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 File.104  緑なる女神のはらわた


 梅雨が明けたばかりの七月の深夜。俺は一人、新宿を歩いていた。やけに蒸し暑い夜で、午前零時近くになっても気温は三十度を超えたままだった。歩いているだけで汗が出る。すこしぐらいの暑さじゃこたえない俺だが、さすがにこの暑さにはお手上げだった。まったく、このクソ暑い中を、いくら昔の相棒からの要請とはいえ三十分も歩かなければならないとは。我ながらバカらしくなる。
 腕時計を見ると、午後十一時五十分。約束の時刻には余裕があったが、俺はわずかばかり足を急がせた。一秒でも早く、冷房の効いた場所へ逃げこみたかった。それに、この街の夜をたった一人、背中を守ってくれる相棒もなしで歩くのは、あまり利口なことじゃない。
 周囲の連中は酔っ払いばかりだった。金曜日の夜というせいもあるが、そもそも人間はアルコールなしじゃ生きていけない動物だ。男は特に。――もちろん、俺も例外じゃない。この街は病んでいる。そしてそれ以上に、この街の人間は病んでいる。

 都内のどこででも見かけるファミリー・レストランが、約束の場所だった。昼は家族連れが、夜はカップル客が占領する空間。俺のような人種にとって、あまり居心地のいい場所じゃない。
 この店で落ち合おうと決めたのは俺じゃなかった。昔、この街の歩きかたを教えてくれたかつての相棒が、この店の常連だったのだ。ヤツは、そういう少しふざけたところのある人間だった。俺には決してマネのできない部分だ。マネするつもりもないが。
 金曜日のファミリー・レストランは混雑しているようだったが、どうにか壁際の席に座ることができた俺は、いささかホッとした。煌々と照明の灯った、しかも外からの監視をさえぎるカーテンひとつないレストランの窓際に座るなど、どうぞ御自由に狙撃してくださいと言っているようなものだ。臆病でなければ、俺のような人間はこの街で生きていけない。

 シートに浅く腰をかけて店内を見渡していると、髪を茶色に染めたウェイターが忙しそうにメニューと水を運んできた。
「ビール。グラスで」
 メニューなど見る必要はなかった。何度か訪れたことのあるこの店で、それほどまずくない物といえばビールとサラダぐらいしかなかった。
「それから、シーザー・サラダだ」
 思わず、そういう言葉が口をついて出た。あまり好きな食い物じゃない。ただ、昔知っていた女がこの店に来るたびにそれを食べていたのを思い出しただけだった。あの女、いまごろどうしているだろうか。
「ドレッシングは、いかがいたしましょうか」
 茶髪のウェイターが、意外なほどていねいな口調で言った。
 ドレッシングだって? ――そういえば、あの女はサラダだけは決まってシーザー・サラダをオーダーするクセに、ドレッシングの方は気分次第でころころ変えていた。だが、それらの名前など覚えちゃいない。
「適当にやってくれ」
 そう答えると、ウェイターは一瞬だけ困ったような顔を見せたが、すぐに「かしこまりました」と引っ込んでいった。この店のウェイターにしては上等だ。俺は水の入ったグラスを取って、一口だけそれを喉に流しこんだ。ひどい塩素の匂いが鼻をついた。やはりこの店は変わっちゃいない。

 ビールとサラダは同時に運ばれてきた。信じられないことだが、この店では平気でそういうことをしてくれる。まぁ、いまさら文句を言うつもりもない。初めてこの店に来たときは、もっとひどかった。これでもマシになったほうだ。
 グラスを傾けると、一気に半分以上のビールが胃の中に入った。あきらかに安物のビールだが、この暑さがそれを帳消しにしてくれた。ビールってのは夏に飲むものだと、改めて思う。
 それにしても、相棒はまだ現れない。時刻は、すでに午前零時を十分ほど過ぎていた。なにかあったのだろうか。思い出してみれば、電話口でのヤツは切羽詰まっているような口ぶりだった。あるいは追われていたのかもしれない。そう簡単に殺られるような男じゃないハズだが。――ともかく、このビールとサラダをかたづけるまでは待つことにしよう。
 グラスを置いて、俺はシーザー・サラダに手をつけた。ドレッシングは三種類のものが用意されていた。イタリアンと、ごま風味、それに――、グリーン・ゴッデス? すごい名前のドレッシングもあったものだ。緑の女神、か? だが、ちょうどいい。最近、女に縁がなかったところだ。女神の祝福なら、ありがたく受け取っておこう。

 ためしてみると、味も悪くない。チーズの風味と香辛料が、よく効いていた。
 俺は緑の女神の祝福を受けたシーザー・サラダをフォークの先に刺しながら、ドレッシングの容器に目を走らせた。能書きによると、それなりに歴史のあるドレッシングらしい。俺が無知だったということだろうか。何の気なしに、原材料の方にも目を通してみる。
 食用植物油脂、ぶどう酢、果糖ぶどう糖液糖、食塩、レモン果汁、香料、香辛料……。だが、次の原材料で俺の思考は恐慌の淵に立たされた。

 ホエー。

 なんだ、それは。
 俺は目をうたがった。たしかに、そこにはホエーと書かれている。決して短くない人生を送ってきた俺だが、そんなものは食ったことがなかった。いや、そもそも食い物なのか、それすらあやしい。語感から考えると、ウエハーの仲間だろうか。ひょっとすると、ウエハーの上にホエーを乗せて食べるのが、世界のどこかで流行っているのかもしれない。だが、ホエーの次に書かれた原材料が、俺の思考を中断させた。

 グアー。

 もう、俺に言えることなど何もなかった。ホエーとグアー。まさに、今の俺がそういう気分だった。グリーン・ゴッデスの中の、ホエーとグアー。こいつら一体、なんなんだ?

 約束の時刻に二十分以上も遅れて昔の相棒が姿を見せたのは、ちょうどそのときだった。どうやら、まだ死んではいなかったようだ。
「めずらしいものを食ってるな」
 遅れたことについては一切ふれず、ヤツはいきなりそう切り出した。俺は何も答えなかった。答える代わりに、グリーン・ゴッデスの容器をヤツの手元に放り投げた。ヤツは少しだけ驚いたようだったが、見かけによらぬ反射神経の良さでそれを空中でキャッチした。
「グリーン・ゴッデス? ……これがどうかしたのか?」
「原材料を見ろ」
 短く言って、俺は残っていたビールを飲み干した。

「ほえー」
 ヤツが言った。「新宿(ジュク)の狼」と呼ばれていたころのヤツを知っている連中に、今のコイツの姿を見せてやりたかった。
「それに、『ぐあー』だ」
「あぁ」
 毒気を抜かれたように、ヤツは呆けたツラでうなずいた。
「……で、わざわざこの夜中に俺を呼び出した理由は何なんだ?」
「オマエにしかできない仕事を一つたのみたかったんだがな。……なんだかホエーを食ってるオマエを見たら、どうでもよくなっちまった」
「そうか」
 そこまで会話が進んだところで、ようやくウェイターがやってきた。ヤツはアイス・コーヒーを注文し、俺はビールをもう一杯飲むことにした。

「ホエー、か……」
 ウェイターが去ったあとで、俺はつぶやいてみた。
「この街も、まだまだ捨てたもんじゃないかもな」
 俺の言葉に、相棒がうなずいた。
 クソ暑い、真夏の夜のできごとだった。



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