3日目−37
「止めなくて良かったんですか?」
フマの姿が見えなくなると、マナはジェミニに訊ねた。
「べつに、止める義理もないやろ。あいつがやりたがっとんのやから、ほっときゃええよ。それに、俺は結構マジメに引き止めとったと思うで? あいつが聞く耳持たんかっただけやろ」
「言われてみれば、そうかもしれません」
「それにまぁ、案外フマが勝つ可能性もあるしな」
「そうですか?」
「あいつの鋏は弾丸を切り落とせるちぅ話やったしな。かんたんには死なんやろ」
「でも拳銃以外の武器とか持ってたら、やられちゃうんじゃありませんか?」
「ああ、サイオンさんのことだから何気なく毒薬とか隠し持ってそうやな。まぁそんときは、『フマ最強伝説』打ち切りっちゅーことで」
そう言ってジェミニは、おもしろいジョークでも口にしたように笑うのだった。
「……なんか、フマさんが死ぬのを期待してるみたいに見えますよ?」
「いや、そんな期待なんかしとらんよ? ただ、フマが死んだほうがおもろいなぁと思っとるだけやで」
「そういえば、ジェミニさんってそういう人でしたね」
「なんか俺だけ一方的に悪人みたいなこと言われとるけど、フマの奴だって俺のこと平気で殺そうとしてたんやで?」
「フマさんの気持ちは、ちょっとわかります」
「俺の気持ちは?」
「これっぽっちもわかりません」
容赦ない一言を浴びせるマナに、ジェミニは「せやな。俺もジェミニの気持ちはよぉワカランわ」と応じて、乾いた笑い声をたてるのだった。
ごく短いその笑い声がおさまると、プールサイドには沈黙が落ちた。
ジェミニとマナは、おなじベンチに腰を下ろしている。その間隔が大きくあいているのが、マナの警戒心とジェミニの信用度をあらわしているのだった。
アンダンテにいたっては、一寸たりともジェミニに近付こうとしない。単に、男より女のほうが好きだからという理由かもしれないが。もっとも、サングラス姿の詐欺師と制服姿の女子高生では勝負にならないのが明らかであった。
「なぁ。ところでマナのスキルは何なん?」
思い出したように、詐欺師が訊ねた。
「わかりません。ジェミニさんこそ、どんなスキルなんですか?」
「不運」
正直に、ジェミニは答えた。かくす意味がなかったのだ。この場は正直に話すことで少しでも好感度を上げておいたほうが良い。そう判断したのである。すでに彼の好感度メーターは壊滅的なことになっていたのだが、なにもしないよりはマシだった。
「ふうん……?」
マナは、すぐに言葉の意味を理解できなかった。
ジェミニが説明した。
「運が悪いっちぅことや」
「……そんなスキルあるんですか?」
「まぁ、俺の予想やけどな。ああ、そんならマナ君。俺とジャンケンしてみようや」
「なんでですか?」
「ホンマにオレの運が悪いかどうか、たしかめてみよう思てな」
「ジェミニさんの運が悪いなんて、みんな知ってると思いますけど」
「せやな。俺も知っとるわ。でも、どれぐらい不運なのか把握しといたほうがええやろ」
「かもしれませんね。じゃあジャンケンしてみますか?」
「おお。そんなら行くで。最初はグー」
結果、ジェミニの六勝四敗だった。
おもわず頭をひねるジェミニだったが、彼に与えられた『不運』は真の不幸をもたらすものであって、ジャンケンのようなゲームには影響しないのだった。無論、ジャンケンの勝敗に全財産でも懸かっていれば話は違ったが。
「なんだ。ジェミニさんの勝ち越しじゃないですか」
意外そうな口調で言うマナ。
「せやなあ。ちょっと予想と違ったわ」
「もしかしたら、『不運』じゃなくて他のスキルがあるかもしれませんよ?」
「自分でも言うのも何やけど、不運以外かんがえられへんわ」
「えーと。あれですよ。流れ弾が飛んでくる能力とか」
「いらんわ、そんな能力」
「じゃあ、床が崩れる能力とか」
「……結局は『不運』の一言に集約される能力やな、それ」
「かもしれませんね」
マナがそう言ったとき、不意にアンダンテが頭を持ち上げた。ベンチの上に寝転がったまま、眠そうな目で廊下のほうを見つめる。
出入口のドアは、フマが飛び出していったときのまま開きっぱなしになっていた。そこから吹き込んできた微かな風を、彼は感じ取ったのだ。
しかし、察知できたのはそれだけだった。風の動き以外なにもないことをたしかめると、アンダンテはあくびを噛み殺して再び眠りにつくのだった。
3日目−38
「どうしたん? アンダンテ」
彼の動作に気付いて、ジェミニが声をかけた。
その声を完全無視して、寝たふりするアンダンテ。
「どうかしたんですか?」
と、マナ。彼女はアンダンテが廊下のほうへ目をやったことに気付いてなかったのだ。
「いや、なんか今こいつが妙な動きしたんよ」
ジェミニの言葉に、アンダンテの耳がぴくっと動いた。
「なにしたんですか?」
「ただドアのほう見とっただけやけど。さっきまで寝てたとこ急に目ぇ覚ましたから、なにかあったんかと思うたんや」
「ドアのほう……?」
言いながら、その方向を振り向くマナ。
