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 File.82  プロの世界


『プロの世界に生きる男たち』という本を見かけた。見かけたと同時に、疑問に思った。この本の作者の言う「プロの世界」とは何だろうかと。
 本を手に取って、パラパラとめくってみた。本の中で語られているのは、何人かのスポーツ選手の人生についてだった。なるほど、と思った。この作者にとって「プロの世界」とは、そういう世界なのだ。

 私にとって、その世界は違うものだ。プロフェッショナルとは、なんらかの技能によって収入を得ている人のことである。この定義はまちがっていない。そして、この定義にあてはめれば世の中の大部分の人間が「プロフェッショナル」であると言える。
 たとえば某商社に勤めるA君は経理のプロフェッショナルだし、某出版社に勤めるB嬢はお茶汲みのプロフェッショナルだ。吉野家に勤めるC君は牛丼プロであり、専業主婦のD夫人は家事のプロと言える。中にはまったく家事をこなさない主婦もいるが、そういう人は配偶者を騙すプロあるいは配偶者を尻に敷くプロと言える。受刑者だろうと浮浪者だろうとテロリストであろうと、例外ではない。彼らは皆、それぞれの道のプロなのだ。ゴルゴ13は狙撃のプロであり、暴れん坊将軍は暴れプロであり、大黒屋は暴れられプロであり、うっかり八兵衛はうっかりプロである。
 かく言う私はプロ無職者である。プロ歴は3年弱であり周囲を見回してもこれほどの経歴を持つ人間はいないのだが、なぜか収入は少ない。プロの世界の厳しさを痛感している昨今である。無職プロをめざしている読者には、前もってこの道の険しさを説いておきたい。

 さて、無職のプロフェッショナルである私だが、ヒマにあかせて小説(あるいはそれに似たもの)を書き散らしている。この文筆という世界において私はアマチュアであるが、世の中には文筆のプロも少なくない。
 文筆のプロ。それは小説家やコラムニスト、ライターなどと呼ばれる職業の人々である。彼らは文字と言葉を操るプロであり、一部の例外を除けばその文筆技術はアマチュアの及ぶところではない。
 たとえば、「トンネルを抜けると雪が降っていた」というアマチュアの文章があったとする。プロは違う。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」などと平気で書いてしまうのだ。アマチュアには――少なくとも私には――書けない文章である。なにしろ、「夜の底が白く」なってしまうのだ。牛乳をこぼしたとかシロアリが大発生したとか、そういうことではない。プロの文筆家にしかなしえない、これこそ一流の技である。
 これを私がマネしたとする。
「駅前のオレンジ看板を抜けると吉野家であった。腹の底がひどく鳴った」
 まるきりダメである。私がアマチュアたるゆえんだ。

 プロとアマの違いは、その真摯さである。集中力と言い換えても良い。これは特にスポーツの世界において顕著だ。野球であろうとサッカーであろうと、一定の期間内に望まれるだけの成績を上げることができなければ、必然的に収入は減少し、やがてプロの肩書きをも失うことになる。それを避けるために、プロの選手たちは常に真剣だ。
 往年の名打撃手川上哲治は、バッター・ボックスに立ったとき「球が止まって見えた」という。もちろん、マウンド上の投手が川上に向かって投げた球を指してのことである。彼の足元に転がったボールのことではない。つまりそれぐらいの集中力がプロには要求されるということである。
 私の知る名外科医は、ある日トラックに撥ねられて病院に運び込まれた重体の患者を見て「出血が止まって見える」と言ったそうだ。これぞプロ。おそろしいまでの集中力である。――ちなみにその患者は5分後に死亡したが。

 この集中力を鍛えようと、私も原稿用紙に向かってみた。
 するとどうだろう。みごとに原稿用紙は止まって見えたのである。原稿用紙だけではない。ペンをにぎる私の右手までもが、あたかも命を持たぬ彫像のように静止して見えた。その不動たることといえば、まさに風林火”山”の状態だった。これならばプロになれる。そう思った。――残る問題は、このまっしろな原稿用紙をだれが買ってくれるかということである。
 ひょっとすると私は文筆のプロではなく、原稿用紙が止まって見えるプロをめざした方が良いのかもしれない。



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