ジェミニの冒険




 むかしむかし、あるところに。ジェミニという、それはそれは不幸──じゃなくて不運な男がいました。
 その不運ぶりといったら、それはもうハンパねぇレベルで。自分の周囲にだけ雨を降らせることで知られた不運王トイトイと双璧を成すほどのものなのでした。

 あるとき彼は思いました。
 どうして俺はこんなに不運なんやろ。なにか原因があるに違いない。
 なんでも理詰めで考えるのが、彼の習性です。ほんとうのところ不運に原因なんてものはなかったのですが、それでもジェミニは原因があるものなのだと思いました。あるいは、思い込むことにしました。そうしなければ、この不運な人生に納得することができなかったのです。

 ジェミニは不運の原因をさぐろうと、国一番の賢者を訊ねました。
 その名も、紫のナビア。この国がとても平和なのは、彼女の力があってこそです。なにしろ、彼女が一睨みすればたちまち一万の軍勢を以下検閲削除済

 ジェミニはたずねました。どうして俺は不運なのかと。
 紫の賢者は答えました。
「うん。それは自業自得だよね」
 一刀両断でした。

 しかし、自業自得といわれればジェミニにも納得できるところがあります。というより、うすうす察しはついていましたが。
 まぁそんなことはどうでも良いのです。問題は、不運を打ち消す方法です。彼は問いました。
「どうしたら不運じゃなくなるんやろ」
「それは……えーとね……」
 大賢者ナビアでも、知っていることと知らないことがあるのでした。神様だってそんな方法は知らないのですから、無理もありません。

「じゃあ、占い師に見てもらったら?」
 なげやりな感じで、ナビアは提案しました。
「ええっ?」
 露骨にイヤそうな顔をするジェミニ。彼は占いとか何だとか、非科学的なものが大嫌いなのです。そのくせ「運」の存在を信じているのは不思議な話ですが。まあそれだけ不運な人生なのです。

 ともかく、占い師が呼ばれました。
 Qと呼ばれるこの占い師は、煎餅の割れ方を見て占いをするという、ちょっと変わった占術の使い手です。
 さっそく、彼は一枚の煎餅を割りました。

 ぱりーん!

「な、なんと! これは!」
 その煎餅の割れ方を見て、Qは驚愕の声を上げました。
「あなたは三日後に死にます!」

 ああ、なんという不運でしょう。
 でも、こんなのはジェミニにとってよくあることです。いちいち気にしてたら、ジェミニの役なんかやってられません。
 しかし、賢者ナビアが「そっかー。ジェミニは三日後に地獄行きなんだ。かわいそ」と言うと、さすがの彼もガタガタ震えだしました。賢者ナビアが嘘や冗談など言うわけがないからです。

「ど、どうしたらええんやろ」
「うーん。まぁ三日間精一杯生きたらいいんじゃないかな」
「そんなこと言わんと、なんとかしてくださいよ!」
 だいたいアンタが占い師とか呼んだからこんなことになったんやろ、と言いかけて口を閉ざすジェミニ。

「そういえば、思い出した。幸運の石っていうのがあるんだけど……」
「どんなんですか、それ」
「その石の所有者は全ての不運を払い、かならず幸運が訪れるという……」
「それ、まさに俺のためのアイテムやないですか!」
「でもなぁ。ジェミニの不運っていったら普通じゃないからなあ」
「普通ですよ! で、その石どこにあるんですか」
「あそこ」
 賢者ナビアは、窓の向こうを指さして言いました。

 それは、ものすごく高い塔でした。サーカス塔という名前で知られている、この国で一番高い建造物です。だれでも自由に出入りできますが、あまりそういうことをする人はいません。なにしろ、塔の住人は皆そろって頭がおかしいからです。

「昔、あの塔に隕石がぶつかったことがあるの。その隕石のカケラが幸運の石とか呼ばれてるわけ」
「隕石がぶつかって倒れない塔って、どんなんですか」
「そうね。運が良かったのよ」
「……そうですか」
 納得できないものを感じつつも、ジェミニはさっそく塔をめざして旅立ったのでした。割れた煎餅をあとにして。

 サーカス塔までの道のりは、長く険し──くもないものでした。ふつうに数時間歩けばたどりつく距離です。しかし、ふだんから運動不足のジェミニにとってはわりと試練でした。

 山道を歩いているとき、ふと彼は前方から聞こえてくる声に気付きました。
「たすけてー」という声。だれかが助けを求めているのです。
 うわ、かかわりたくねぇ。とっさにジェミニは、そう思いました。
 できるだけその声から遠ざかりたいと思った彼ですが、塔までは一本道で、どこにも迂回する経路などありません。やむなく、彼は道をまっすぐに進んでいきました。

 じきに、声の主が姿を見せました。
 それは、一匹の黒ウサギでした。かわいそうなことに、後ろ足をトラバサミの罠で挟まれています。地面はあちこち血まみれでした。
「ああっ。そこのサングラスのお兄さん。たすけてください!」
 と、黒ウサギ。
「ああ?」
 ジェミニは、ものすごく面倒くさそうな顔をしました。人前では体裁をとりつくろうのが上手な彼ですが、こんな場所では真の姿がさらされるのです。

「いや、これどう見ても無理やろ。はずれへんで」
 ろくに確かめもせず、ジェミニは決めつけました。手が汚れるのがイヤだったのです。
「そんなこと言わないで。おねがいします。このままだと、あたし死んじゃいます」
「いや別に死んでもええけどな……」
 うっかり本心を口にしてしまうジェミニ。ここまでの道のりで、ちょっと疲れているのでした。

「だいたい、なんでこんなところ歩いてたん?」
 どうでもよさそうに、彼はたずねました。
「じつは、大学受験のために幸運の石を手に入れようと……」
「大学? いや、そんなん勉強すればええんちゃうん」
「勉強もしてますよ! でも幸運の石とかいうのがあったら、ほしいじゃありませんか!」
「せやな。まぁ不運じゃなかったら、そんな罠に引っかからんやろうしな」
 他人事のように言うジェミニでしたが、じつはあと一時間早く出発していたら、この罠にかかっていたのは彼のほうだったのです。

「そんなら、ちょっと誰か呼んでくるわ」
 テキトーなことを言って、その場を離れようとするジェミニ。
「ちょ、ちょっと! 行かないで! 助けてください!」
 黒ウサギは必死でした。このサングラスの男は絶対に戻ってこない。そういう気がしたのです。事実、その予想は大当たりでした。

「だって、それは無理やろ。道具とかなかったら、どうにもならんで?」
「やってみなければわかりませんよ!」
「無理やって。見てのとおり、俺は非力やし」
 おまけに不運やし。と自嘲するジェミニ。むしろ俺がさわったら余計にケガがひどくなるんじゃないかとさえ思うぐらいでした。
 いずれにせよ、見も知らぬ赤の他人のウサギなど、助ける気はサラサラありません。なにしろ時間がないのです。三日以内に塔の頂上まで登らなければならないのです。こんなウサギと戯れているヒマは、カケラもないのでした。

「鬼! 悪魔! サングラス!」
 泣き叫ぶ黒ウサギをあとにして、ジェミニはサーカス塔をめざしました。
 道のりは長く険しく──どうでもいいので省略しましょう。
 数時間後、彼は塔の入口にたどりつきました。

 見上げてみると、ものすごい高さです。
 こんなん登れるんやろか。と不安になるジェミニ。
「エレベーターとかあったらええんやけどな」と夢みたいなことを呟きつつ、彼は塔の中へと足を踏み入れました。

 彼を迎えたのは、がらんとしたエントランスホール。
 その左側に、エレベーターがありました。しかも「展望台直通高速エレベーター」と書かれています。
 おもわずガッツポーズをとりそうになったジェミニでしたが、「修理中」のプラカードがかけられているのを見て、「まぁ予想はしとったけどな」と小さい溜め息をつきました。いつものこと(不運)です。

 そのとき、頭上から声が聞こえました。
「あなたも幸運の石を取りに来たんですか」
 ジェミニが見上げると、そこには一人の男の姿。
 べつだん変わったところのない身なりですが、ちょっとおかしいのは天井に立っているということです。髪や服だって、下に垂れ下がったりしてません。まるで彼だけが逆さまの世界に住んでいるようでした。
 男の名はミギ。この塔を建てた本人です。それがどういうことかというと、つまり彼こそがこの塔に住むすべてのキチガイどもの元締めなのでした。

 ウワサどおりの塔やなと思いつつ、ジェミニはたずねました。
「なぁ。なんで逆さまに立っとるん?」
「おかしなことを言いますね。逆さまに立ってるのは、あなたのほうじゃありませんか」
「まぁ、そういう見方もでけんこともないな」
「あなたは、どれだけ不運なんですか?」
「え……?」
「不運だから、この塔に来たんでしょう? 不運自慢を聞かせてください」
「そんなこと聞いてどうするん?」
「小説にします」
 そう言って、ミギはメモ帳を取り出しました。

