涼といえば、花火大会、流しそうめん、そして怪談といったところが一般的だが、今回は怪談を一つ。

 話は六年前までさかのぼる。当時、私の友人に須々木という男がいた。彼はその年、二浪の末に東京の有名私立大学に合格し、望み通りに自由なキャンパス・ライフを満喫していた。その夏のことだ。
 引っ越すことになった、と聞かされたのは、7月も終わりに差しかかったころだった。いつ引っ越すのかと訊くと、一週間後だという。ひどく急な話に私は驚いたが、その次に聞いた話はより以上の驚愕を私にもたらした。

 一ヶ月二万円。敷金礼金なしの、それが家賃だった。間取りを聞くと六畳ニ間の1DKで、最寄駅から徒歩5分だという。ありえない物件だった。
 おかしくないか、と訊くと、須々木は平然とした顔で「ワケアリらしいからな」と答えた。彼は、そういったものを一切認めない人間だった。物理学を専攻している彼にとって、それらは唾棄すべき対象でしかなかったのに違いない。

 しかし、それにしても急な話だったので、私は引っ越しの理由を問い詰めた。
 その問いに彼は答えなかったが、後日私は彼との共通の知人を介してその正解を知るに至った。
 正解とは、女だった。大学で、須々木には彼女ができたらしい。その彼女の住居に近い所へ引っ越した、というのが事の真相だった。

 一週間後、私は一人の知人を伴って、須々木の引越し作業を手伝うために新居へ赴いた。
 その知人――京谷は、霊感に優れた男だった。いや、優れているわけではないかもしれない。ただ、そういった事象に対して異常なほど敏感だった。それが原因でトラブルに巻き込まれたことも、一度や二度ではない。

 須々木の引っ越し先は、築二十年は超えていようかという古めかしいアパートだった。
 そのアパートの外観を見た瞬間、京谷の顔が青くなった。そして、言ったのだ。
「ここだけは、やめておけ」
 と。

「やはり出るのか」
 私が訊くと、
「出るなんてもんじゃない」
 京谷はそう答えた。
「今すぐにでも、この引っ越しは取りやめろ」
 彼はそう忠告したが、当の須々木は取り合わなかった。
「大丈夫、大丈夫」
 軽く言って、須々木は荷物の搬入を始めるのだった。
 京谷の「俺は知らんぞ……」という呟きだけが、私の耳に残った。

 早速、と言うべきだろうか。引っ越したその日の夜、須々木は霊現象に見舞われた。
 深夜。布団に寝ていた彼は奇妙な音で目を覚ました。カリ、カリ、という、それは何かを引っ掻くような音だった。
 耳を立てると、音は壁の向こうから聞こえた。隣の住人かと彼は一瞬の間だけ考えたが、それはありえないことに即座に気付いた。なにしろ彼の部屋は角部屋で、音が聞こえてくる壁の方向には隣室などないのだ。加えて彼の部屋はアパートの二階にあり、足場も何もないその壁の向こう側で誰かが壁に触れることも不可能だった。
 ラップ音。少しでも霊現象に関心のある人間なら、そう結論づけたに違いない。
 しかし、須々木は違った。
「うるさいネズミだな」
 そう舌打ちして再び眠りについたのである。

 翌日、須々木はやはり深夜に目を覚まし、同じ音を壁の向こうに聞いた。カリカリ、と壁を爪で掻くような音。しかし、その音は前日より若干大きくなっているようだった。
「週末はネズミ退治だな」
 そう考えて、須々木は目を閉じた。

 更にその翌日。
 音は壁からではなくドアの向こうから聞こえるようになった。しかも、ガリガリと引っ掻く音に加えて、コツコツとノックするような音が混じっていた。
 この時点で、さすがに須々木も考えを改めた。週末ではなく翌日にネズミ退治をしよう、と。

