Dust in the night 〜 Lords of Genomes




 Dust thou art,and unto dust shalt thou return.

―― Genesis





 冷たい夜だった。氷を溶かしたような夜気が、静かに渦を巻いて墨色の曇天から落ちてくる。星ひとつ見えない十二月の夜空は硬質に凍りついて、今にも雪を降らせそうな気配だった。風はなく、夜は静寂に満たされて冴え渡り、月明かりさえ見せずに淡々と更けてゆく。
 ロンドンの郊外。静かに氷結した墨色の空に突き刺さるようにして、高く尖塔が聳え立っていた。レンガ造りの古い塔は外壁のいたる所が崩れ落ちて、年月の古さを物語っている。その陰に隠れるようにして夜の底にうずくまっているのは、同じく朽ち欠けて崩れ果てた礼拝堂だった。外壁と天井の大半が形を失ったその礼拝堂はかつてヨーロッパでも屈指の名刹として知られていたが、半世紀以上もの昔に打ち捨てられ、廃教会となったそれは長い年月を経て誰からも忘れ去られ、管理する者もないままに無残な姿をさらしている。
 女がその教会に現れたのは、日付も変わろうとする深夜になってのことだった。夜目にも映える雪色の肌に、エナメルを流したようなブロンドの髪。青く透った瞳はサファイアの色。吐く息は肌の色よりも白く、毛の生え変わったばかりのような狐の色のコートに身を包んで、どこからかやってきた彼女は尖塔の前に一人、佇んでいた。
 尖塔は時計塔だった。その頂には巨大な時計盤が据えられていたが、既に動かなくなって久しいその時計に二本の針はなく、枯れ果てた蔦が盤面を覆い尽くしていた。崩れたレンガの隙間に覗くのは赤銅色に錆びついた大鐘だったが、無論のこと鐘が音をたてることは有り得なかった。
 女はしばらくの間、動かない時計を見上げていたが、やがてゆっくりと礼拝堂に向かって歩きだした。廃棄された教会の庭内は崩落した瓦礫や枯草で一杯だった。加えて、この夜の暗さである。彼女の手には、弱々しい蝋燭の明かりが一つあるばかりだった。にも関わらず、彼女は特に難渋するでもなく歩き慣れた様子で枯草を踏み分けてゆくのだった。
 礼拝堂には扉がなかった。それはとうの昔に砕け崩れて、庭内のいずこかに転がっていた。彼女は、わずかの逡巡も見せなかった。何でもないことのように、崩れた外壁の隙間から中へと入り込み、軽くコートの裾を払った。その動作は、ひどく優雅だった。そこは確かにかつて入口のあった箇所だったが、彼女がそれを知っていたのか否か――。
 ゆらめく蝋燭の炎に照らし出されて、堂内は瓦礫と埃の山だった。会衆席の大半はそれら大量の瓦礫の下に埋もれてまるで震災に見舞われたかのようなありさまだったが、奇跡的にも祭壇と十字架だけは形を留めていた。その祭壇に向かって、彼女はまっすぐに側廊を渡った。その右手には燭台が提げられ、左手の脇には二冊の書物が挟まれていた。石造りの床にブーツの底がカツカツと響き、ジリジリと蝋を焦がす炎の音と重なって、冷たく凝固した夜に小さな音の波形を刻み込んだ。
 ――と、
「汝は顔に汗を流して食物を得、ついには土に帰る。汝がそこから取られた土に……」
 不意に、女が口を開いた。呟くようなその言葉は、聖書の一節だった。
「汝は塵なのだから、塵にこそ帰るべきである」
 創世記。世界の始まりと人間の基本的な罪について記された書の、最も印象的な一節。アルト歌手のように美しく響くその声は四方の壁に撥ね返って、木霊しながら鳴り響いた。
 祭壇の前に足を止めて、彼女は燭台を置いた。木製の祭壇には薄く埃が積もって、あちこちにインクの汚れが散っている。彼女は静かに二冊の書物を燭台の隣に並べた。一冊は旧約聖書、もう一冊はウェルチの詩集だった。百人のゾーイに一房のバナナを――。そういう題名の、小さい詩集だった。どれだけ読み返されたのか、どちらの書も表紙が擦り切れて変色している。
 彼女は腰を低くして両肘を祭壇の上につき、左右の手を組み合わせた。その手に自らの額を押し当てるようにして、何かを祈るように瞼を閉じる。それからゆっくりと顔を上げて、遥かな高みに掲げられた十字架を仰ぎ、一言、小さく呟いた。
「主よ、お許しください」
 その一言で、彼女は意を決したようだった。姿勢を直し、胸の前で十字を切ると、コートのポケットに手を入れた。その中からスプレー式の缶が取り出されて、祭壇の上に軽い音を立てた。レトロアクション。そういう名のスプレーだった。
 そっと彼女の手が離れると、無機質な銀色のその表面にはうっすらと白く指の跡が残った。それはたちまち消え失せて、代わりに彼女の唇から深く真っ白な息が吐き出された。その青白い指先がほんのわずか詩集に触れて、小さく震えたようだった。
 彼女の名はゾーイといった。