とくに目につくものはない。見えるのは、薄青色のタイルが敷きつめられた床と壁。水のないプール槽。廊下沿いに並んだガラス窓。それだけだ。
「ドアが開けっぱなしだから、気になったんじゃありませんか?」
マナが言うと、アンダンテの尻尾がくにゃりと動いた。否定なのか肯定なのか、だれにもわからない動き。
「まぁ、そうかもしれへんな。こいつ、妙なところで神経質やし」
おなじように、尻尾がくにゃり。やはり意味はわからない。
「ドア、閉めてきましょうか?」
「ええやろ、べつに。それより、さっきの話のつづきしようや」
「なんでしたっけ。……あ。ジェミニさんが不幸だっていう話でしたね」
「不幸ちゃうわ。不運や。……ていうか俺の話はもうええわ。マナ君のスキルの話を聞きたいんやって」
「さっきも答えましたけど、わからないんですよ。本当に」
「せやったな」
一瞬、ジェミニは疑いの眼差しを向けたが、すぐに思いなおして質問を変えた。
「そんなら、アンダンテのスキルは知っとる?」
「え。知りませんけど……。猫になってるのがスキルじゃないんですか?」
「マジで?」
「あたしは、そうだと思ってましたけど。ちがうのかな」
「だとしたら、えらいゴミスキルやな」
「ジェ……いえ、そうかもしれませんね」
ジェミニさんのスキルよりマシだと思いますよと言いかけて、さすがにそれはひどすぎると言葉を言い換えるマナ。
「いまマナ君が何を言おうとしたか、よぉわかるで」
「……スミマセン」
「いや、謝らんでええけど。……とにかく、マナもアンダンテのスキルは見たことないわけやな?」
「ないです」
「支給品は?」
「それも見てないです。たぶんアンダンテさんと最初に会ったのはあたしだと思うんですけど、そのときから何も持ってなかったし。……まぁ何も持てないに決まってますけど。猫にゃんだし」
「そーなると、やっぱり氷雨の持っとった拳銃はアンダンテの支給品だったんやろなぁ。まぁ今はフマの所持品になっとるけど」
「あたしも、そう思います」
ちいさくうなずくマナ。
「ところで、あたしもひとつ訊きたいんですけど」
アンダンテの背中に向けていた視線をジェミニのほうへ投げかけて、彼女は言った。
「ええよ。なんでも訊いてみ」
「ジェミニさんの支給品って、ほんとに画鋲だったんですか?」
この問いに、ジェミニは心底うんざりした表情になって、こう答えた。
「ああ。ほんとうに、まぎれもなく、たしかに、どこからどこまでも、画鋲やったで」
「そ、そうですか……」
マナは、これまでジェミニに対しておこなってきた行為──火の玉をぶつけようとしたこと、突風で十メートルぐらい吹き飛ばしたこと、その他もろもろ──を思い出して、すこしだけ反省したほうがいいかもと思うのだった。
3日目−39
「それじゃジェミニさんって、いままで『画鋲』と『不運』で戦ってたんですか……?」
マナの口から出てきたのは、しかし反省の言葉ではなく追い討ちの言葉だった。
「ああ、まぁ戦うっちうか、逃げまわってただけやけどな」
「うわあ……」
驚いたような、感心したような、あるいは哀れむような。そんな表情を浮かべるマナ。
いずれの表情も、ジェミニにとっては見慣れたものだった。悲しいことに。
「ま、これぐらいのハンデがあって丁度ええわ。ハンデなかったら、ほかの人たちがかわいそうやろ?」
強がるジェミニだったが、全身あちこちの負傷は悲惨なほど痛々しい。
「あの……。もしかしてジェミニさんってマゾなんですか?」
「ゲイだのマゾだの、言いたい放題やな。キミら」
「ちがうんですか?」
「全然ちゃうわ」
「でも、みんなそう言ってますよ?」
「みんなって、人狼界隈の連中だけやろ」
「それだけで十分だと思いますけど……」
「俺はただ、女が嫌いなだけやっちゅーに」
「あ、やっぱりそうだったんですね……」
墓穴を掘るジェミニをよそに、ふたたびアンダンテが頭を動かした。先刻と同じく、やはりドアのほうを見つめている。
開けられたままのガラス扉。その向こうには短い廊下がのびて、更衣室までつながっている。
「なんかあるんか、アンダンテ」
ジェミニが問いかけた。廊下の奥まで目をこらしてみるものの、やはり異変は見当たらない。
しかしアンダンテは、じっとしたままその方向を見つめているのだった。見つめているというより、凝視しているといった様子。
「なんもないで?」
ジェミニの問いかけを無視して、アンダンテはベンチを飛び降りた。そのまま、慎重な足どりでドアのほうへ向かってゆく。
「どこ行くんですか、アンダンテさん」
マナが呼びかけた。
アンダンテは振り向きもしない。尻尾を水平に伸ばしながら、まっすぐ歩いてゆく。
マナがベンチを立ち上がり、追いかけようとした。
それを、ジェミニが制止した。
「待った。ちょっと様子見てみようや」
「え……? あ、はい。わかりました」
めずらしく真剣なジェミニの表情を見て、マナは従うことにした。
アンダンテは、ちいさな鼻をひくつかせながら歩いていた。
猫の嗅覚は、犬ほどではないにしても人間より遥かに優れている。その嗅覚で、彼は何かを察知しているのだった。