 四日目。室内とアパートの周囲に殺鼠剤を撒いた須々木は、これでゆっくり眠れると布団に入った。が――。
 壁を引っ掻く音は、もはや壁の向こうでもドアの向こうでもなく、彼の耳元で聞こえるようになっていた。音の中には、声が混じっていた。何を言っているのかはわからない、しかし明らかに若い女の声。何かを訴えるような、それは恨めしげに響く低い声だった。
 このとき初めて、須々木はネズミ以外の可能性を考えた。考えながら、耳栓代わりのパチンコ玉を耳に詰めて眠った。

 五日目になると、怪異はついに目に見えて現れるようになった。
 前日と同じようにパチンコ玉を耳に詰めて寝ていると、須々木は突然自分の身体がまったく動かなくなったことに気が付いた。かろうじて動くのは眼球だけで、それ以外は指一本動かない。金縛り現象だった。
 身動きできない須々木の前で、ゴツッとひときわ高くドアがノックされ、小さくドアが開かれた。その10センチほどしか開いていないドアの隙間から白い何かがヌルリと入り込んでくるのを、須々木は見た。
 このときばかりは、彼もそれが超常的な現象であると認めざるを得なかった。その白い物体ははっきりとした人型を保っており、それでありながら流体のように室内へ流れ込んできたのだ。
 須々木は逃げようとしたが、すぐに身体が動かないことを思い出した。
 絶望する須々木をからかうように、白い物体は床を這う。
 須々木は大きく息を飲み込んだ。そして、一喝した。
「出ていけ!」
 と。
 白い物体は一瞬ビクッとしたように動き、そのままもと来た方向へ去っていった。余談だが、彼は中学時代に応援団に在籍していたという過去がある。

 その翌日、私は京谷を連れて須々木の部屋を訪れた。そして、この五日間に起こった幾多の現象を聞かされたのである。その自らの武勇を語るような口調に、私も京谷もあきれた。
「で、どうするつもりなんだ?」
 訊いたのは京谷だった。
「別に、どうもしない」
「出ていこうと思わないのか?」
「どうして?」
「どうしても何もないだろ……」
 京谷は言葉を失っていた。勝ち負けで言えば、この勝負は明らかに京谷の敗北だった。
「霊感なんて、本当にいらないよ……」
 帰り道、そう呟く京谷の表情は悲壮だった。

 その夜から、須々木はアイマスクと耳栓を装備して布団に入るようになった。
 深夜になると必ずラップ音と共にドアが開いて冷たい何かが入り込んで来るような気配があり、時によっては腹部や脚の上に重い物がのしかかってくるような感触があったが、彼はそれらの一切を無視した。その程度のことでは、彼の安眠を妨げることはできなかったのである。
 その後一ヶ月ほどの間、幽霊側の努力にも関わらず須々木の態度が改められることはなかった。幽霊は毎晩毎晩部屋を訪れては、目もくれようとしない彼の気を引くのに必死だった。手を変え品を変え、どうにかして彼の興味を自分へ向けようとした。けなげな話である。

 そして、一ヶ月が経ったある夜のことだった。
 やつれた表情で、須々木が私の部屋を訪ねて来たのである。部屋に上がるや、彼は「引っ越したよ」と言った。
 ついに幽霊側の努力が報われたのか。私はそう思った。が、それは早合点であった。
「彼女にフラれた」
 そう言って、須々木は肩を落とした。
「……幽霊は?」
「くそ。そいつが原因だ」
 須々木は、いまいましげに空を睨みつけた。

「彼女を部屋に連れ込んだんだ」
 須々木は苦い表情で言った。
「……あの部屋に、か」
「それ以外、どこがある」
「あの、幽霊アパートに、か」
「大した問題じゃないだろ」
「大した問題だ」
「まぁ、結果的にはそうなったわけだが」
「当然の結果だ」
「俺は何もしてないのに……」
 須々木が大きく溜息をついて、話はそれで終わった。

 それにしても、『何もしてない』うちに出てくるとは。幽霊も気が利かないものである。



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