 ゾーイとウェルチが知り合ったのは、ある春の日のことだった。同じ大学の神学部に籍を置く二人は、世の多くの男女がそうであるように、食堂で席が隣だったとかその時たまたま同じ物を食べていたとか、そんなどうでもいいような理由で互いの名を交換しあい、その延長のようにして交際を持つようになった。ごく平凡な男女の二人は世間のどこにでもあるような恋愛をし、時には喧嘩をすることもあったが、彼らの人生が世間と少し違ったのは、ウェルチの持つ二つの特異な才能のためだった。
 その一つは詩才だった。彼は大学で神学を学ぶ傍ら、半ば趣味として聖書の英訳をおこなっていた。大学在籍中に完成したこのウェルチの訳出した聖書は非常に洗練された翻訳として一部の文人や学者に好評を受け、その余勢を駆った彼は独自の詩集を発表し、二十世紀末のイギリスでは珍しい若き詩人として世に知られたのである。
 ウェルチは、そのいかにも英国紳士的な憂鬱そのものの容貌と、繊細かつ幻想的な詩文とによって、当時の詩壇からは想像もつかないほどの人気を博した。読者の多くは若い女性で、この頃の彼が街を歩くとまるで映画俳優かロックアーティストのようにサインを求められた。しかし彼は決してそうしたファンに必要以上の愛想を振りまくことはなく、ゾーイ以外の女性には見向きもしなかった。人生に必要なのは一冊の聖書と詩、それにゾーイだけだと、当時の彼は公言していた。
 彼は何度となくマスメディアに取り上げられ必然的に詩壇文壇での影響力も強めていったが、その中でゾーイの助力を無視することはできないだろう。ウェルチはコールリッジの生まれ変わりと言われたが、ゾーイはシェークスピアの申し子だった。何となれば、その作品の全てを彼女は諳んじていたのである。それだけではなかった。彼女は新約聖書の全てと旧約聖書の大半をも諳んじていたのだ。ウェルチは確かに天才だったが、ゾーイもまた古今まれに見る異才――才媛――だった。
 ウェルチに与えられたもう一つの才能は、非常に特殊なものだった。マルチパーパスDTと呼ばれるナノマシンを自在に操り、メモリーセルを使って超人的な現象を起こす能力。一般にDTマスター能力と呼ばれ、数万人に一人とも言われるその才能こそが、彼と彼の永遠の伴侶ゾーイの運命を決定づける最大にして唯一の原因となるのであった。

 大学を卒業後、ウェルチは文壇に確固たる地位を築き、文筆業に精を出すとともに気ままな自適生活を始めた。ロンドンからやや離れた郊外に安くガレージハウスを買い、学生時代から同棲生活をしていたゾーイとは籍を入れることもせずに、恋人というよりはほとんど夫婦のような生活を続けた。
 朝はのんびりと昼近くになってから起床し、時間をかけて朝食をとったあと付近を散歩。季節によっては近くの川べりで日がな一日釣り糸を垂れ、午後の紅茶を楽しんだあと気が向けば万年筆を手に取るといった具合の毎日。ゾーイは近所の福祉施設へボランティアに出かけ、日が暮れれば二人そろって飼い猫を引きつれ、車でマーケットに買い物。もともとウェルチの家庭は資産家だったため、収入の安定しない作家業でもそういう生活が可能だった。
 そうした生活は五年ほども続いたが、終わりは突然やってきた。二人が出会った春の日と同じような風がロンドンに吹いた日、一人ショッピングに出かけたゾーイは発砲事件に巻き込まれて命を落とした。どんなに善良で敬虔な市民にも訪れる可能性のある、それは理不尽で唐突な出来事だった。
 ウェルチの落胆と悲しみようは尋常なものではなかった。最初の数日間は放心状態のまま周囲の呼びかけにも反応せず、その後は数ヶ月にわたってアルコールとドラッグに溺れた。最終的に警察の保護を受け、更正した彼はゾーイの仇を討とうと考えるようになった。
 当初はマフィア同士の抗争に巻き込まれたとされたゾーイの死だったが、ウェルチの根気強く執拗な調査によって、マフィアとは異なる超法規的な二つの組織の名が浮かび上がってきたのである。それが、マハトとエリクシールだった。そして、ゾーイを撃ったのはエリクシールの構成員だったのである。その日のうちに、ウェルチはあらゆるコネクションを利用してマハトの幹部と接触した。
 こうして、ウェルチはマハトの一人となったのである。