「いや、そんなコトしとるヒマないんやけど」
 と、ジェミニ。
「この塔を作ったのは僕です。名前はミギといいます。よろしくおねがいします」
 いきなり、ミギはそんなことを言い出しました。
 ジェミニは半信半疑です。だって、頭上の男は彼と同じぐらいの年齢に見えるのですから。この塔が建てられたのは、何百年も昔のことです。一言で言って、ありえません。

 何にせよ、ジェミニにはよくわかりませんでした。ミギのしゃべったことの理由が。名乗ったことの理由が。
「……で? ええと、ミギ君とか言うたっけ。キミ、この塔を案内してくれるとか言うん?」
「しませんよ。そんなこと」
「じゃあ、どうして名乗ったん?」
「名乗ったらヘンですか?」
「いや、そういうわけじゃないねんけどな」
 どうにも話が噛み合いませんでした。
 しかたありません。この塔の住人は皆狂っているのですから。

「なあ、とりあえず降りてきてほしいんやけど。ずっと見上げとったから、首痛くなってきたわ」
「降りるのは無理です」
「……無理なら、しゃあないな。ところで、このエレベーターやけど。いつ修理終わるん?」
「フマさん次第です」
「だれや、それ」
「この塔の管理をまかせてます」

 待つだけ無駄のような気がして、ジェミニはエレベーターをあきらめました。もちろんフマという男と面識はありませんが、なんとなくこのエレベーターは永久に修理されないような気がしたのです。

「でもおかしいんですよ。ついさっきまで、ちゃんと動いてたんですけどねぇ……」
 そう言って、ミギは首をひねりました。
 これもまたジェミニの不運力による現象だということを、彼が知るはずもありませんでした。

「まぁええわ。そんなら階段で上ってこか」
「あれ。不運自慢はしてくれないんですか」
「なんで、そんなことせなあかんのや」
「たのしいですよ? 不運自慢」
「ミギ君一人でやっとったらええわ」
 言い捨てて、ジェミニは階段を上っていきました。
 後ろでは、ミギが本当に一人で不運自慢をしていました。壁に向かって、延々と。その姿は、どう見てもキチガイにほかなりませんでした。さすがは、キチガイどもの頭領です。

 塔の階段は螺旋状になっていて、どこまでも続きました。
 どれだけ上ったことでしょう。壁に穿たれた窓から外を見ると、青い月明かりが遥か遠くに見える地上を照らしています。
 グゥ、とおなかが鳴りました。そういえば、塔を上りはじめてからジェミニは何も口にしていません。おなかがへって当たりまえです。
 あのウサギかっさばいて焼肉にすれば良かったなと物騒なことを考えつつ、ジェミニは階段を上りました。

 ──と、そのとき。どこかから、おいしそうな匂いが漂ってきました。
 焼いた肉の匂い。まちがいありません。これはハンバーグの匂いです。

 匂いにつられて部屋に入ると、そこにあったのは夕食の風景でした。
 おおきなダイニングテーブルにいくつもの料理や飲み物が並べられて、ちょっとしたパーティーみたいなことになっています。
 ただ、ひとつだけ普通じゃないところがありました。
 床の上に男が倒れて、血を流しているのです。
 その隣に立っているのは、目を見張るほどの美少女。しかし、手に握られたナイフからは真っ赤な鮮血がしたたり落ちているのでした。
 とてもわかりやすい修羅場です。
 なにも見なかったことにして先を急ごうと思ったジェミニですが、それは許されませんでした。殺人者の少女と、目が合ってしまったからです。

「あ、あたしは悪くありませんよ! カズマが悪いんです! あたしよりハンバーグのほうが好きだとか言うから……!」
 泣き声を張り上げる少女。
 ああ面倒くせぇという表情を隠しもせずに、ジェミニは答えました。
「せやな。悪いのはその男やで。そんなら、そういうことで。じゃ」
「でも、殺すつもりなんてなかったんですよ! ちょっとナイフ刺したら、こんなことになっちゃって……」
「まぁナイフ刺したらフツー死ぬやろな」
 見れば、ナイフの刃先は確実に心臓を貫いているのでした。みごとな腕前と言うほかありません。
 ──そう。この美少女こそサーカス塔きっての殺人者。シャモンだったのです。

「そうだ。よかったら、うちでゴハン食べていきますか?」
 ひとしきり泣きわめいたあと、ケロリとした顔でシャモンは言いました。
 さすがのジェミニも、これにはついていけませんでした。
「いやいやいや。食事とかより、その死体どうにかしたほうがええんちゃうん」
「え。これですか?」
 あわれな死体を見下ろしながら、シャモンは言いました。
「どうにかって、どうするんですか?」
「俺に訊かれてもなぁ……」
「あ、この肉でハンバーグを作ったらおいしいかも!」
「…………」
 絶句するジェミニをよそに、彼女はあれこれと妄想をつづけました。その妄想の中でどれほどグロテスクなことがおこなわれているのか──ジェミニの想像などまるで及びもしないのでした。

 ジェミニは逃げようとしましたが、シャモンがナイフをかざして「食べていきますよね?」と言うと、さからうことはできませんでした。
 さいわいにも人肉ハンバーグがふるまわれることはありませんでしたが、そもそも最初から食卓にのっているハンバーグだって、何の肉なのかわかったものではありません。
 おそるおそる口に入れてみたジェミニですが、味覚音痴の彼には何の肉やらサッパリです。なにしろ牛肉と豚肉の区別だってつかないのですから、人肉だって気付かないかもしれません。
 でもまぁおいしかったので、気にせず食べることにしました。

 そんなことより気になったのは、壁に掛けられた絵の数々です。
 どれも一様に暗く、猟奇的なのです。あからさまに死体が描かれている絵も少なくありません。どう考えても、ダイニングに飾るような絵ではありませんでした。
 繰り返しますが、この塔の住人は例外なく狂っているのです。死体になって転がっている男も、またしかり。

「……で、シャモン君はなんでこの塔に住んどるん?」
 猟奇の晩餐を終えて、ジェミニはたずねました。
「最初は幸運の石を取りにきたんです。でも、ここから先に上れなくて……」
「どういうことや?」
「この先は、頭のおかしい人がいっぱいいるんです」
 キミもおかしいやろ、とジェミニは無言のツッコミを入れました。

「へぇ。たとえば、どんな人がおるん?」
 ジェミニの問いに、シャモンは声をひそめて答えました。
「このすぐ上にいるのは、妖怪みとみとです」
「みとみと……? どんなんや、それ」
「正体を見た人はいません」
「どういうことや」
「足音だけの妖怪なんです」
「妖怪ちゅうより幽霊やな」
「いえ、あれは妖怪です!」
「まぁ別にどっちでもええけど……。そのみとみと、なにか害があるん?」
「見ればわかります」
「いや、見えないんやろ?」

 ジェミニのつっこみをよそに、シャモンは続けました。
「さらにその上には、たらしのレフタイ、ひきこもりのフマ、全身おでこのハイカラとかがいます」
「全身おでこ……?」
「比喩ですよ?」
「いや、そらそうやろ」
「おでこが広いんです」
「そのまんまやな」
「その広さはユーラシア大陸ほどもあるという……」
 ジョークなのか本気なのか、ジェミニには区別がつきません。
 というより、フマとかいうのは塔の管理をまかせられてるとか言うてたような──という疑問もまた彼の脳裏をよぎりましたが、もはやそんなことは些細な問題でしかないようにも思えるのでした。

 数時間後、シャモンお手製の弁当を手にして、ジェミニはその部屋をあとにしました。
 ハンバーグを食べて体力を回復した彼は、意気揚々と階段を上っていきます。
 シャモンの話では、この上にひかえているのは妖怪みとみとだという話です。足音の妖怪。一体どんなものなのかと、ジェミニは耳をすませて先へ進みました。

 それは、突然あらわれました。
 ミトミトッという足音。それが、ものすごい勢いで上から駆け下りてきます。
 一瞬ひるんだジェミニですが、妖怪なんてものは信じません。ぐっと足を止めて、その場に踏みとどまりました。そして、足音がせまってくるのを待ちかまえます。

 その直後。ミトミトミトッという音をたてて、透明な何かが彼の横を走り抜けていきました。
 なのですーーーーーという謎の声が、エコーになって響きます。
 起こったのは、ただそれだけでした。

 あっけにとられたジェミニでしたが、すぐに気を取りなおして階段を上りはじめました。
 そして、すぐに足を止めることになりました。
 ひとりの男が階段を駆け下りてきたからです。仕立ての良い服に、ちょっとダンディなルックス。ガチでゲイのジェミニにとっては、目を奪われるぐらいの良い男です。

 これがレフタイやな、とジェミニは即座に悟りました。
 不運のクセして、いい男には目がないジェミニです。
「なぁ、ちょっとお話せぇへん?」と、声をかけました。
 しかし、たらしのレフタイは男なんかにこれっぽっちも興味ありません。というより、彼はいま忙しかったのです。妖怪みとみとをつかまえるのに。

「どけっ!」
 ジェミニをつきとばして、レフタイは階段を駆け下りていきました。
 なのですーーーという謎の呪文が遠くから聞こえます。
 ホントにキチガイばかりやな、と自分のことは棚に上げて、そっとジェミニは呟くのでした。