じきに彼は足を止めた。ベンチから五メートルほど離れた場所。
なにもない空間に向かって、彼は声を上げた。
「にぇーーーーーーーーー」
なにも起こらなかった。
アンダンテは、もういちど威嚇の声を上げた。
結果は同じだった。それだけで、あっというまに目つきが変わった。
たいていの猫は気が短い。ましてや、中身がアンダンテである。手が出るのは早かった。
「にぇっ!」
黒い毛皮につつまれた前脚が、素早く前方を薙ぎ払った。
フック気味の、いわゆる猫パンチである。あたれば、ちょっと痛い。
しかしながら、彼の右フックは虚空を空振りしただけだった。脚の長さに慣れてなかったのかもしれない。彼は足をスイッチして今度は左ストレートを見舞ったが、やはり空を切る音がむなしく響くのみだった。
「にゃーーーーー!」
アンダンテは、おおきく一歩踏み込んだ。
そして右前脚を振りかぶった次の瞬間。足元のタイル床が爆音とともに吹っ飛んだのであった。
3日目−40
アンダンテの体が、真横に弾け飛んだ。ちいさな体が二メートルほども吹き飛ばされて、毛玉みたいに床をころがる。
さほど大きな爆発ではなかった。十センチ角のタイルが数枚はがれるほどの規模でしかない。しかし、猫にとっては致命的な規模。
「アンダンテさんっ!」
悲鳴のような声をあげて、マナが駆け寄った。
一方、すかさず逃走経路を確保しようとするジェミニ。
対照的な二人である。
「みゃーー」
アンダンテは無事だった。吹っ飛んだのは爆風のせいではなく、自分の足で跳んだためだ。空中にいるところを爆風に押されて着地失敗したが、肩をちょっと擦りむいただけである。
体勢を立てなおしたアンダンテは、さきほどと同じように何もない空間をにらみつけていた。まるで、そこに何かがいるかのように。
「そこに、なにかあるんですか?」
マナが問いかけるのと同時に、ふたたび床が爆発した。やはり、アンダンテの足元である。しかし、今度はずいぶん位置がずれていた。アンダンテが軽く後ろにさがるだけでやりすごせる爆発だ。
地雷のようなスキルなのかと、マナは考えた。だとしたら、動きまわらないほうがいいかもしれない。──そう思ったとたん、つづけざまに爆発が起こった。その派手な爆音に、おもわずマナは立ちすくむ。
爆発したのは、あちこちの床が合計五ヶ所。割れたタイルを散乱させて、白い煙を上げている。いずれも大した規模ではないが、直撃を浴びれば当然ただでは済みそうになかった。
「なんなの、これ……」
マナには、何が起こっているのか見当もつかなかった。
だれかの攻撃を受けているのは間違いない。しかし、相手がどこにいるかわからないのだ。おまけに、相手の攻撃もどことなくおかしい。手当たり次第に攻撃しているのか、それとも遊んでいるのか。とにかく、無駄が多いように彼女には思えた。
「やはり、このやりかたには無理があったようだ」
突然、なにもない場所からそういう声が聞こえて、マナは耳を疑った。
男の声だ。それも、聞き覚えのある声質。
精霊の杖をかざしつつ、彼女は心当たりの名前を呼びかけた。
「その声、伯爵さん……?」
「おや。ばれたか。それじゃ仕方ない」
とぼけた口調の言葉が聞こえると同時に、彼は姿をあらわした。
黒いコート姿に、トレードマークのサングラス。真っ白な肌は女性のようにきめ細かく、適度に伸ばされた黒髪は魔法でもかけたようにサラサラしている。口元に浮かべられた薄笑いは地上に存在するものすべてを見通したような余裕と残酷さに満ちて、ルージュでも引いたようなその唇で彼は言うのだった。
「俺としては、うまく隠れてたつもりだったんだがな。まったく、『好奇心猫を殺す』とは、よく言ったものだ」
その外見も、言葉遣いも、なにからなにまで伯爵本人だった。
3日目−41
「伯爵さん、生きてたんですね……」
マナの口調は、しかし彼の生存をよろこぶものではなかった。
にやりと笑って、伯爵は応じる。
「なにか勘違いしてるようだな。俺は今まで一度だって死んだことはないんだが」
「だって、でも、昨日死んでたじゃありませんか」
「おぼえがないな」
「放送でルール説明があった後ですよ! 氷雨さんが見て、死んでるって言ってました!」
「それは氷雨が間違えただけだな。あるいは嘘をついた。どちらにせよ、俺は死んだ覚えがない」
「でも、心臓にナイフが刺さって……」
「俺には心臓が二つあるんだ」
「ウソですよね?」
真剣な面持ちで訊ねるマナ。
「俺は冗談は言っても嘘はつかないんだぜ?」
「それも冗談なんですよね?」
「いまのは真実だ。心臓が二つあるとかいうのは冗談だがな」
「じゃあどうやって……。もしかして、死んだフリしてたとか……」
「マナがそれを知ったところで、俺には何の利益もないな。したがって俺は説明しない。それに、手品の種明かしをするのはマジシャンとしての仁義に反する。だいたい、マナは俺とおしゃべりしてる場合じゃないんじゃないか?」
「え……?」
「逃げなくていいのか? ジェミニはとっくに逃げたぜ?」
「ええっ!?」