 文壇に影響力を持つウェルチは、少々変わったメンバーの一人としてマハト幹部に歓迎された。そして彼は実際に詩人というその立場を利用して時には秘密裏に、時には堂々と、マスメディア上でマハトの活動を後押しした。また戦闘訓練も率先して受講し、エリクシールとの武力衝突があると聞けば何を置いても参加する彼は、詩人という通り名の神秘性もあって次第に敵味方を問わず知れ渡るようになっていった。
 彼にDTマスターの適性があることは、じきに明らかになった。数少ないマスターを得たことでマハト実行部は沸き、ウェルチは自身の思いもかけない能力に戸惑うこととなった。マスター能力に目覚めた全ての者がそうであるように、ウェルチもまた世界のあらゆる構造が変形し、形そのものを喪失したことを知った。もはや死は死ではなく、聖書に記された神の奇蹟ですらも自らの手で発現させることが可能となったのだ。この事実は、神学を学んだ彼にとって天地が逆転するほどの衝撃だった。彼ならずとも、多くの人間にとって神は絶対の存在だった。だが、今や彼自身が神の力を手に入れてしまったのだ。
 この能力を得たその夜のうちに、ウェルチは形見として保管していたゾーイの髪から彼女のコピーを作り上げた。それを神への冒涜とは思わなかった。既に、彼の中に聖書への信仰は露ほども残されていなかった。

 ゾーイを取り戻したウェルチは、生前の彼女との生活をも取り戻そうと試みた。かつて二人が暮らしていたガレージハウスを買い戻し、猫と釣り竿もそろえて、まったく同じ生活を再現しようとしたのだった。金も力もある彼にとって、それはたやすいことだった。
 しかし、そんな作られた生活が長く続くはずもなかった。もはやウェルチは言葉を操る若き詩人ではなく、DTを操る無慈悲な殺人機械だったのだ。彼の永遠の敵エリクシールの追跡を受けて、ゾーイは再び惨殺された。と同時に彼女の生体情報はスキャンされ、幾人ものマスターたちに広められたのだった。
 ウェルチは自ら三人めのゾーイを合成し、同じ失敗を繰り返さぬようどこにでも彼女を連れて歩くようになった。無論、それには戦場も含まれていた。ウェルチは彼女に戦場での基本的なルールを教え込み、護身用の拳銃を携行させたが、それでも戦いのたびにゾーイは倒れ、死んでいった。
 悲劇はそれだけではなかった。戦場で、あるいは平常の場で、ウェルチは何人ものゾーイを目にすることとなった。戦場での戦力としてではなく、聖書やシェークスピアの作品を諳んじている生体ユニットとして、彼女は一部の好事家たちの間で頻繁に利用された。彼女のデータは次第にマハトのマスターたちの間にも広まり、使われるようになっていった。そうして、ウェルチの愛した女性は単なる生体情報の一つとして世界に残されることとなったのである。
 この頃から、ウェルチはふさぎこみがちになった。マハト上層部の指示を無視して自室にこもり、詩の断片のようなものを書き散らしたり、ぼんやりとしたりする時間が多くなった。絶望感と虚無感に苛まれながら、彼はもう何人めだかわからないゾーイを横に置いて、空虚な時を過ごした。