 そのとき。どこからともなくノイズ音が聞こえてきました。
 ラジオのチューニングをあわせるような、ザリザリした音。
 どこかにスピーカーがあるのかとジェミニはあたりを見回しました。しかし、そんなものどこにも見当たりません。この不思議な塔では、ラジオ放送をするのにそんなもの必要ないのです。
 そして、放送が始まりました。

「こんばんは。良い子のボーイズ&ガールズ。ホワイドディンゴのラジオの時間がやってきました。お相手はわたくしWDと……」

 鼻にかかった声で、男のDJが棒読みのセリフを読み上げました。
 思わず耳を覆ったジェミニですが、そんなものでサーカス塔のラジオ放送は防げません。一人二役のおぞましい番組が始まると、ジェミニの体力はガリガリ削られていきました。体力だけではなく、意志さえも。

 ラジオ放送は、しばらくのあいだ続きました。
 おそるべき拷問の時間がやってきたのです。実際のところ、この塔を上ることをあきらめた者たちの多くが、このラジオによって殺されたのでした。並みの神経では、とても耐えられるものではありません。ジャイアンのリサイタルでも聞いていたほうがマシではないかと思えるほどの苦痛に満ちた時間がすぎました。
 そのあいだ、ジェミニは両手で耳を覆い、床を転げまわっていました。まさに拷問です。

 しかし、その時間はそう長く続きませんでした。
 バアンという、扉を叩き開けるような音がDJディンゴの声にかぶさりました。
「な、なんだ。キミたち!」
「うるせぇ! いますぐ放送をやめろ!」
「なぜだ。私には放送する権利がある。それに、全国百万のリスナーが待ってくれているんだ。妨害することは許さん!」
「俺たちには安眠の権利があるんだよ!」
 銃声が響きました。それも、一発や二発でなく、何十発も。
 いったい何人の恨みを買っていたのでしょう。ほどなくして銃声はおさまり、あとにはシンとした静寂だけが残るのでした。
 ちなみに一番多くの銃弾を撃ち込んだのはスノーという住人でしたが、このお話とは関係ないので省略します。

 地獄のような時間が過ぎ去ると、めまいのする頭をかかえてジェミニは立ち上がりました。彼はようやく、身をもって知ったのです。この塔がいかに恐ろしいものであるかということを。あるいは、WDがいかに恐ろしいものであるかということを。──もっとも、その当人は既に葬り去られてしまいましたが。

 ジェミニは足を引きずりながら階段を上がりました。どれぐらい上ったか、もうまったくわかりません。窓から外を見下ろすと、街の明かりが遠くに見えます。
 これ、帰りもあるんやな──と考えると、ジェミニは心の底からげんなりするのでした。

 さらに上ると、不意に階段は途切れていました。かわりに、塔の内側へと廊下が伸びています。頂上に行くことだけが目的のジェミニにとって、こういう構造はウンザリでした。
 もっと上りやすく作れや、俺のために。と自分勝手なことを考えつつ、彼は廊下を進みました。
 もちろん、のぼりにくくするために、こういう作りになっているのです。作った人の性格の悪さがにじみでています。

 階段のつづきは、なかなか見つかりませんでした。
 あっちこっちと歩きまわっているうち、あっというまにジェミニは迷子になってしまいました。これもまた彼の不運の成せる技です。

 勘にまかせて歩いていると、ちいさな階段がありました。
 のぼってみると、その先には広大な空間が広がっているのでした。しずまりかえった部屋の中に、かぞえきれないほどの棚が並んでいます。よく見てみると、それは書棚でした。
 そう。ここは図書館だったのです。

 イヤな予感がして、ジェミニは引き返そうとしました。
 なぜそんな予感がしたのか、まったくわかりません。ただ、ここにいてはいけないような気がしたのです。いわゆる、野生の本能でした。ここにいたら殺される。そういう予感がしたのです。予感というより、確信に近いものでした。

 次の瞬間。ジェミニの背後から声がしました。
「あら。お客様ですか?」
 おそるおそる振り返ると、そこに一人の女性が立っていました。
 色の白い、利発そうな女性です。

「いや。ちょっと道に迷っただけなんや。すぐ出てくわ」
「え。迷子なんですか。じゃあ、あんまり歩きまわらないほうがいいですよ。よけいに迷うから」
「いや、でもここにおってもな……」
「ここ、図書館なんですよ? 塔の地図だってありますよ? 地図っていうか見取り図ですけど」

 これはなかなか興味を引かれる話でした。マップがあれば、かなりラクになります。
 野生の(不運の)勘と相談のすえ、ジェミニは彼女の言うとおりにしました。なにかあったら逃げればええわと気楽に考えて、彼は女性のあとについていきました。さっき殺人者に出会ったことを、忘れているのかもしれません。

 女性はユウキと名乗りました。でもこれは本当の名前ではありません。そもそもサーカス塔の住人は皆そろって本名を捨てていましたが、彼女の場合は偽名だけでも三百に及ぶほどの名前を持っているのでした。
 なぜそんなに名前を持っているのか、だれも知りません。彼女本人でさえも。正真正銘、彼女もまたこの塔の住人なのです。

 ジェミニは、さそわれるまま彼女についていきました。
 しかしながら、すぐに問題が発生しました。彼女は完全無欠の方向音痴だったのです。こうして、ソロの迷子がデュオの迷子になりました。

「なぁ、キミ図書館の関係者やろ? なんで道に迷うんや」
「すみません。あたし、まだ見習いで……。でも、おかしいな。迷うわけないんだけど……」
 首をひねるユウキでしたが、その原因はジェミニにありました。これもまた彼の不運の以下略だったのです。

「だれか、道のわかる人呼んだらええんちゃう?」
「そうですね。そうしましょう」
 あっさりうなずくユウキ。
 そして、彼女は大声を張り上げました。
「サイオンさーーん!」
 ああ。なんて不幸なジェミニ!

 一分たらずで、ひとりの女性が彼の前に現れました。
 全身黒ずくめの服。足元まで伸びた髪。口元にはうっすらとした笑みが張りついて、ぞっとするような表情を見せています。
 比喩的に言っても、真実を述べても、それは死神という表現がふさわしい存在なのでした。
 実際のところ、彼女は人間ではありません。まぁウサギのハングリとか妖怪のみとみととかが存在する世界ですから、なにも不思議なことはありませんが。
 ただサイオンが他の誰とも違っているのは、彼女が不死身であるという、ただその事実にほかなりません。ついでに言うと、彼女は人狼でもありました。人間のルールは通用しない相手です。

「この人、道に迷ったっていうんですよ」
 ガクブルしているジェミニをよそに、ユウキはそんなことを告げました。
 サイオンは何とも言えないような微笑をためて、ジェミニを見つめています。刺し貫く氷のような視線。その一睨みで体力ゲージが点滅するぐらいの──賢者ナビアにも匹敵するぐらいの破壊以下検閲削除済み

「塔の住人の方ではありませんね。まさかとは思いますが、幸運の石を取りにいらっしゃったのでしょうか」
 とてもていねいな、けれど事務的な口調でサイオンはたずねました。
 ジェミニは無言でうなずきます。
「あの石は、持ち出しを禁じられておりますけれど。それをご存知ですか?」
 と、サイオン。
「い、いや、聞いてへんわ」
「そうですか。ではお教えしておきます。あの石を持ち出すことは、決して認められません。そのうえでなお、石をご所望ですか?」

 わずかに考えて、ジェミニは首を縦に振りました。
 認められてなかろうが、手に入れてしまいさえすればどうにでもなるわ。
 そういう考えでした。典型的な、犯罪者の考えかたです。

「そうですか。ではあなたを信用して、案内役を紹介しましょう」
 淡々と、サイオンは言いました。
 もちろん、案内役なんていうのはウソです。監視役と呼ぶのが正解です。
 それぐらいのことは、ジェミニにもわかっていました。彼は運が悪いことで有名ですが、頭のほうは悪くありません。まぁ、頭が悪くてもサイオンの意図ぐらい誰でも気付いたことでしょうけれども。
「こちらへどうぞ」
 手招きされるまま、ジェミニは彼女のあとについていきました。

 やがてたどりついたのは、司書室です。
 そこに、二人の女性が控えていました。いや、控えていたなどというと随分上品に聞こえますが、実際はお茶を飲みながらおやつを食べたり下品な会話を繰り広げていただけのことです。
 女性のうち一人は、いかにも仕事のできそうなキャリアウーマン風。
 もう一人は、いかにも仕事のできなさそうなオデコの広い人でした。
 アイスとハイカラ。どちらも、本が好きでこの図書館に住みついているのです。

 二人は、あからさまに胡散臭そうな目をジェミニに向けました。
 無理もありません。ジェミニという男は、ほんとうに胡散臭いのです。ふだんは巧妙に好青年を演じていますが、こういう空間ではすぐに本性があらわになります。しかもアイスのように頭の良い女性から見ると、その胡散臭さは納豆をも凌駕するものなのでした。

