File.106 いいわけ
時の流れというのは早いもので、私が雑文を書かなくなって三ヶ月が経過してしまった。なぜ三ヶ月もの間、雑文を書かなかったのか。これに対する答えは簡単である。ネタがなかったという、ただそれだけのことだ。周囲の人々は「早く雑文を書け。書かないなら死ね」などとおっしゃるが、ネタもないのに書けと言われても、それはムリな注文というものである。
ではこうして書いているということは新しいネタを仕入れたのかと問われると、非常にこまる。なぜなら、そんなネタなどどこにもないからだ。つまり今回の雑文は「ネタがないのをネタにする」という最低最悪の駄文であり、言い切ってしまうならばこんなものを読む必要はまるでない。おもしろくないことは、書いているこの私自身が保証する。だから、これ以下の文章は読まないでほしい。これは忠告ではない。命令だ。
雑文のようなものをある程度の期間にわたって定期的に書き続けるという作業がいかに苦難に満ちたものであるかということは、これを経験した者ならば身をもって理解できると思う。
苦しいのは文章を書くことではない。ネタをさがすことだ。日常的に雑文を書いている人で、「ネタがあまってあまって仕方がない」という人がいるだろうか。そんな人がいるはずはない。もしいるとしたら私宛てにメールを送ってほしいが、基本的にネタというものは消耗品であって、無尽蔵に湧き出てくるようなものではない。そう、ネタは貴重なのだ。
私の計算によると全世界のネタの総量は、東京ドーム10杯分。当然ながら、一人一人に十分な量のネタは行き渡らない。おまけに、ネタの配分は非常に不平等かつ理不尽なもので、人によっては一生を費やしても使い切れないほどのネタを持っている場合もあるし、逆に一生ネタをつかめない人もいる。
私などは典型的な後者のタイプで、そもそもそんな人が雑文を書くのはまちがっているのだが、当然雑文を書くすべての人々がネタに恵まれているということはなく、決して私一人だけがイバラの道を歩いているわけではない。もちろん、ともにイバラの道を歩む仲間がいたところで私の受ける苦痛が半減するはずもなく、せいぜい一緒になって「ネタがないネタがない」と騒ぎまわるぐらいが関の山なので、この認識自体にはまるで意味がないのだが。
ネタの尽きた雑文書きの末路は哀れだ。ある者は自分の世界に逃避してゲームやヘヴィー・メタルの話をしたり、またある者は嘘八百の物語を書き並べて読者を煙に巻こうとする。それでも書くことがなくなると、ついにはネタにもならないようなことをネタにし始める。
たとえば先日のできごとだが、私がそば屋に入ってかけそばを注文すると、わかめそばが出てきたことがあった。とっさに「これはネタになる!」と思ったのだが、その一瞬後には首を吊りたくなった。一体どうしてこんなネタがおもしろいなどと考えられるのか、自分の脳髄を一度検査してみたい。
また昨日などは12時間ぶっつづけでプレイしていたRPGがいきなりフリーズしてしまい、その間まったくセーブしていなかったおかげで12時間の作業が水の泡と化したのだが、これもまた反射的に「ネタになるかも」と考えてしまった。悲しい性(さが)である。というか、平日の昼間から12時間RPGというのは性とか何とか言う以前に、人間としてまずいような気もする。
ネタにとぼしい雑文書きにとって、常に新しいネタを提示しつづける人は羨望の対象だろう。私も獣医になって病猫を薬殺したり、ギターの弦を張り替えるとき弦に刺されてみたり、自動販売機で520円を入れて缶ジュースを買ったらおつりが50円玉8枚で返ってきたり、ピロシキとボルシチをまちがえたりしてみたい。最後のはちょっとどうかと思うが。
ツチノコやネッシーを捕まえたり、宇宙人に連れ去られて体内に異物をインプラントされるなどという体験も良い。まちがいなくネタになる。
今、もし私の目の前に悪魔が現れて例の契約(魂と交換にうんぬんという恥知らずなヤツだ)を交わせるとしたなら、きっと三つの願いとして「ネタをくれ」と言うに違いない。それぐらいネタがないのだ。当然、一つめの願いは「ネタをくれ」で、二つめの願いは「もっとおもしろいネタをくれ」、三つめの願いは「そのネタを使って雑文を書いてくれ」である。
そういう次第なので、今回の雑文がおもしろくなかったという人は地獄へ行って悪魔に文句を言ってもらいたい。彼に言わせれば、今回のネタはおもしろいらしい。