周囲を見回して、おもわずマナは舌打ちしそうになった。伯爵の言うとおり。いつのまにやら、ジェミニは姿を消していた。それこそ特殊能力なのではと疑うほど、すばやい行動。アンダンテが逃げずにいたことだけが、マナの救いだった。
彼女は精霊の杖をにぎりしめ、言った。
「でも、どうして逃げないといけないんですか?」
「言わないとわからないのか。俺は人狼なんだぜ? さっき、アンダンテを殺そうとしただろ? あれを見たならわかるはずだがな」
「伯爵さんが人狼なのは、とっくにわかってます。でも、どうしてあたしが逃げなきゃいけないんですか」
最後のほうは早口になっていた。そうしなければ最後まで言えなかったのだ。声がふるえて。
「おっと。これは予想外」
おどけたように、伯爵は口元をゆがめてみせた。他人を小馬鹿にしたときの表情が非常に似合う男である。表情だけでなく、その口調も。
「マナが逃げようとするなら、俺は追いかけるつもりもなかったんだがな。そういう態度じゃ仕方ない。どちらが死ぬか、勝負するしかないな」
伯爵の言葉に、マナは一歩あとずさった。逃げるためではない。杖をかまえるためだ。
「あたし、負けませんよ?」
「俺はやさしいから、ひとつ教えてやろう。サイオンのスキルは知ってるよな? 『Immortal』って名前がついてるんだが、おなじ能力を俺も持ってる。つまり、俺を殺すことはできない」
「スキルは一人ひとつずつっていうルールだったはずです」
動揺を見せずに、マナは指摘した。
「えらいえらい。よく覚えてたもんだ」
やはり小馬鹿にするような調子で、伯爵は言った。
マナは動じなかった。一昨日新宿で初めて姿を見せたときとは別人のような強靭さを、彼女はこの二日間で身につけていた。
「それぐらい覚えてます。伯爵さんのスキルは、透明になるか、ものを爆発させるか、どっちかですよね」
「いい推理だ。しかし、両方だとは思わないのか?」
「スキルを二つ持ってるなんてインチキじゃないですか」
「べつにインチキじゃないぜ? 俺のスキルは『他人のスキルをコピーする』ってものだからな」
言い終えるのと同時に、彼の姿は再び消え去った。予備動作も何もない。投影された映像のように、その姿は瞬時に消えたのだった。
「これは、せんべえのスキルだ。相手から見えなくなるなんて、ものすごく便利だよな。ただ、音や匂いまで消せるわけじゃない。俺としたことが、そんなことも気付かずアンダンテごときに見つかるとは恥ずかしいぜ。……まぁ、この汚辱はアンダンテを殺すことで晴らすとしようか」
「アンダンテさんは死なせません!」
マナは精霊の杖をふりかぶり、横薙ぎに振り払った。その先端に埋め込まれた宝石がトパーズの輝きを発して、風を切る音が走り抜ける。先刻まで伯爵が立っていた空間を、圧縮された空気が吹き抜けた。コンクリートを削り取る、ガリッという音。巨大な刃物で切りつけたような一文字の裂傷が、壁に刻まれた。風の魔法だった。
一瞬後、なにもない空間から血の色が流れ出して床に落ち、爆発するのをマナは見た。それが前条のスキルだということを、彼女は知らなかった。
3日目−42
マナは即座に悟った。先刻から何度も見ている爆発の正体を。あれは伯爵が血液を飛ばして爆発させていたのだ。
身を守るには土の壁を作って──。そう思った直後、もっと良い案を思いついて彼女はそれを実行した。自分の周囲に、薄い水の壁を張りめぐらせたのだ。これで血の飛沫はおさえることができるし、伯爵が近付いてくればすぐにわかる。唯一の問題は視界が悪くなることだったが、もとより相手の姿が見えないのだから問題にはならなかった。
「アンダンテさん、こっちに来てください!」
マナが声を張り上げたとたん、横手から血のしずくが飛んできた。水の壁に行く手をさえぎられたそれは、爆発することなく水の中に溶けてしまう。狙いどおりの効果に、かすかな笑みを浮かべるマナ。
「無駄ですよ、伯爵さん。あたし、いろんな魔法つかえるんですから」
「魔法なら、俺も使えるぜ?」
伯爵が答えた瞬間。マナは狙いすまして杖を突き出した。声の聞こえた方向に向かって。赤い輝きをまとった杖の先端が水壁を突き抜け、巨大な火球がほとばしった。
「うぉっ!」
演技とは見えない伯爵の声がはじけた。タイルの上に足音がはねる。
バスケットボールほどもありそうな火の玉は一瞬プールサイドを真夏のような明るさにして、焦げつく匂いをまきちらしながら壁にぶつかり、轟音を発して砕け散った。ジェミニを攻撃したときとくらべて、あきらかにレベルアップしていた。
「あぶないな。俺を殺す気か」
あくまでも、とぼけた口調を崩さない伯爵。
「はい。殺す気です」
彼のペースに巻き込まれたら負けるということを、マナはよく知っていた。あまり会話につきあわないほうがいい。しかし、しゃべらせなければ位置がわからなかった。
「でも、伯爵さんって不死身だったんじゃないんですか?」
「死ななくても、火の玉にさわったら熱いだろ」
「そこ!」
マナは躊躇しなかった。声の聞こえた場所に向けて、もう一発火球を撃ち込んだ。