「こちらのかたが、幸運の石を所望しているようなのですけれど。どなたか、ご案内役になっていただけませんか」
 サイオンの呼びかけに、アイスもハイカラも光の速度で首を横に振りました。
 無理もありません。ジェミニという男は、ほんとうに胡散臭いのです。(コピペ)ふだんは巧妙に好青年を演じていますが──あ、もうコピペはいいですか。
 とにかく、ジェミニの案内役をしてもいいよという奇特な人物はどこにもいないのでした。

 いつのまにか、ジェミニのまわりには四人の女性が集まっている状態です。ふつうの男ならウヒョハハハハなところですが、ジェミニの場合そうなりません。なぜならゲイだからです。まぁ、そうでなかったとしてもこの場の四人の女性には色々と問題がありましたが。
 たとえば、髪が異常に長いとか、オデコが異常に広いとか、カラオケで男みたいな歌い方をするとか、よくわからない小説を書くとか、そういう問題が。すみません、喧嘩売ってるわけじゃないんです。事実を言ってるだけなんです。

 そこへ、一匹の黒猫がやってきました。
 サイオンの飼い猫、アンダンテです。
 ただの猫ではありません。彼は人間の言葉をしゃべることができます。あと、エロ同人誌を作って金を稼いだり、カラオケで誰より早く曲を予約できたりします。特殊な猫なのです。

「だれか、道案内してあげるといいにゃ」
 と、アンダンテ。
 しかし、だれも名乗り出る者はいません。
 アンダンテは一同を見回すと、ユウキに向かって言いました。
「アヤノが道案内してあげたらいいにゃ」
「え。でも図書館の業務とかありますから……。まだ見習いなので、遊んでるヒマはありません」
「それもそうだにゃ。じゃあアイスにまかせるにゃ」
「絶対にイヤです」
 有無を言わせない口調で、アイスは言い切りました。とても正しい判断です。
 ちょっと困ったような顔で、アンダンテはハイカラを見ました。はっきり言ってたよりになりませんが、一応最後の一人です。
「じゃあハイカラにやってもらうしかないにゃー」
「いやです」
「なんでにゃー。おでこは広いくせに心がせまいにゃー」
「うるさいよ」

 こうして、ジェミニの案内役はアンダンテになりました。ほかに立候補がいなかったのだから、しかたありません。
 でもアンダンテにも計画がありました。ジェミニが幸運の石を手に入れたあとでそれを奪い取るという計画です。ドス黒い計画ですが、べつに悪いことではありません。詐欺師をだます詐欺師が悪党であるなどと、だれが言えるでしょうか。それこそ自業自得というやつです。

「いいですか。石を塔の外に持ち出そうとしたなら、あなたには厳罰がくだります。ゆめゆめ、お忘れなきように」
 念を押すようなサイオンの言葉を聞いて、ジェミニはアンダンテとともに図書館をあとにしようとしました。
 そのとき、アイスの手から一通の封筒がジェミニの手に渡されました。真っ白な封筒。差出人には似合わない、ハート型の封印。それは、いわゆるところのラブレターというやつでした。

「この塔のずっと上のほうに、スノーさんという人がいます。その人に、これを渡してほしい」
 と、アイスは言いました。
「それはええけど。会えるかどうか、わからへんよ?」
「会えなかったら、焼き捨ててほしい」
 ハードボイルドなことを言うアイスに、ジェミニはうなずきました。こいつ何か企んでるっぽいなと彼は思いましたが、アイスは何も企んではいません。ただ、会うことのできないスノーに思いを伝えたいだけなのでした。まぁ、どちらも女性でしたが。そんなことは些細な問題です。
 ともあれ、こうしてジェミニは旅の伴侶となる黒猫アンダンテを手に入れたのでした。どちらも相手を利用することしか考えてない、それはそれは実利的なタッグなのでありました。

「ところで、ジェミニは幸運の石のことをどれぐらい知ってるにゃ?」
 廊下を歩きながら、ふとアンダンテは思い出したように問いかけました。
「ん? どれぐらいもなにも、ぜんぜん知らんで?」
「思ったとおりの阿呆にゃんね」
「だれがアホやちうの」
「言っとくけど、あの石はカンタンに手に入らないにゃ。ジェミニは知ってるのかにゃ。この塔に住んでる連中はほとんどが幸運の石を取りに来てあきらめた負け犬ばっかりだってこと」
「それは知らんかったな。じゃあアンダンテもそうなん?」
「俺をあんなアタマおかしい連中と一緒にするんじゃねーにゃ。俺はセレブだにゃ。上流階級の出身だにゃ。精神的に貴族なんだにゃ。あんな庶民どもとは格が違うんにゃ。わかったにゃ? わかったら、今度からはアンダンテさまと呼べにゃ」
「……で、アンポンテはどうしてこの塔におるん?」
「教えてやらねーにゃ。すこしは自分で考えろにゃ」
「いやー。俺アタマ悪いからワカランわー」
「こいつ何だか妙にムカつく野郎だにゃ。おまえみたいなヤツはバナナの皮踏んで足すべらせてコンクリートにアタマ打って死ねにゃ」
 ジェミニにとってはわりと現実味を帯びた死にかたなので、シャレになってませんでした。

 そんな殺伐とした会話を繰り広げていると、ようやく上り階段が見つかりました。
 しかし、どうやら簡単には通れそうもありません。というのも、階段の前に一人の金髪女がウンコ座りして待ちかまえているのでした。紫色の特攻服に、日の丸ハチマキ。手には木刀を持っています。いまどきギャグ漫画でしかお目にかかれないような──それこそ絵に描いたようなヤンキーでした。

「おう、おまえら。どこ行くんだよ」
 ウンコ座りしたまま、ヤンキー女がガンをくれてきます。
 どこに行くもなにも、どう見たってこの階段を上ろうとしているのは明白でした。
「ちょっと幸運の石を取りに来てん」
 と、ジェミニ。
 その横でアンダンテはコクリとうなずきます。
「ああ? 幸運の石だと? そうか。んじゃあ、この階段を上りたいってワケだな?」
「そういうことやな」
「そんなら通行料払えや」
 そうです。これは、いわゆるカツアゲというやつでした。

「カネは持ってへんわ」
 もちろんウソです。財布の中には一万円ぐらい入っています。
「ウソつくんじゃねーよ。ちょっとジャンプしてみろよ、コラ」
 まさに、絵に描いたようなカツアゲです。
 ジェミニは一応ジャンプしてみました。
 その瞬間です。どこからともなくバナナの皮が現れて、彼の足元に転がりました。なんという怪現象でしょう。そう、これこそ量子論的トンネル効果によるなんたらかんたら。
 バナナの皮に足をとられて、ジェミニはぶざまにすっころびました。おそろしいほどの不運です。そのまま彼はコンクリートの床に頭を強打して帰らぬ人に──。

 というところでめでたしめでたしにしても良かったんですが(めでたいよね?)まぁもうちょっとだけジェミニの不幸な冒険をつづけましょう。

 バナナの皮でも奇跡的に一命をとりとめたジェミニですが、頭部からはダラダラと血が流れています。わりとシャレにならない出血量です。まぁジェミニの存在自体がシャレなので、べつにいいんですが。

「……おまえ、なにやってんの?」
 さすがのヤンキーなっちゃんも、これには驚くやら呆れるやら。
「いや、俺としたことが、ちょっと油断しとったわ」
 ちょっとでも気を抜くと、いつ人生が終わってしまうかわからないジェミニなのです。ウスバカゲロウみたいな人生。そもそも、彼にはあと三日で死ぬという占いが出ているのでした。バナナの皮で死んだって、ぜんぜん不思議ではなかったのです。

「まぁいいから、とりあえずカネ出せよ。カネ。英語で言うとマネー」
 頭から血を流しているジェミニに向かって、ヤンキーなっちゃんは容赦ない言葉を浴びせます。このサーカス塔では、人が死ぬことなんて日常茶飯事なのです。流血ぐらいで騒ぐ人はいません。まぁ現実の世界だって人が死ぬのは日常事ですが。
 それにしたって、目の前で血を流している人間に対して「カネよこせ」は、なかなか言えるものじゃありません。もっとも、立場が逆ならジェミニだって同じことをしたに違いありませんが。

「カネは持っとらんて言うたやろ」
 頭をおさえながら、ジェミニは答えました。
「そうか。そんなら帰りな。カネをよこさねぇなら、ここは通さないぜ」
「一応訊いとくけど、いくら払えばええんや?」
「そうだな。まぁ大一枚ってとこだな。そっちの猫は半額でいいぜ」
 なっちゃんの言葉に、何の迷いもなく五千円札を出すアンダンテ。さすがはセレブです。ジェミニみたいな下層民とは違います。

「めんどくせーから、さっさとカネ払えにゃ。それとも一万円程度も持ってねーのかにゃ。このサングラス」
「一万ぐらい持っとるわ」
「じゃあ払えにゃ。時間がもったいねーにゃ」
「おまえ、どっちの味方なん」
「俺はカネ持ってるヤツの味方だにゃ。一万円も持ってないようなクズとは、これ以上いっしょに冒険したくねぇにゃ」
「だから、一万円ぐらい持ってるちぅの」
「だから、さっさと払えにゃ。話をループさせるんじゃねぇにゃ。読者様がウンザリするだろーがにゃ。このゴミジェミ」

