File.111 私流文章作法
ときどき、「どうすればそんなに面白い文章が書けるんですか?」という質問を受けることがある。夢の中の話ではない。現実の世界の話である。夢と現実の違いは、寝ているときに見たものか起きているときに見たものかという点だ。世の中には半覚醒とか白昼夢とか妄想狂とか色々な言葉があって寝ているか起きているかの区別というのはなかなか難しいが、私にとっては簡単なことだ。これは妄想ではない。
どうすればそんなに面白い文章が書けるのか?
実に興味深い命題である。無謀な命題ともいう。どの辺りが無謀かというと、「そんなに」の辺りが無謀だ。「面白い」の部分に至っては、命知らずと言っても良い。
この質問者の意図は一体どこにあるのだろう。お世辞や社交辞令、政治的戦略などといった可能性を除けば「私もそんなに面白い文章を書いてみたい」という点に尽きるのではないかと思う。一応他にもイヤミとかジョークとか原因不明の脳内現象などという可能性も考えられるが、キリがないので考慮しないことにしておく。
一流の文章書きの人であれば(私がそうだというわけではない)こうした質問を受けたことが一度や二度はあるだろう。私は不本意にも雑文書きの人として扱われているので「どうすればそんなに面白い文章が書けるんですか?」と訊ねられることが多いのだが、これが小説家などであれば「面白い文章」の部分が「美しい文章」になったり「泣ける文章」になったり、場合によっては「抜ける文章」になったりする。どれも根源の部分は同じだ。
さて、それでどうすれば、面白い/美しい/泣ける/抜ける文章を書くことができるのか?
1.当たり前のことは書かない
言わずもがなのこと。たとえば「カップラーメンを作るには熱湯が必要だ」というような、誰でも知っている/書けることは、書いてはいけない。なぜなら、そんな文章を読んで面白いと感じる人はいないからである。カップラーメンのフタや容器に記されている「調理方法」を読んで大爆笑するとか感動の涙を流すという人は、普通いない。いたら怖い。だからといってカップラーメンに記されている「おいしい召し上がり方」の記述が不要かというと決してそういうわけではなく、そもそもそうした文章は読者を面白がらせようという意図のもとに書かれたものではないので、その存在を否定するのは正しい行動ではない。もちろん、ものすごく楽しい「調理方法」というのがあるのならば、読んではみたい。オチのある「おいしい召し上がり方」など、じつにワクワクするではないか。最後に「ガチョーン」とか書いてあったり。(最悪である)。
「当たり前のことは書かない」というのは「自分以外の誰かが書けるようなことは書いてはいけない」ということで、つまり独創性を大事にしろということである。どこかで聞いたような話を、わざわざ長ったらしい文章で持って回って書くのは、非常に愚かな行為なのである。すみません。
ためしに、「カップラーメンを作るには精製したプルトニウムが必要だ」という書き出しで文章を書いてみると良い。読者は「一体なにごとだ」と興味を引きつけられ、否応なく読み進めざるを得なくなるはずである。(オチをつけるのに苦労しそうだが)。大事なのは日常の打破である。普通でない文章は、それだけで読者の目を引くものなのだ。
ところで最近、水から作るカップラーメンが発売されたと聞いた。これなど、その存在からして日常の打破である。おいしいのかどうかは知らない。
2.自分のことは書かない
あなたがキリストかヒトラーでもないかぎり、自分自身のことは書かないほうが良い。ここで言う「自分自身のこと」というのは、あなたの体験や思想、経歴、感覚、趣味嗜好、嫌いな食べ物、好きなアイドル、目玉焼きに何をかけるか、などといった諸々の事項である。インターネットが広く利用されるようになって誰でも(どんなにつまらない人間でも)自分自身のホームページで文章や画像などを簡単に発信できるようになったが、これらのうちの99%は取るに足らないクズである。その原因は色々あって一言では収められないが、たいていは「自分自身のことを語っている」からだ。あなたがユダかチャーチルででもあれば話は別だが、普通の市民の普通の体験や趣味嗜好をもとにした普通の文章など、誰がどう考えても面白いはずがないではないか。
中には「いやそんなことはない。オレの体験談は普通じゃないぜ」という人がいるかもしれないが、普通だ。宇宙人に連れ去られて体内に異物を埋めこまれたり、知らない間にバラバラになった死体が冷蔵庫に入っていたりなどといった体験でさえ、普通である。そんな文章を読まされても読者は「またこの手の文章か」と思うだけで、面白がったり涙を流したりはしない。中には例外的に面白がってくれる人もいるが、そういう人は単にUFO研究家であるとか猟奇的な趣味性癖を患っているとかの話であって、あなたの「文章」ではなく「体験」を面白がっているだけなのである。あなたがめざすのは「面白い文章を書く」ことである。「面白い体験を文章にする」ことではない。
3.他人のことも書かない