当たらなかった。姿の見えない相手に直線的な攻撃を加えても、なかなか命中するものではない。
「にゃ」
マナの足元にやってきたアンダンテが、前脚で水壁を指し示した。次に、床をちょんちょんとつついてみせる。
なにを言おうとしているのか、マナは即座に理解した。精霊の杖を掲げ、水の力をイメージする。赤い宝石が紫色を経て青に変わり、透明感のある輝きを放った。サファイアの色。同時に、杖の先からスプリンクラーのような勢いで水が噴き出した。
たちまち、床から天井まであたり一面水びたしになった。マナも、頭から水をかぶったような状態である。アンダンテがぷるぷると体をふるわせて水を弾き飛ばした。
水びたしになった床の上に、ぱしゃっと水の跳ねる音がした。伯爵が水面を踏む音だった。
マナは右手に握った杖を横一文字に薙ぎ払った。動きの途中で、宝石は黄色に変化していた。
突風がうなりをあげた。床の水を吹き散らして押し寄せた風は、透明になっていた伯爵の体を簡単に吹き飛ばし、そのまま壁に叩きつけた。
げふっ、と伯爵の喉から声が漏れた。漏れたのは血だけではなかった。吐き出された血が床に落ちて、爆煙をあげた。
「あたしの勝ちですね」
かたときの猶予も与えず、マナは杖を突き出した。トパーズ色の宝石がジリッと音をたてて漏電する。次の瞬間。あふれだした金色のスパークが、いびつな波線を描きながら伯爵に向かって伸びた。
3日目−43
落雷のような音を轟かせて、電撃は壁にぶち当たった。
かろうじて直撃をかわした伯爵だったが、まきちらされた水の表面を伝った電流が彼の足を感電させ、縛りつけた。
無論、マナに伯爵の姿は見えない。しかし電気の流れる音や足音、それに水の音がターゲットの居場所を教えていた。
マナは、たてつづけに電撃を放った。湯水のように消費されるMPは、尋常な量ではなかった。彼女に与えられたスキルが、こうした魔法の連発を可能にしていた。その名前どおり、魔力を無限に供給する能力。Mana。それが、彼女に割り振られたスキルなのであった。
伯爵は、驚くべき反射神経と冷静な判断力とで、この電撃もどうにか避けることに成功した。が、できたのはそこまでだった。濡れた床に足をすべらせて彼は尻餅をつき、その拍子に姿をあらわしてしまった。彼らしくもないミスだった。
「伯爵さん、覚悟してください」
床に倒れたままの彼に向かって、マナはビシッと精霊の杖をつきつけた。
ふたりの距離は五メートル少々。撃ち出された電撃を避けられる距離ではなかった。立っているならまだしも、尻餅をついた状態ではどうにもならない。
それでも、伯爵は不敵な笑みを崩さなかった。あくまでも相手を小馬鹿にしたような表情を保ったまま、ゆっくりと腕を動かした。
「ふむ。わかった。今回は俺の負けってことにしようじゃないか」
彼は両手をあげて、あっさりと降伏の意思を示した。
「そんなことしたって、ぜったい騙されませんから!」
反射的に大声をあげるマナ。一方的に押しているにもかかわらず声が引きつっているのは、それだけ彼女が伯爵を恐れているという事実の証左に他ならなかった。
「いやいや。まてまて」
伯爵は床に座り込んだまま、両手をさらに高くあげてみせた。
「よく見ようぜ? だますもなにも、俺はこうして『まいりました』って言ってるんだ。いったい俺が何をだますって言うんだ? 俺はただ、いさぎよく負けを認めてるだけだぞ。マナの言ってることは、ちょっとおかしいな」
「おかしくありません! もう牛村の人たちの言うことは信じないって決めたんです!」
道義的に正しい主張をするマナ。この空間に来てからの一連のできごとを思い出してみれば、彼女ならずともそういう結論に達するのが当然だった。
「そうか。たしかに、牛村っていうのはひどい所だからな。信じられなくなるのも無理はない。俺だって、あんなヤツらのことは信じてないさ。しかし、中には例外もある。たとえば俺の言うことは信じていい。ぜったいに損はしない」
くいっ、と指先でサングラスを押し上げながら、口先八丁の弁舌をふるおうとする伯爵。
しかし、もはやその手に乗るマナではなかった。
「伯爵さんとジェミニさんって、ほんと似てますよね。外見もそうですけど、中身が特に」
「それは心外だな。俺はあんな人でなしじゃないぜ? というより、俺とジェミニに似てる部分は一つもないと思うんだがな」
「あたしには、おなじに見えます」
「俺だったら、女の子一人とネコ一匹を置いて自分だけトンズラしたりはしないぜ?」
「支給品が画鋲でも、ですか?」
「……それはまぁ、スキルでどうにかしようじゃないか」
「スキルは『不運』だって言ってました」
「……なぁ。それは俺に言っちゃいけない情報じゃないかと思うんだが」
「そうですね。でも、いいんです。自業自得ですよ」
ジェミニのアイテムとスキルをばらしてしまったマナだったが、一ミリたりとも後悔してはいなかった。女の子を置いて一人でさっさと逃げだすような男は、すこし痛い目を見たほうがいい。そう思っていた。
「それに、どうせ伯爵さんはここでゲームオーバーになるんだから同じことです」