 しかたなく一万円を払って、ジェミニは第一の関門ヤンキーカツアゲ地獄を切り抜けたのでした。
 手持ちのカネは、もうありません。もういちどカツアゲされたらどうしようと、いじめられっ子みたいなことを考えながらジェミニは階段をのぼりました。

 しばらく進むと、今度は巨大な扉が彼らの前に立ちふさがりました。
 その扉の前には、ひとりの女性が座り込んでいます。ただし、この女性もまたミギと同じでした。つまり、天地が逆さまになっているのです。彼女の名前はキキ。サーカス塔でも、一、二を争うほどのガイキチです。

「あー、よかった。人が来た。ねぇねぇ、この扉あけてほしいんよ。できる?」
 天井から、キキが言いました。
 さかさまに立っていることの説明はありません。
「そのまえに、どうしてキミら重力が逆になっとんの?」
「え? 重力? なんそれ」
「……いや、訊いた俺がマヌケやったわ」
 重力が逆に働いているのは、この塔の持つ不思議な力です。ある法則によって重力が逆になるのですが、まぁ聡明な読者サマにはとっくにおわかりのことでしょう。

「またバカでかい扉やな……」
 その表面に触れながら、ジェミニはつぶやきました。
 実際、バカみたいに大きい扉です。具体的にどれぐらいかというと、とにかくバカみたいに大きいんです。
 扉は石で出来ていました。その全面に、幾何学的な図形が描かれています。模様ではなく、図形です。円と三角と直線が複雑に交差して、きれいな図形を作っているのです。

「これはパズルにゃんね」
 なにかに気付いたように、アンダンテが言いました。
 図形の一端を指差して(指でなくてツメですが)、彼はこう続けました。
「この円に内接する弦の角度を求めるんだにゃ。たぶん」
「ほぉ。おもろいな、それ」
 こういうことには強いジェミニです。さっそく、解きにかかりました。

「で、角度を求めてどうすりゃええん?」
「その数字の数だけ、ドアを叩けばいいにゃ。たしか、トム伯爵がそんなこと言ってたような気がするにゃ」
「適当に叩いとったら、そのうち開くんちゃうんか、それ」
「一回でもまちがえると、巨大な石の球が転がってきて殺されるって話だにゃ」
「マジかい」

 数学と幾何学には自信のあるジェミニでしたが、この問題はなかなかの難問でした。彼の知っている限りの定理をつかっても、一向に解が出てきません。
「ほんとうに解けるんか、これ」
「早く解けにゃ。こういうときぐらいしか役に立たねぇんだからにゃ」
「カンタンに言うけどな。おまえ、マジむずかしいで、これ」
「泣き言は聞きたくねぇにゃ。さっさと終わらせろにゃ」
 アンダンテは、どこまでも辛辣です。

「適当に叩いたら開くと思うんよ」
 さも当然のようにキキが言いました。
「おまえ、さっきの話聞いとった? まちがえたら死ぬ言うたやろ」
「あ。そうやったね。でも石の球が転がるのって、たぶんそっちのほうだと思うんよ」
 天井にいる自分は大丈夫だというわけです。この塔の住人は、皆身勝手です。
 そして、あろうことかキキは勝手に扉をノックしようとするのでした。もちろん、図形の角度なんか知ったことじゃありません。

「ちょ。ちょお待てや。俺を殺す気かい」
「だいじょーぶ。一発で正解すればいいんよ」
「どう見ても無理やろ。ちうか、オマエ図形なんか一度も見とらんやろ」
「見なくても大丈夫やけん。キキを信じて」
「どこが大丈夫なんや。やめとけや。な。本気で頼むで」
「だいじょーぶ。本気で正解するつもりで叩くけん。信じとって」
「『つもり』て、なんや。つもりで殺されたらシャレにならんわ」
「あはは。じぇみたんおもしろーい」
「なんもおもしろくないわ」
「いい? じゃあ叩くよ?」
「人の話を聞けや」
「聞いてるってば」
「じゃあ、その手をひっこめろや」
「えー。やだー」
「やめてくれや。マジ怒るで?」
「やだー。じぇみたんこわーい」
 アハハと笑いながら、扉に手を伸ばすキキ。
「ちょ。待て! 待てや!」
「やめろにゃああああ!」
 ジェミニとアンダンテの心がひとつになった瞬間でした。

「うるさいなあ……」
 そこへ、学者風の女性がやってきました。
 サーカス塔で一番の頭脳を持つ科学者、スギです。
「なにやってんの? あんたたち」
 スギの冷ややかな目が、ジェミニたちに向けられました。
 あわてて事情を説明するジェミニ。
 すると、スギは扉の図形に目をやって言いました。
「この扉は、私が作ったの。よく出来てるでしょう?」
「いや、まぁ、たしかによお出来てるわ。……で、ちょっとこのドア開けてほしいんやけど」
「知らないの? 問題を解かなければ開かないのよ、これ」
「解けないから頼んどるんやで」
「解けないなら、おとなしく帰りなさい。そういうルールなの、ここは」
 冷たく言って、スギは嘲りの笑みを浮かべました。

「ほら、やっぱりここはキキの出番やんね」
 そう言って、ふたたびドアを叩こうとするキキ。
「だから、それはヤメろや。いま交渉してるとこやろ」
「交渉の余地なんてないけれど? あんたたちにできるのは、おとなしく引き返すか、石に押しつぶされて死ぬかの二択」
「いやいや。正解するっちう道もあるやろ」
「そうね。あるわね。閉ざされた道が」
「その道を開けるために、すこしヒントくれたりすると助かるんやけど」
「人生に、ヒントなんてないのよ」
「いやいや。そう言わんと。それに、もしここで俺が死んだら、あたり一面血の海になるやろ? それ掃除するのも疲れるやん」
「べつに、私がやるわけじゃないから」
「いや、キミみたいな美人の前で死体をさらすなんて俺にはできんわー」
「おだててるつもり? 私が美人だなんてことは、私自身が一番よく理解してるのよ」
 天性の詐欺師と謳われたジェミニの話術も、スギにはまったく通用しないのでした。

「しかたねぇにゃ。ここは俺の出番だにゃ」
 後ろ足で立ちながら、ずいっとアンダンテは前に出ました。どこからともなく取り出した財布を手にして、交渉をはじめます。
「いくら払えば開けるにゃ? 言い値で払うにゃ」
「お金になんて興味ないのよ、私」
「がーん」
 それは、金にしか興味のないアンダンテの存在意義を叩き壊すような発言でした。
 ショックのあまり、四つ足の姿勢にもどってしまうアンダンテ。無理もありません。人生におけるすべての問題を金で解決してきた彼なのです。彼にとって、「人生=金」なのでした。スギの一言は、アンダンテの人生そのものを否定したのです。なんということでしょう。スギさまGJ。

 ──と。そのときです。彼らの頭上から、コツコツという音が聞こえました。
 面倒くさくなったキキが、ついに扉を叩いてしまったのです。
 うわああああああ!
 にゃああああああ!
 ジェミニとアンダンテの悲鳴が交錯しました。

 答えをまちがえれば、巨大な石球が彼らを引き潰します。それは噂話などでなく、事実そのものでした。レイダースの冒頭シーンみたいな悪夢を想像して、二人は右往左往しました。
 スギの姿は、いつのまにかどこかへ消えています。優秀な科学者である彼女は、量子テレポーテーションを自在に操ることができるのでした。携帯電話ひとつで。

 キキの手が止まった、その瞬間。
 ガゴンという音を立てて、扉が開きました。
 その向こう側から巨大な石のかたまりが転がって──は来ませんでした。
 おそるおそる扉に近寄ってみるジェミニとアンダンテ。しかし、石球の転がってくる気配はありません。

 なんだ、ハッタリだったか。
 ジェミニもアンダンテも、そう思いました。
 でも事実は違います。キキが、偶然にも正解を当てたのでした。おそるべき幸運! いや、これはもはや豪運というべきレベルです。──そう。彼女はジェミニと違う星の生まれなのでした。その星の名は、幸運の星。
 言うまでもありませんが、ジェミニの生まれた星は不運の星です。こういう説明を蛇足と言います。

 ともあれ、無事に第二の関門を抜けて彼らは頂上をめざします。
 なぜか「じぇみたーん♪」とくっついてくる同行者が一人ふえましたが、しかたありません。ついてくるなと言うわけにもいきませんでした。階段は一本道だし、仮に追い払おうとしたところで天井に立っているキキには手が届かないのです。
 しばらく進むと、階段が途切れて塔の内部へと廊下がつながっていました。
 いちど見たことのある風景です。べつに、ループしてるわけではありません。そういう規則性を持った構造なのです。

