File.71 虎を絶滅の危機から守りましょう
ある夏の日の夜のこと。
私は総武線千葉駅のホームでベンチに腰を下ろし、上りの電車が来るのを待っていた。
暑い夜だった。売店で買い求めた雑誌を広げながらぼんやりと電車を待っていると、隣のベンチに勢いよく座りこんだ男がいた。
四十絡みの、どこかくたびれた印象を与えるサラリーマンだった。ネクタイをハチマキきにしているが、それがなかったとしても彼が酔っ払いであることは一目瞭然だった。なにしろ、顔が真っ赤だ。
彼は左手にポケット・ラジオをにぎりしめ、耳にイヤホンをつけていた。おそらく、野球放送を聴いているのだろう。ときおり、「しっかりせんかい」とか「どあほう!」などという独り言を発している。みごとな酔っ払いぶりだった。その関西弁から察するに、阪神ファンだろうか。
「たのんまっせ、ノムさんー」
ふいに、男はイヤホンに手を当てて何もない虚空に向かって嘆願した。どうやら予想通りだったようだ。
「あぁっ、なんちゅうことすんねん! そこでその采配はアカンがな」
男は夜空に向かって叫び続ける。
「これやから、広島みたいなクサレチームと最下位争いするハメになるちゅーねん。わかっとんかい、ノム!」
呼び捨てである。憤懣やるかたない、といった様子だ。今にも左手のラジオを足元に叩きつけそうな、そんな雰囲気だった。
当然のように、彼の周囲には人が寄りつかない。それはそうだろう。なにしろ怖い。阪神ファンというだけで十分なほど怖いのに、男は更に酔っ払っているのだ。加えて、その様子から察するに阪神は負けている。近付いただけで殴られかねない。
私などは野球も含めたスポーツ全般に興味のない人間であるから、彼らのようなファン心理は理解できない。贔屓のチームが勝つことで、彼らに何らかの利益があるのだろうか。あるとすれば、それは贔屓チームの勝利による充足感や優越感といったものだろうが、それならば最初から強いチームのファンになれば良さそうなものだ。なにも、よりによって阪神みたいなチームを応援することはないのではないか。
しかし、どうもこの国では「強い」ものを応援するというのは美徳に欠ける行為とされているようで、そうした行為は不当に敬遠され、嫌悪される。「大阪出身だから」という理由で阪神を応援するのも、「強いから」という理由で巨人を応援するのも、動機としては大差ないと思うのだが。
たしかに、「弱い」ものを応援する心理は理解できる。理解はできるが、しかしそれが実を結ばないとなれば私は応援しようとは思わない。ましてやストレスを溜めてまで応援するなど正気の外だ。だいたい、阪神なんぞ応援したところで(以下自粛)
「よーーーっしゃ! 入れ、入れ! 入ったれぇぇぇえっ!」
うるさい。
おそらくホームラン性の当たりだったのだろう。男はベンチから腰を浮かせて怒鳴っていた。まるで野球中継の中継を聞いているような気分だ。
数瞬後、男は力なくうなだれてベンチにもどった。どうやら彼の願いはかなわなかったらしい。もしその打球がホームランになっていたら、彼はどれほどの狂態を見せてくれたのだろうか。そう考えると、私も少しばかり残念な気分だった。
そうこうするうち、ホームに電車が入ってくる。上り電車であり、始発となる駅でもあるため、車内はガラガラだ。
阪神ファンの男が車両に乗り込んでシートに陣取るのを待って、私はその斜向かいに位置するシートへ腰をかけた。すでに、ネタにしてやろうという気持ちだった。見逃すわけにはいかない。
男はシートに落ち着いた後も、ひっきりなしに語り続けていた。見えない相手に向かって。
「なんでやねん、なんでそこでバントやねん」
「タマにはベンチから出てこんかい、ノム」
「こない監督いらんわ、ホンマ」
どうも、彼は野村監督否定派らしい。
私は野球事情について詳しくないので野村監督という人をよく知らないのだが、男の言をそのまま信じるとまるで鬼か悪魔のような人物であるとしか思えない。男は、とてもここでは書けないような罵詈雑言を野村監督に対して浴びせていた。それも、今にも泣きだしそうな表情で。
ここに至って、私は初めて気がついた。ひょっとして、彼はストレスを溜めるどころかストレスを発散するために阪神を応援しているのではないか、と。
そう考えれば、阪神を応援するという理不尽な行動にも説明がつく。いや、それ以外に説明がつかない。阪神ファンはマゾだという説があるが、私は逆の説を提起したい。すなわち、阪神ファンはサドだ、と。そう。そもそも阪神ファンは暴力的なのだ。カーネル・サンダースを淀川に叩き込んだファンの例を出すまでもなく。MよりSの性質が強いのは当然のことである。
「ああっ! このアホンダラァッ!」
男の怒鳴り声は、私の仮説を補強するかのようだった。シートの下部をガンガン蹴りつけながら、彼は叫び続ける。
「新庄、たのむで新庄。オマエだけが頼りなんや!」
どういう場面なのだろうか。男の応援はそれまでにも増して力が入っていた。それとも単に新庄のファンなのか。――だが、一分後には彼の喉から悲痛な叫びが漏れていた。
「あああアあッ! 新庄ッ! 新庄ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぅっ!!」
目の前で家族を惨殺されたかのような、それは凄まじい悲鳴だった。もしかすると私の仮説は間違っていたのかもしれない。そう思わせるほどの悲しみに彩られた叫びだった。見ると、男の目には涙まで浮かんでいる。なにも泣くことはないのではなかろうか。
男は放心してしまったのだろうか、口を大きく開いたまま動こうとしなかった。その虚ろな瞳は何も映さず、濁ったような色は死んだ魚のそれと同じだった。
正気では阪神ファンにはなれない。そう思った。
で、新庄ってだれ?