 一方、マハト実行部ではエリクシール側の一人のDTマスターが問題視されていた。マスターの名は「蝿の王」の通称で呼ばれ、その神出鬼没の動きによってマハトは世界各地で甚大な被害を受けていたのだ。
 じきに蝿の王の能力が自らの体を無数の小動物に変化させるアトマイジングという技術であることが判明したが、それは飽くまで推論に過ぎなかった。マハト側に、そうした能力を持つマスターは一人として存在しなかったのである。
 推論を裏付けるための実験が要請された。目標は単独のマスターによる複数体の小動物への変化、および人間への再合成。相応の力を持つマスターとして白羽の矢が立てられたのが、ほかならぬウェルチであった。
 彼は、この打診を受け入れた。命に関わる危険な実験だったが、ためらいもしなかった。既にこのとき、彼は死に場所を探していたのかもしれない。この前後に著された彼の詩集『百人のゾーイに一房のバナナを』に、以下のような一節が見られる。

 汝のかけら全てを
 葬儀屋たちよ、燃やせ
 汝は塵なのだから
 塵にこそ、帰るべきである

 聖書の翻訳で名を成したウェルチにふさわしい一節だった。これによって彼は自らの死を予言したのだとも自ら望んで命を断ったのだとも言われている。
 ともあれ、実験は失敗に終わった。小動物の選定には実戦的であるとの理由から水陸空いずれでの活動も可能なゲンゴロウが選ばれたが、ウェルチは多くの立会人に見守られたまま数千匹のその昆虫に姿を変えたまま二度と人間の姿に戻ることはなかったのである。それらは一匹残らず捕獲され、実行部監視のもとゾーイの手によって水槽内に飼育されたが、翌年の冬には寿命で全滅した。
 そうして、百人めのゾーイは一人残されたのである。





 夜は冷たさを増してゆくようだった。ゆるく流れ始めた風は礼拝堂の淀んだ空気を洗い流し、祭壇の蝋燭を瞬かせる。既に蝋燭はそのほとんどが溶けて燭台の底に固まり、芯は倒れかけて斜めにオレンジ色の火を発していた。
 ゾーイは蝋燭の炎を見つめていた。サファイア色の瞳に映る炎は、彼女に何を思い出させるのか。あるいは、何も思い出させはしないのか。そもそも、思い出すような何事かが彼女の中には記録されているのか。一体、彼女は何人めのゾーイなのか。
 彼女は動かなかった。胸の前で握りしめる右手には、レトロアクションのスプレーがあった。DT合成された物体を元の姿に戻すための専用キット。これを噴霧することで、あらゆるDT合成物を塵に帰すことができる。アトマイズしたDTマスターを人間の姿に戻すのも簡単なことだ。ただ一つの欠点は長い時間を経た合成物に対して効果を発揮しない点だったが、その程度の瑕疵はレトロアクションの圧倒的な効果の前には些細な問題だった。事実、今年の秋に発表されたばかりのこの製品は、大変な需要に供給が追いつかないありさまである。ゾーイが自力でこれを手に入れたのだとしたら、それはかなりの幸運――否、不運だった。
 風が吹き込んだのか、蝋燭の炎が大きく揺らいだ。蝋の焦げる音が苦しげに軋って、煤混じりの黒い煙が立ち上った。風のせいではなかった。燃え尽きる寸前の炎が見せる、それは断末魔にも似た最後の揺らめきだった。
 その一瞬の後には、もう炎は燃え尽きて、冷たい夜を照らし出す明かりはもはやどこにも存在しなかった。祭壇も、十字架も、聖書も、そしてゾーイの姿もまた夜の闇に溶け込んで、微かに礼拝堂の闇の中に浮かぶのはゾーイの瞳の色だけになった。その色もすぐに閉じられて、堂内に完全な闇が落ちる。狂おしいほどの静寂が張り詰めて、やがていずこかからそれを破るのはレトロアクションの噴霧される音だった。
 ちらちらと、礼拝堂の天井から覗く空には幻影のように散りばめられた白。十二月の夜空には雪が降り始めて、音のない世界を作り出そうとしていた。DT合成物の溶け出す音は、舞い落ちる雪の中に掻き消されたのだろうか、どこからも届きはしなかった。

 人々の間でレトロアクションがダスザウアーと呼ばれるようになったのは、その雪がすっかり溶けて春が訪れてからのことである。



                         ――了



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