「たしか、図書館のときもこんな感じやったな」
「この先はガローになってるはずにゃ」
「ガロン?」
「おまえの耳は腐ってるのかにゃ。画廊っつってんだろにゃ」
「図書館だの画廊だの、この塔は一体どうなっとんのや」
「知らねーにゃ。作ったやつに聞けにゃ」
「こんなことなら、もうすこしミギの話を聞いときゃよかったわ」
「ミギ? あいつに会ったにゃ?」
「ああ。入口で会うたわ」
「あいつも幸運の石の持ち主にゃ。でも、この塔からは出られないけどにゃ」
「あんなキチガイでも手に入れられるんか。楽勝やな、そんなら」
「そんな甘いもんじゃねーにゃ。幸運の石を手に入れたのは二人しかいねぇって話だにゃ」
「へぇ。そんなら、もう一人は誰や」
「トム伯爵だにゃ。でもやっぱりこの塔からは出られねぇけどにゃー」
「なんでや?」
「にゃ?」
「なんで、塔から出られないん?」
「ミギと会ったんだろにゃ? だったらわかるだろーがにゃ」
「ええと……。ああ、そういうことやったんか」
 そういうことなのでした。

 やがてジェミニたち三人は画廊に出ました。
 画廊? いや、これを画廊と呼んでも良いものでしょうか。たしかに、部屋の壁一面には絵が掛けられています。しかし、どれもこれもおっぱいの絵なのです。ひとつの例外もなく。

「また、えらい場所やな。これは……」
 思わず周囲を見回すジェミニ。
 一方のアンダンテは「俺のほうがうまく描けるにゃ」などと自慢しています。なんの自慢なのか、よくわかりません。おっぱいがうまく描けるということなのでしょうか。まあエロ同人誌を作ることにかけてはサーカス塔随一のアンダンテですから、それぐらい描けなかったらお話になりませんけれども。

「ちぅか、何枚あるんや。これ」
 ジェミニもあきれるほどの、おびただしい数のおっぱい絵でした。壁一面どころか、天井にまで貼り付けられているのです。さかさま世界の住人であるキキは、それをよけて歩くのに苦労するほどでした。

「ようこそ。私の部屋へ」
 宝塚俳優みたいな美声で現れたのは、クールな感じの女性でした。アイスやスギと雰囲気が似ています。ただし、狂人度で言うならこの女性はぶっちぎりで一位でした。この画廊が彼女の私室であることを知れば、だれもが納得するに違いありません。
 彼女の名はアーチャ。だれよりもおっぱいを愛する女性です。

「ようこそて言われても、用があって来たわけやないねんけどな」
「なんだって。それはイカンよ。ちゃんと鑑賞していってくれたまえ」
「これ全部見るのに何時間かかると思うん」
「遠慮しなくていい。思う存分、見ていってくれたまえよ」
「いや、遠慮しとくわ。先を急ぐ旅やしな」
 そう。ジェミニの寿命にはタイムリミットが課せられているのです。こんなところで劣情を催しているヒマはありません。

「そんなことより、その背中に背負ってるのは何なんにゃ」
 なぜ誰も指摘しないのかといわんばかりに、アンダンテはアーチャの肩から覗いているものを指差しました。
 つっこんでしまったアンダンテの負けです。アーチャはニヤリと笑い、刀でも抜くようにしてその物体を抜き放ちました。
 銀色に輝く魚体。まごうことなき、それは一匹のサバなのでありました。

「この馬鹿。ああいうのはツッコんだらダメやろ。どうせこいつもキチガイなんや」
 ジェミニが、小声で叱咤します。
「ふふん。ぜんぶ聞こえてるよ、サングラスのお兄さん」
 とくに気分を害した様子もなく、アーチャはサバを振り回しました。まるで、野球の素振りです。サバが一回振られるごとにキラキラした鱗が飛び散って、なにやら綺麗にさえ見えました。魚臭いのだけが、ちょっと問題でしたが。いえ、かなり問題でしたが。

「まぁ、とにかく先を急ぐんで。ほな、これで」
 足早に立ち去ろうとするジェミニでしたが、アーチャが彼の襟首をつかまえると歩くこともできません。
「そう遠慮せず、ぜひ見ていってほしい。私のコレクションを」
 あくまで、アーチャはにこやかです。彼女には悪気などまったくありません。心の底から、ジェミニたちを歓迎しているのです。

「わかったわかった。そんなら、ちょっと見せてもらうわ」
 めんどくせーからテキトーに見たフリして出ていこうと、ジェミニは思いました。
「めんどくせーからテキトーに見たフリしておこうとか考えてないだろうね」
 心の中を見透かしたように、ずばりと指摘するアーチャ。
 しかし、ジェミニも名の知れた詐欺師です。こんなことでは動揺しません。
「いや、ちゃんと見せてもらうで? 俺もおっぱい好きやしな」
 この嘘は、彼の人生においても最大級のものでした。乳房なんぞ、彼にとってはゴミのような存在なのです。だってゲイだから。

 そこへ、もう一人の女性が現れました。
 真っ白なワンピースドレスを着た、いかにも清楚な感じのお嬢様です。
 彼女の名前はスノー。数時間前、トンプソンマシンガンでWDを蜂の巣にした人物です。
 どうでもいいことですが、さっきから女性しか登場しませんね。作者のせいではありません。何者かのユーロの陰謀によって、この世界は作られているのです。
 それはさておき、スノーは言いました。

「あら。おっぱい仲間がやってきたの?」
 平然とした顔で、そういう単語を口にする彼女。
 そうです。彼女もまた由緒正しきサーカス塔の住人なのです。
「ああ。どうやらそのようだよ。そこのサングラスの青年は、三度のメシよりおっぱいが好きらしい」
 さも事実であるかのように、アーチャは答えました。
 否定するのも面倒で、ジェミニは適当に相槌を打ちました。そんなことよりいま彼が気になっているのは、スノーのドレスに付いている返り血の跡です。それは、あきらかに人を殺したことがうかがいしれるほどの血痕なのでした。

「なあ、サングラスの青年君。キミはどういうおっぱいが好きなんだい? サイズは? 形は? 色は? いままでにいくつのおっぱいを揉んだことがある?」
 アーチャは、根掘り葉掘り聞きはじめました。尋問と言ってもさしつかえないレベルの質問です。こういうのを逆セクハラと言うのかもしれません。
 さすがのジェミニも、この勢いにはちょっとたじろぎました。いっそ、「俺はおっぱいなんかに興味ないんや!」とぶちまけてしまいたい衝動に駆られましたが、そこはグッとこらえました。だって、目の前の女性はどう見ても人を殺しているのです。機嫌をそこねるわけにはいきません。
 やむなく、ジェミニは創作をはじめました。彼の嘘は、手が込んでいます。それは、嘘と言うより創作活動とでも呼ぶべきものでした。
 しかし、おっぱいマニアのアーチャにとってジェミニの発言は穴だらけでした。
 それはそうです。生粋のビートルズマニアの前で、なにも知らない素人がビートルズの楽曲を評論したようなものなのですから。ばれてあたりまえです。

「キミ、じつはおっぱいなんか好きじゃないんだろう」
 嘘がばれるのに、一分かかりませんでした。詐欺師ジェミニも形無しです。しかし、ばれてしまっては仕方ありません。彼は正直に認めました。
「そうか。嘘だったのか。キミはおっぱいが好きじゃないと。そう言うんだね。でも、おかしいな。おっぱいが嫌いな男なんてどこにもいないはずだが。……はっ。さてはキミ。ゲイだな?」
 なにもかも面倒になって、ジェミニはそれを肯定しました。
「そうかい。まぁ人それぞれ趣味というものがあるからね。やむをえないことさ。しかし困ったな。おっぱいが嫌いだと言うからには、私はキミを殺さなければならない」
 それは、なんとも理不尽きわまる死刑宣告でした。

「では、さっそく決闘しようか。私は、このサバでキミの頭を打ち砕く。キミも、好きな武器を使うといい」
 もう、アーチャはすっかり殺る気です。
 ジェミニは逃げようとしましたが、いつのまにかスノーが背後に回りこんでいて、とても逃げ出せるような状況ではありません。
 アンダンテとキキはどこへ行ったのかと画廊を見渡せば、二人そろっておっぱい絵を鑑賞しています。ジェミニとちがって、彼らにはタイムリミットなどありません。ゆっくり鑑賞していっても何ら問題ないのです。

「決闘いわれてもやな。俺はキミと戦う理由ないねんけど」
「私には理由がある。キミはおっぱいを侮辱した。それで十分だ」
「侮辱はしとらんて」
「いや、私はあれを侮辱と受け取った。これ以上の問答は無用だ。戦いの時が訪れたのだよ。さあ、武器を取りたまえ。それとも素手で私のサバを止められると思うかね?」
「いやいやいや。ていうか、なんでサバなん? ワケわからんわ」
 もうすべてが冗談としか思えないジェミニなのでした。自分自身が冗談のような存在のくせに。