あなたの家族や知人にヨハネかムッソリーニでもいないかぎり、他人のことについて触れるのは避けたほうが賢明である。これは自明の理で、他人の体験や思想、経歴、感覚、趣味嗜好、嫌いな食べ物、好きなアイドル、目玉焼きにマヨネーズをかける、などといった事柄はそのまま「自分自身のこと」として置き換えが可能なので、前述したとおりにこんなことは文章にする価値がない。(ヨハネが目玉焼きにマヨネーズをかけて食べていたなどというのは大変な醜聞である)。
最悪なのは自分の飼い猫や自分の子供について文章を書くことである。人として、これだけは犯してはならない。世の中に、これほどつまらない文章は他にないからだ。ふだんどれだけ面白い文章を書ける人でも、自分の子供やペットについて触れた瞬間、それは見るも無残な代物に成り果てる。ふだんから面白くない文章を書いている人の場合には、もはや犯罪的だ。しかもそういう人たちは自分の文章が面白いと思っている正しい意味での「確信犯」なので、タチが悪い。これは立派な犯罪である。
この「他人のこと」というのは対象を人間だけに限定するものではなく、他人の書いた本や他人の作った映画、他人の作った料理などについても言及するものである。そんなものについて書かれた文章は面白くないということだ。こういうのを「語るに落ちる」と言う。
4.身近なことを書く
これは重要なことで、たとえば知りもしないのに哲学的量子論なんかを書いてはいけない。UFOとかネッシーとかについて触れるのも危険である。ちょっとでも間違ったことを書くと、専門家や評論家、果てはオタクとか事情通とか矢追純一とかいうよくわからない人からまでもイチャモンをつけられる。あなたの身の回りことについて書いている分にはあなた自身が最高権威の専門家なので、誰からもクレームをつけられたりすることはない。クレームではなく説教(どうしてそんなにダメな生活をしているのか)を受けることはあるが、これは大きなお世話である。
5.わかりやすい文章で書く
1から4までの条件をクリアして、それでもまだ書きたい/書ける/書かなければならないことがある人は、いよいよ実際にペンを持って原稿用紙に向かうことになる。あるいはパソコンの電源を入れてキーボードの前に座ることになる。(書かなければならないことがあるなどという考えは病的な誇大妄想である)。
わかりやすい文章を書くというのは、なかなか難しいものである。簡易平明な文章を心がけ、複雑な言い回しや故事成句、難解な専門用語などは避けるようにする。文法や用法、誤字脱字にも注意しなければならない。
文体も重要である。重厚すぎる文章は読者を疲弊させるが、軽薄な文章もまた読者にストレスを与える。たとえば「腹が減った」という事実を伝えたいとする。文章での表現方法は無限にあって、「私は耐え難い空腹感に苛まれた」と書けば重厚な雰囲気を演出できるし、「聖餐の刻が訪れた。今こそ吉野家の門を叩くのだ」と書けば牛丼教徒であることをアピールできる。「おなかがへったにょ〜」と書けば、己の頭の具合を世に問うことさえも可能だ。
わかりやすい文章は「だれにでもわかる文章」ではない。そんな文章はありえない。しかし、より多くの人に理解してもらえる文章を書こうという姿勢は大切だ。我々は日本人なので、文章は日本語のフォーマットにもとづいたものになる。ときどき、それがカッコイイと勘違いしているのか英語やらフランス語やらの敵性語を対訳もなしに引用したりひけらかしたりする人がいるが、みっともないのでやめたほうが良い。あなたは文章でカッコつけることよりも、面白い文章を書くことにこそ心を砕くべきなのだ。
こんな話がある。昔、インドで一人の男が投獄された。彼は文盲だったのでこの機会にとヒンディ語の勉強をすることにした。しかし獄中には辞書がない。まぁいいやと彼は独学で勉強を続けた。数年後、出所した彼の独房には壁一面にびっしりと文字が書き記されていた。それは彼の発明した、誰にも理解できない文字を、誰にも理解できない文法で並べた、誰にも理解できない言語の羅列だった。まさにインド人もビックリである。これでは、「今回の雑文はすごく面白かったです」というファンからのメールは望むべくもないわけだ。
6.オチをつける
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7.自信を持つ
素人の書いた文章でよく見かけるのが、「あまり面白くありませんが」などというたぐいの一文である。言いわけなのか謙遜しているのか読者を馬鹿にしているのか知らないが、こんな但し書きは付けるだけ無駄である。本当に面白くないのならそんな文章は書くべきではないし、面白いのなら嘘をついていることになる。嘘はいけない。人として最悪である。もちろん「面白くありませんが」などと言われてわざわざそれを読む人はいないので、せっかくの読者を逃がしてしまうことにもなる。いずれにせよ、ロクな結果は生まない。
そもそも何かを書いて世に発表した時点であなたは自分の主張や思想を開陳してしまっているのだから、その後になって遠慮してみたり言いわけしてみたりするのは言行不一致であり、読者に対して不誠実である。いっそ「光ある者は私の文を読むが良い。私の思想は世界を駆け巡り、やがて支配する」ぐらいのことを言ってしまったほうが良いぐらいだ。