マナは一歩前に出て、精霊の杖を握りなおした。その先端の石が黄色から赤色に変わって、ゆらめくように炎が震える。
「おかしいな。俺のゲームはまだ始まったばかりのはずなんだが」
伯爵は余裕めいた笑みを絶やさなかったが、サングラスに反射して揺れる炎の色は彼の内心の動揺を示しているようでもあった。
3日目−44
「ところで、さっきの魔法は電撃か? いや、電撃だよな。そういうことにしよう。ピカチュー。いや、そんなことはどうでもよかった。ひとつ質問だ。マナは、電気がどれぐらいの早さで流れるか知ってるか?」
「知りません、そんなの」
「光の速さと同じさ。光の速度は知ってるか?」
「知りませんてば」
「秒速三十万キロメートル。つまり、撃たれたのを見てから回避することなんてできないのさ。しかし、さっき俺はかわすことができた。これは凄いことだよな」
「そうですね。でも次は無理だと思いますよ」
「俺がどうやって避けたか、聞きたくないか?」
「べつにどうでもいいです」
マナは伯爵の口車に乗らなかった。昨日までの彼女ならあっさり丸め込まれていたところだが、わずか二日の間にマナは驚くべき成長を遂げていたのだった。他人を信じない、という方向で。
アンダンテが、みじかい声を上げて前足を横に払った。それは、いますぐに伯爵を殺せと指示しているようでもあった。実際そのとおりにすべきだと、マナも思っていた。
「興味なさそうだな。それなら、なぜ電気が人体にダメージを与えるかということを教えてやろう」
「もっと興味ありません」
「まぁ、そう言うな。聞けば勉強になるぞ。いいか? まず人体は神経と筋肉によって動いている。神経細胞に情報がインプットされると細胞膜の外側に電位差が生じて、ナトリウムイオンが」
「なに言ってるのか、全然わかりません」
「おっと。そうか。では最初からやろう。イオンがどういうものか知ってるか?」
「知りません。ていうか、なにがしたいんですか」
「俺の話を最後まで聞けばわかる」
「聞きたくありません」
とりつく島もないとは、まさにこのことだった。
伯爵は床にあぐらをかいたまま、これみよがしに肩をすくめてみせた。
「こまったな。そうなると、俺は封印されたスキルを解放してマナを殺さなければならないことになる。それは避けたい。なにしろ、このスキルは悪魔の与えた能力……。この俺にさえ制御できるかどうか……」
「なんですか、それ。厨二病みたいですよ」
「そうだな。俺も今のセリフはちょっとどうかと思った。だが、わりと本気なんだ。できれば、このスキルは使いたくない。俺の美学に反する」
「なんだかわかりませんけど、じゃあトドメさしちゃいますよ」
こともなげに言って、マナは精霊の杖に魔力をこめた。
「わかった。よく聞いてくれ」
伯爵はサングラスに指をあてて、こう言った。
「ひとつなのにサングラス」
「……え?」
それがギャグだということに、マナは気付かなかった。
彼女が氷雨のスキルを知っていれば、その恐ろしさに打ち震えたかもしれない。しかしあいにく、彼女はそれを知らないのだった。おかげで、伯爵の一言はまったく意図不明の言葉として処理された。
「おかしいな。こんなはずじゃなかったんだが……」
伯爵の笑みが凍りついた。
「なんだかわかりませんけど、あたしのこと恨まないでくださいね」
勝利者の余裕を見せながら、マナは火炎の魔法を発動させた。彼女の魔力に従って杖全体が明るく輝き、巨大なバーナーのようにオレンジ色の炎が噴き出した。
3日目−45
そのとき。アンダンテが鋭い声をたてた。
シャァッという、紙をちぎったような擦過音。警告の声だった。
「え……!?」
マナが振り返るのと同時に、無数の銃声がプールサイドを満たした。むきだしのコンクリートに硬い音が跳ねかえり、耳をつんざく。UZIマイクロマシンガンの発射音だった。サイオンが撃ったのだ。
マナは、どうすることもできなかった。魔法を使うヒマなど、あろうはずもなかった。
振り返った彼女の腹部と左肩に、九ミリ弾二発が命中した。着弾の衝撃で体が後ろにのけぞり、焼けつくような激痛がマナを襲う。
「あぐ……っ!」
うめき声を漏らしながら、彼女は一歩うしろによろけた。バランスを失って、がくんと膝が崩れる。そのまま倒れるかと見えたが、そうはならなかった。彼女は強烈な意志をもってその場に踏みとどまり──、
「うあああああッ!」
雄叫びとともに、十メートル前方の敵に向かって精霊の杖を振り払った。
ゴオッ、と燃えさかる炎の音がこだました。杖の先端に埋め込まれた赤い宝石が深紅の軌跡を描きだし、その光条に沿って拳ほどの大きさの火炎弾がショットガンのように撃ち出された。十発や二十発ではなかった。すくなく見ても二百発以上の火炎弾が、音速に近い速度でばらまかれた。
サイオンは、よけようともしなかった。無論、よけようとしたところでどうにも出来るものではなかった。せいぜい、体を半身にして少しでもダメージを減らすぐらいが関の山だった。
まったく無駄な行為だった。全身に数発の命中弾を受けて、サイオンは紙人形のように後方へ吹っ飛んだ。いずれも、一発で致命傷になる攻撃だった。