「スノー、ちょっと離れていてくれないか。そのあたりは、鱗が飛び散る」
 とても紳士的な口調で、アーチャは言いました。言っていることの内容は紳士どころか狂人そのものでしたが。
 しかし、この一言がジェミニを救いました。
「スノー? いま、スノーいうたな?」
「ああ。そこの可愛いお嬢さんの名前は、スノーというのさ。それがどうかしたかい?」
「わたすものがあるんや」
 ジェミニは上着のポケットから封筒を取り出しました。図書館で預かった手紙です。
「これ、アイスって人からや」
「えっ。アイスさんから……!?」
 口元をおさえて、目を丸くするスノー。アーチャの言うとおり、たしかに可愛らしいお嬢さんです。ドレスにはWDの返り血ですが。

 スノーは、ふるえる指で封筒を開けました。出てきたのは、数枚の便箋。
 それを読みはじめたとたん、彼女の目から大粒の涙がこぼれだしました。しずまりかえった画廊に、スノーの小さな嗚咽がこだまします。ああ、なんということでしょう。スノーとアイスは禁断の恋で結ばれていたのです。百合っていいよね。

 やがて手紙を読み終えると、スノーは涙を拭きながら「ありがとう、サングラスの人」と言いました。
 それを見て、アーチャは伝家の宝魚をおさめました。スノーの恩人を斬るわけにはいかない。そう思ったのです。
 ジェミニにとっては、超ラッキーな話でした。──え? ラッキー? ジェミニの人生に、そんなものはありえません。きっと、これは仕組まれた陰謀なのです。よりひどい結末を迎えるための。読者の皆様もそれを期待しているはずでございます。

 ともあれ、ジェミニは最大の危機を乗り越えました。第三の関門、おっぱい画廊地獄変。それをクリアしたのです。
 さあ、頂上まではもうすこし。がんばれジェミニ。負けるなジェミニ。くたばれジェミニ。

 彼らは、さらにさらにと塔を上っていきました。
 いえ、上っているのはジェミニとアンダンテだけで、キキにとっては塔を降りていることになるのですけれど。

「あー。もう朝やんねー。おはよう、じぇみたん」
 天井から、キキが声をかけました。
 彼女の言うとおり、窓の外では空が白みはじめています。
 もはや地上は遥か彼方で、街そのものさえもが豆粒のように見えるほどです。

「そういや聞いとらんかったけど、キキは幸運の石を取りに来たん?」
 ふと思い出したように、ジェミニはそんなことをたずねました。
「え? なにそれ」
「いや、なにそれって。じゃあキミこの塔に何しに来たん?」
「テレビの星占いでやってたんよ」
「星占い……?」
「ここに来たら、素敵な出会いがあるって言ってたんよ。……あ。もしかしてじぇみたんと会えたことがそれだったりすることもあると? きゃー!」
 顔を赤らめるキキに、心底うぜぇとジェミニは思うのでした。ひどい男です。ほんとうに。

 そのときです。いい男の気配を感じて、ジェミニは足を止めました。
 このところ出会う人間すべてが女ばかりで、男に飢えていたところです。研ぎ澄まされた野獣の本能に火をつける何かが、彼のセンサーにひっかかりました。彼の中でイケメンレーダーと呼ばれている、原始的かつ先鋭的な機能です。

 ジェミニは、慎重な足どりで階段を上りました。
 なにごとも第一印象が大切です。まちがっても、詐欺師とか思われてはいけません。それに、ゲイだということもしばらくは隠しておく必要があります。すべての本性を隠して、好青年を演じなければなりません。まぁ、彼にとっては手慣れたものですが。

 キキとアンダンテは訝しげな目を向けますが、そんなものジェミニにとってはどうでも良いことです。彼の人生のほとんどは、イケメンとイチャイチャするためにあるのです。ああ、なんというむなしい人生。やっぱりこの男は死んだほうがいいのかもしれません。いや、死ぬべきです。

 十秒ほど螺旋階段を上がったところで、ジェミニは再び足を止めました。二十段ばかり上の階上に、若い男が腰を下ろしているのです。イケメンレーダー絶好調でした。
 たしかに、良い男です。浅黒い肌に、おおきな瞳。そして、この世すべての絶望を背負ったような、憂いを含んだ表情。ジェミニの趣味を百パーセント満たした美青年でした。
 彼の名前はレイドール。言うまでもなく、塔の住人で一番のナイスガイ(死語)です。
 ジェミニは生唾を飲み込んで、可能なかぎりの自然体を装いながら彼に近付いていきました。こういうとき、サングラスはとても役に立ちます。視線を悟られずに済むからです。

「よお。キミ、こんなところで何しとるん?」
 極上の(作りものの)笑顔を見せながら、ジェミニは声をかけました。
 レイドールは俯いた顔を上げて、すこし警戒するような表情を浮かべると、静かな声で答えました。
「……あ。こんにちは。僕は幸運の石を取りに来たんですけれど、ここから先に進めなくて……。困ってるところです」
「この先に、何があるん?」
「門番みたいな人がいるんですよ」
「門番?」
「なんとか男爵とか言ってましたけど」
「なんや、それ」
「よくわかりません。でも人間じゃありませんでした」
「人間じゃないぐらい、べつにどうってことないやろ」
「まぁ、この塔は化け物だらけですからね……」
「せやな。いまさら化け物の一匹や二匹、どうってことないわ。とりあえず、行ってみようや」
 さりげなくレイドールの肩に手をかけて、ジェミニは歩きだすのでした。

 すこし階段を上ると、広いホールに出ました。
 何もない空間です。中央に小さなデスクだけがあって、そこに一人の男が陣取っていました。机の上にあるのは、古びたパソコン。それに向かって、無精髭の男が一心不乱にキーボードを叩いています。

「あれが、なんとか男爵なん?」
 レイドールの肩を抱いたまま、ジェミニがたずねました。
 露骨にイヤそうな顔をしながら、レイドールが答えます。
「そうです。僕の口から説明するのも何なんで……ちょっと話してみますか?」
「話は通じるん? なんか、ものすごい顔でキーボード打っとるけど」
「大丈夫だと思いますよ。……たぶん」
 よけいな一言をつけてしまうあたりに、彼もまたサーカス塔の住人となる資格があふれているのでした。

「なんだ? またおまえか」
 レイドールの顔を見て、なんとか男爵はつまらなさそうに言いました。ただしくは、牛丼男爵。かつて吉野家千葉支店を支配した、伝説の男です。なんの伝説なのか、よくわかりませんが。
「執筆中すみません。この人が、幸運の石を取りに行きたいらしいんですけれど……」
 おそるおそる、レイドールはジェミニを紹介しました。

「取りに行きたいなら、勝手に行けばいい。ただし、なにかひとつ面白い話をしていけ。そうしなければ、ここは通さん」
 ウォッカの酒瓶をラッパ飲みしながら、牛丼男爵は言いました。
「え。おもしろい話するだけでええん?」
「ああ。それだけでいいぞ。面白くなかったら殺すけどな」
 そう言って、牛丼男爵は右手の爪を見せました。細長い金属のような爪。そう。彼もまた人狼なのです。無職なのに。すみません。

 急遽、対策会議が開かれました。
 おもしろい話を作るための委員会が結成されたのです。議長はアンダンテ。
 しかし、会議は難航しました。ジェミニとキキがくだらない話を会議にかけてアンダンテとレイドールが却下するという一連の作業が、延々数時間にわたって続いたのです。
 なんということでしょう。彼ら四人の誰一人として、絶対的な自信のある「面白い話」をストックしてなかったのです。まさにゴミのようなパーティーです。氷雨がいなかっただけマシかもしれませんが。

 さらに数時間におよぶ会議のすえ、彼らは面白い話ではなく買収する方法を考えていました。すべてをカネで解決しようという、アンダンテの着想です。
 しかし、これはひとつの賭けでもありました。こうした手法は、科学者スギのように潔癖な人間に対してはまったく効果がないどころか、逆に不評を買ってしまうからです。牛丼男爵という人物がそうでないという保障は、どこにもありました。

 読者の皆様の予想どおり、この門番男爵は一人千円の合計四千円で彼ら全員を通してしまったのです。ぜったいに門番とかやっちゃ駄目なタイプの人種ですね、この人。
 ともあれ、ジェミニたちは四つめの関門をも無傷で突破したのでした。いえ、アンダンテの財布だけはちょっと傷つきましたが。結果的に、ただそれだけのことなのでありました。
 さあ、頂上まではあとすこしです。早く死ねよジェミニ。

 そんなこんなでしばらく行くと、階段に一人の男が倒れていました。
 どういうわけか全身水びたしで、周囲の床には水溜まりができています。あたかも、彼の周囲だけをスコールが襲ったような、そんなありさま。しかし、塔の中で雨が降ることなんてありえるのでしょうか。──ありえるのです。とほうもない不運によって。
 男はピクリとも動きません。死んでいるのでしょうか。

「なんや、こいつ。なんでこんなとこで死んどんのや。邪魔やろ」
 具合を見るとか介抱するとか、そういう人間らしい発想はジェミニの中に存在しませんでした。ただ歩くのにジャマだな、と思っただけです。ロボットみたいなやつです。いや、ロボットだってもうすこし人間らしい心を持っているかもしれません。
 しかし、近付いてよくよく見ると、その男はなかなかのイケメンなのでした。
「おーい、生きとるんか?」
 瞬間的に態度を変えて、背中をたたくジェミニ。背中だけでなく、腰や尻のあたりをさわることも忘れません。ああ、書いてて気色悪い。