「でもボクは文章がヘタだから」という意見は、よく耳にする。では上手な文章とはどういう文章なのかと問いたい。私はそんな文章を読んだことがない。あなたは文章がヘタなのではなく、単に日本語の使い方を間違っているだけなのだ。間違いは正すべきだが日本語を完璧に使いこなせる人間がこの地上に存在するとも思えないので、あなたが誰かに対して卑屈になる必要はない。
8.サービスをする
自分の書きたいことだけを書いて「はい、おしまい」では、いくらなんでも自分勝手である。少しは読者のことも考えなければいけない。自分だけさっさとコトを終えてしまって「おやすみなさい」と言うようなものだ。これでは、誰も読んで/寝てくれない。だからといって、文章中にウフンとかアハンとか入れておけば良いというわけではない。人として、最低限の羞恥心は持ちたいものだ。
サービスの仕方は色々とある。たとえば、ダジャレという方法がその一つだ。おもしろいダジャレは硬い文章を柔らかくし、一種のスパイスのように読者の心を刺激する。上質のダジャレは、それ単体で読者のハートをつかむことが可能だ。文章家たるもの、常に良質なダジャレの二つや三つぐらいはストックしておきたいものである。「冷やし中華は冷やし中か」とか。ウフン。
9.宝くじを当てる
もともと文章を書くという行為は非常にぜいたくなものである。考えてみれば良い。原稿用紙に向かって万年筆でちまちまと文字を書いている時間をそのまま田畑を耕す時間にあてれば、どれだけ生産的か。明日の米にも困るような暮らしをしている人には、文章など書いているヒマはないのである。昔の、いわゆる文豪などと呼ばれている人々でさえも、名が売れるまでは「ブンガクやってるゴクツブシ」程度の扱いだったのだ。ペンを握るよりクワを握れ、なのである。詩を作るより畑を作れ、なのだ。ブンガクなんかやってる場合ではないのである。
よって、思うぞんぶん文章を書くためには、そうしたぜいたくを許してくれるだけの資産が必要だ。要するにカネである。マネーである。ダジャレではない。マネーさえあれば、世の中なにをやったって許されるのだ。小学生の作文のようなクソつまらないエッセーを出版するのも、どこかで見たようなトリックをパクってミステリを書くのも、自由である。ゴーストライターを雇うのも悪くない。人を殺したって、マネーの力でどうにかなるのである。まちがってほしくないが、人を殺せと言っているのではない。無論、殺すのは勝手だが。
一言で言ってしまえば、金持ちになるのはそれほど難しいことではない。その一般的な方法として、銀行強盗や営利誘拐、貨幣偽造などがよく知られている。もう少し簡単なところでは、空き巣やひったくり、スリなどが挙げられよう。最も簡単なのは「お金持ちの家に生まれる」ことだ。一生食っていくだけのカネに困らない生活であれば、書くものにも自然と余裕が生まれる。サービスだって簡単だ。読者全員に現金をプレゼントすれば良いのである。もちろん、アンケートで「面白かった」と答えた人だけにだ。
銀行強盗をする度胸もなく、貨幣を偽造する技術力もなく、お金持ちの家に生まれる才覚もない人は(そんな人が文章を書くのはおこがましいというものだが)最後の手段として宝くじを試してみると良い。もし当たった場合は私にごちそうしてくれると、なお良いだろう。
10.悪人になる
文章を書いて他人の目の触れるところに公開するという行為は、言ってしまえば人通りのある交差点で延々と自分の思想や感情をがなりたてるようなものだ。まともな神経を持った人間に、こんなことはできない。文章家をこころざす者は、自信家で恥知らずで周囲の意見になど耳を貸さないマイペース人間でなければならないのだ。世間では、こういう人のことを「イヤな奴」と言う。
イヤな奴になると、まず周囲の人間がすべて馬鹿に見えてくる。自分の書いているものは大変な傑作でそれを理解できない周囲の人間こそが愚かなのだと思うようになってくる。こうなると、文章を書くのが楽しくて仕方ない。他人への批判、誹謗や中傷に始まって盗作や剽窃、なんでもやりたい放題である。イヤな奴に著作権などという言葉は存在しない。(ただし自分の作品には著作権があると信じている)。当然、他人の感情やプライバシーなどは、おかまいなしである。そんなことを気にしているヒマがあったら、文章を書いていた方が楽しい。ここまでくれば立派な文章家(悪人)である。
11.他人に読ませる
さて、今やあなたは立派な悪人になり、宝くじも当てた。オリジナリティあふれる文章には自信があり、サービス精神も忘れていない。もちろん、オチは完璧である。
だが、そうして書き上げた文章は誰かに読ませなければ何の意味もない。注意してもらいたいのは「読んでもらう」のではなく「読ませる」ということだ。力ずくで無理やり読ませろというのではない。うら若い女性を拉致監禁して無理やり官能小説を読ませるなどというのは非常に心踊るシチュエーションだが、そういうことは文章の中だけでやるように。ではどういうことかというと、つまり読み始めたら止まらないような文章を書けということである。読者の心も時間も奪い尽くすような文章を、あなたは書かなければならないのだ。無論あなたはすでにそのための技術を身につけている。
ひとつことわっておきたいのは、その文章を私宛てに送りつけたりしないように、ということだ。