目標をはずれた大量の火炎弾は壁や床にぶつかり、すさまじい爆音と爆煙をまきちらした。壁も床も天井も、いたるところ崩れ落ちて、火の海の中に瓦礫の山が広がる。まるで、ナパーム弾を投下したようなありさまだった。マナの杖のたった一振りで、プールサイドの一角は完全に破壊し尽くされたのだった。
オレンジ色の炎に照らされながら、ほんのわずかのあいだ彼女は呆然とした顔でその光景を眺めていた。いくらルール無用の魔法でも、ここまでのことが出来るとは思ってもいなかったのだ。
もしかすると勝てるかもしれない──。つかのま彼女はそう思ったが、銃創の痛みがすぐに現実を呼び戻した。
「痛……」
泣きそうな顔になりながら、マナは撃たれた腹部をおさえた。
いくら精霊の杖が強力でも、その傷を治す魔法は存在しなかった。おさえた手のひらの下で、ブルーグレーの制服がじわじわと血の色に染められてゆく。その痛みに耐えながら、彼女はふと思った。──本当にこれはゲームなのかと。
しかし、そのつづきを考える時間もなかった。たおれたはずのサイオンが、ふたたび立ち上がって撃ってきたのだ。炎と煙のくすぶる中を悠然と近付いてくる彼女の姿は、あたかもターミネーターを思わせるものだった。
今度の射撃は、しかし一発も当たらなかった。不死身の能力を持つサイオンとはいえ、すべてのダメージを瞬時に修復できるわけではない。先刻受けた火炎弾のダメージは、彼女の右腕をかるく麻痺させていた。
「もう、死んで! ください!」
悲鳴にも似た声を張り上げながら、マナは十文字を描くように杖を振り抜いた。
横に振り払ったとき、巨大な隕石のような火炎弾が。縦に振り下ろしたとき、赤紫色の稲妻が。それぞれ撃ち出された。どちらも、真正面からサイオンに命中した。プールサイドの壁を粉砕し、廊下にまで突き抜けた魔法弾はそこの壁も半壊させて、サイオンの体を消し炭のようにしてしまった。
砕けたのは壁だけではなかった。おおきな振動とともに天井のコンクリートまでもが砕け落ちて、次から次へと巨大な瓦礫がサイオンの上に積みかさねられていった。そのまま建物全体が崩壊しそうなほどの勢いだった。が、幸か不幸かそうはならず、ひとしきり瓦礫が降りそそいだあとは震災現場のような惨状が残るだけだった。
3日目−46
不死身だとしても、これならすぐには出てこれないはず──。そう判断して、マナは大きく息を吐いた。
彼女は完全に油断していた。いつのまにか伯爵の姿が消えていることに、すぐには気付かなかった。突然の奇襲に狼狽していたとはいえ、あまりに致命的な油断だった。
先に気付いたのはアンダンテだった。
マナの背後。なにもない空間から、赤い飛沫が飛んできた。それを防ぐための水壁は、とうに消えていた。伯爵の狙いは正確だった。爆発性の血飛沫は、まっすぐにマナの背中めがけて飛んだ。
とっさに、アンダンテはマナを突き飛ばした。──否。突き飛ばそうとしたが、できなかった。彼の体重はあまりに軽すぎたのだ。それでもマナをよろめかせることぐらいはできたが、結果的には何の意味も成さなかった。
数滴の飛沫がマナの背中に付着して、爆発した。血と肉の欠片が飛び散り、悲鳴を上げてマナは膝をついた。それでも、振り返って杖を構えることができたのは賞賛すべき精神力だった。
「どこにいるのよっ!」
もはや、ていねいな言葉を保つ余裕もなかった。こんな理不尽なゲームには、もう付き合っていられなかった。いますぐ狼二匹を始末してゲームを終わらせてやる。激痛に耐えながら、マナはそのことだけを考えた。これほどのダメージを受けても、まだ彼女は諦めてはいなかった。
そのすぐ横で、アンダンテはスンスンと鼻を鳴らしていた。匂いで敵の位置を探ろうとしているらしい。懸命な表情だったが、たちこめる炎と煙の中では無駄な努力としか見えなかった。
そのとき。彼らの左前方で物音がした。コンクリートの上に石が落ちる音。
反射的に、マナは杖を突き出した。バリッという、高圧電流の走る音。杖の先端が金色の光に包まれるや、巨大なフォークのような形をした三本の稲妻がほとばしった。
直後、マナの右側から赤い液体が飛んできた。石の音は罠だったのだ。稲妻の魔法は虚空を走り抜けて壁にぶつかり、伯爵の飛ばした血飛沫はマナの胸に命中して爆発した。
ぼたぼたと、おびただしい量の血が床をたたいた。血と肉の焦げる匂い。胸元と口元から血をあふれさせながら、マナはアンダンテを見下ろした。そして、ふるえる声で「逃げてください」と告げた。
彼女のゲームは、そこまでだった。言い終えるのと同時に、右手から杖が落ちた。カツンという音が、むなしく響く。そのあとを追うようにして、マナはゆっくりと崩れ落ちた。
わずかのあいだ、アンダンテは悲しげな表情でマナを見つめていた。──が、黙祷をささげるヒマもあらばこそ。寸分の容赦も慈悲もなく、伯爵の攻撃が飛んできた。
ネコ一匹のサイズでは、血の一滴でも直撃すれば致命傷になる。それでも、猫科の動物の身軽さは人間の比ではなかった。獣の反応速度と敏捷性でその攻撃を避けると、アンダンテは精霊の杖を口にくわえて駆けだした。
「逃がさないぜ」
伯爵が、透明化を解いて姿をあらわした。
指先から垂れた血が床に落ちて爆発し、長いコートをひるがえして彼は走りだした。
が、五歩走ったところでその足が止まった。マナが、彼の足首をつかんだのだ。彼女は、まだ死んではいなかった。
舌打ちして、伯爵はマナの首筋に手をあてた。かるく押さえつけるような動き。ずぶっ、と砂の中へ手をつっこんだように、指がめりこんだ。力は込められていない。手の触れた箇所が、白い粉末のようなものになっていった。触れたものを砂糖粒に変える、ユーロのスキルだった。
数秒後、切断面から一滴の血も流すことなく、マナの首は断ち切られていた。
3日目−47
マナを片付けて廊下へ出た伯爵だったが、すでにアンダンテの姿はなかった。そこにあるのは、崩れ落ちた瓦礫の山と、焼夷弾で焼き尽くされたような一面の焼け跡。
瓦礫の前に立ちながら、伯爵はしばしのあいだ考え込んだ。
このサイオンは俺が助けるしかないよな、俺しかいないしな、しかし面倒だよな、ほっとけば自力で出てくるかもな、なにしろサイオンだしな、うん、きっと自力で出てくるさ。
──とは思ったものの、瓦礫の山が一向に動く気配がないことを見て取ると、やむなくといった調子で彼は瓦礫を砂糖に変えはじめた。
この能力は相当量のMPを消費するのだが、マナのスキルをコピーした伯爵にとってその心配はもはや必要なかった。その気になれば、この空間に存在するもの全てを砂糖粒に変えてしまうことさえ不可能ではないのだ。無論、膨大な時間がかかることを厭わなければの話だが。
一分ほどかかって瓦礫の山を砂糖の山に変えると、その中から砂糖まみれのサイオンが出てきた。マナの火炎弾でウェルダンステーキのようになっていたはずの彼女だが、その体には既にかすり傷ひとつ残っていない。ただ、コートやスカートはボロ布のようなありさまだった。こればかりは彼女のスキルでもどうにもならなかった。
「ほら」
瓦礫の中から立ち上がろうとするサイオンに向かって、伯爵は手を差しのべた。
サイオンはそれを無視して立ち上がり、足元に落ちていたUZIを拾い上げて動作をたしかめた。マガジンを外し、ボルトを引いてセレクターを動かし、銃口を床に向けて空撃ちを一発。問題なく動作するようだった。
「お手をわずらわせまして、申しわけありません。ところで、マナ様はどうなりましたか」
淡々と、サイオンは訊ねた。
「きっちりかたづけた」
「そうですか。おつかれさまです」
「だが、アンダンテには逃げられたぜ。ついでに言うと、杖も持っていかれた」
「アンダンテ様はともかく、杖のほうは押さえておきたかったところですね」
「俺が持ったら無敵すぎてゲームにならねぇし、ちょうどいいさ」
「できれば、ラクに勝ちたいのですけれどね……」
ふぅ、と息をついてサイオンはコートの裾を払った。焼け焦げた生地が、粉状になってパラパラ落ちる。
「ラクに勝ちたいなら、俺にImmortalをコピーさせてくれればいいと思うんだけどな」
と、伯爵。
サイオンは彼の顔を一瞥すると、すぐに視線をはずして答えた。
「おことわりします。まえにも言いましたが、あなたが恋人だったとき取り返しがつかなくなりますので」
「俺が恋人なんか引くわけないだろ」
「残念ながら、私にはあなたの発言の真偽を見抜く能力がありません。それに、こういう能力は自分ひとりが持っているからこそ価値があるのですよ」
「さすがサイオン。用心深い」
おどけたような口調で、伯爵は言ってみせた。
そして、こう続けた。
「考えかたを変えようぜ。俺がやろうと思えば、サイオンに見つからないようにImmortalをコピーすることだってできるんだ。しかし現状それをやってないってことは、俺が恋人じゃないことの証明になるだろう?」
「いえ、なりませんね。そういう主張をするために演技しているのかもしれませんし、そもそも何らかの問題があってコピーできないのかもしれないではありませんか」
「問題? たとえば?」
「まぁ、これはうすうす気付いていたことなのですけれど。あなたが透明になっている間は、なにも見えていないのでは? 音は聞こえているようですけれど」
「よく気付いたな。さすがサイオン」
あっさりと認めて、伯爵は笑った。
サイオンの推察は正解だった。伯爵の透明化能力は、彼自身が透明になる一方で彼の視力もゼロになるのである。そして、彼はこの事実を誰にも明かしていなかった。
「あの動きかたを見れば、だれでもわかります」
「まぁそうだよな。あれを見ればわかるよな。透明なのに『見ればわかる』ってのも皮肉な話だぜ」
「そうですね。ともかく、私のスキルをコピーすることは禁じますので。もちろん、恋人陣営を処理したと確信できたときには遠慮なくコピーしていただいて構いませんが」
「その前に俺が死んだらどうするんだ」
「私が死ななければ勝てるのですから、良いではありませんか」
しずかに言って、サイオンは長い髪を肩に撫でつけた。