「こいつ、トイトイとかいうヤツだにゃ」
 思い出したように、アンダンテが言いました。
「知り合いなん?」
「こんな不運野郎が知り合いのワケねぇだろにゃ。何日か前に図書館で見かけたから知ってるだけだにゃ。こいつも幸運の石を取りに来たって言ってたにゃ。絶対ムリだと思ってたけど、案の定だにゃ。ザマみろにゃ」
「なにか恨みでもあるんか?」
「べつに、なにもねぇにゃ。ただ、他人の不幸を見るのが好きなだけだにゃ。おまえだって同類だろーがにゃ」
「まぁ否定はせぇへんけどな」

 ひどい会話を繰り広げる二人から、レイドールはそっと距離をとります。いまからでも遅くない。この二人とは関わらないほうが良いのでは──。そう思いましたが、人の良い性格が災いして結局なにも言い出せないのでした。

 キキは天井で壁によりかかりながら、「そんなんほっといて早く行かんと?」などと勝手なことを言っています。自分の興味のないことには、まったく関心を示しません。ただの不運男の死体になど、興味をそそられるはずがありませんでした。むしろ、一刻も早くこの場を立ち去ろうとさえ思っているのです。不運が伝染るまえに。

 そのときです。トイトイがわずかに動いて、うめき声をあげました。彼は生きていたのです。まだ。
「うう……」
「お。生きとったんか。よお、何があったん? だれかにやられたんか?」
「ぐぐ……」
「おい、なんとか言えや」
「つ……も……」
「つも?」
「ツモり四暗刻……」
 一言発した直後、トイトイの全身から力が抜けて、それきり彼は二度と動かなくなりました。

 謎の遺言を残して死んだトイトイでしたが、だれにも言葉の意味がわかりませんでした。
 いえ、意味はわかります。四暗刻とは麻雀の手役です。わからないのは、なぜ死の直前にそんな言葉を残したのかということです。

「なぁ。こいつ、いま何て言うて死んだ?」
「ツモりスーアンコって聞こえたにゃ」
「どういう意味や?」
「知るわけねーだろにゃ。自分で考えろにゃ」
「なあ、レイドール君。意味わかるか?」
 ジェミニが振り返ると、美青年レイドールは五メートル以上も離れたところに立っているのでした。

「なんで、そんな遠くにおるん」
「いえ、とくに理由は……ないんですけど……」
 あなたに近寄りたくないからです、と言うほどの図太さを、彼は持ち合わせていませんでした。なんという、慎ましやかな考えかたでしょう。狂人ぞろいのサーカス塔では、まれに見る存在です。
 そう、彼はまだこの塔の住人とは成り果てていなかったのです。まったく、彼の爪の垢を煎じてジェミニに飲ませてやりたいぐらいです。──あ、駄目ですね。そんなことをしてもジェミニが喜ぶだけでした。この変態。

「そんな遠慮せんと、もっと近くに来たらええやん」
 レイドールの心情などおかまいなしに、ジェミニは彼の前へ近寄るとバシバシ肩を叩きました。ものすごく迷惑そうな顔をするレイドールですが、そんなのジェミニの知ったことではありません。

 が、次の瞬間、天罰がくだりました。
 何の前触れもなく、彼の足元の階段が砕け散ったのです。古い塔ですから、老朽化していたのかもしれません。
 でもそれにしたって、彼の足元のコンクリートだけがゴッソリ砕けたのは、奇跡としか思えないほどのできごとではありましたが。あるいは、不運王トイトイの怨念がとりついたのかもしれません。おそるべき不運のダブル効果。

「うあああああっ!?」
 あわれな悲鳴をあげつつ、ジェミニは階段を転げ落ちていきました。
 まさに因果応報。自業自得です。
 ふぅ、と溜め息をついて、レイドールはジェミニの手が触れていたところをハンカチで払うのでした。

 五十段ほど階段を転げ落ちて壁に頭をぶつけたところで、ようやくジェミニは止まりました。全身ズタボロで、頭からは血がドバドバ流れています。いまにも死にそうなほどの出血量でしたが、まぁこんなのはいつものことです。

「おい、大丈夫にゃ? 死んでないだろにゃ?」
 ジェミニのもとに駆け寄り、安否を気遣うアンダンテ。
「大丈夫や。生きとるわ。……ちぅか、俺のことを心配してくれるんか、アンダンテ」
「あたりまえだろにゃ。幸運の石を手に入れるのにオマエを利用……おっと何でもないにゃ」
 うっかり口を滑らせてしまったアンダンテですが、それぐらいのことはジェミニも先刻承知です。最初から、おたがいを利用することしか考えてない二人なのです。
 彼らのあいだに友情とか信頼とかいうものは存在しません。友情はカネで買えるというのがアンダンテの信条です。おかげで彼の人生はいつも薔薇色です。さすがセレブ。

「ジェミニさん。これ使ってください」
 レイドールの手から、ハンカチが渡されました。
「おお。やっぱレイドール君は良ぇ子やな」
 遠慮なくハンカチを受け取って、顔の血をぬぐうジェミニ。
 ああ、こんな詐欺野郎にやさしくするなんて。神か仏のようなレイドール君です。
 でも本当のところをいえば、このハンカチはそろそろ捨てるつもりだったのです。それでちょっとでも恩を売れれば安いものだという考えなのでした。彼もまた、徐々にサーカス塔のルールに染められつつあったのです。
 いえ、塔のルールというより、ジェミニたちのルールと言い換えたほうが正しいかもしれません。朱に交われば赤くなるということわざどおり、レイドールは加速度的に人間の道を外れようとしていたのです。

「ねぇ。なんか聞こえんと?」
 ふいに、キキが声をかけました。
 耳を澄ませると、下のほうから何やら不思議な音が聞こえてきます。その音は徐々に近付いてきて、やがて聞き覚えのある足音になりました。この特徴的な音は、まちがえるはずもありません。妖怪みとみとです。

「また出たんか」
 害がないことがわかっているので、ジェミニは割とどうでもよさそうな態度です。
「あれは妖怪みとみとにゃん」
「知っとるわ。いちど会うたしな」
「僕も一度見ました」
 そう言って、レイドールは言葉をつなげました。
「かわいい子ですよね」

「なんやて?」
 と、ジェミニ。
「え。かわいくありませんか? けっこう美人だったと思うんですけど」
「待て待て。あれは足音だけの妖怪じゃないんかい」
「なにを言ってるんですか? ふつうの女の子でしたよ?」
「どういうことや……?」
 ジェミニはアンダンテとキキの顔を順番に見つめました。その表情から察するに、なにかを間違えているのは彼のほうだったのです。わけがわかりませんでした。これもまたサーカス塔の魔法なのです。

 じきに、ミトミトミトッという足音が間近へせまりました。
 ジェミニは階段の端に立って、じっと目をこらします。
 その数秒後、彼の前を何かが走り抜けました。ミトミトッという奇妙な足音。流れる一陣の風。そして、ドップラー効果をともなって響きわたる「なーのーでーすーーーー」という叫び。
 やっぱり、ジェミニの目には何も見えませんでした。

「どう見ても透明な妖怪やったで?」
 ジェミニの言葉に、三人は哀れみの目を向けました。
 真相はカンタンなことです。女に興味のない者には見えないという、妖怪みとみとはそういう存在なのです。真性ゲイのジェミニの目に映るはずはありませんでした。
 シャモンもまたみとみとを足音だけの妖怪と勘違いしてましたが、彼女はカズマにしか興味がなかったので無理もありません。

「みとみとちゃーーん!」
 彼女の後を追うようにして、ひとりの男が階段を駆け上がってきました。
 レフタイではありません。もうちょっとイケてないメンです。──ちょっと? いえ、日本語は正確に使いましょう。だいぶイケてないメンです。
 男の名はタラ。ここサーカス塔で無二無双の病魔です。

 妖怪みとみとを追いかけてきた彼ですが、サングラス姿の詐欺師を目にすると警戒するように足を止めました。
「おや。見たことのない顔ですね。新入りの人ですか?」
 と、病魔。
「新入りちぅか、ここの頂上に用があって来たんや」
「ああ。幸運の石ですか。私も昔とりにいったんですけれど、無理ですよ。あれは」
 話しはじめると、案外ふつうの男でした。
「無理? なんでや?」
「いやあ。話してもわかってもらえないと思いますよ? ふふっ。そんなことより私はみとみとと遊ぶので、失礼します」
「遊ぶって。あれはイヤがって逃げてるんとちゃうんか」
「ちがいますよ。これは、こういう遊びなんです。ほんとうにイヤがってたら、あんなふうに逃げたりしませんよね。くふふっ」
 力強く力説する病魔タラ。やっぱり普通じゃなかったかもしれません。

 ジェミニの横を通り抜けて階段を上ろうとしたタラですが、そこでようやく天井の存在に気付いて再び立ち止まりました。
「あなたも新顔ですね。名前を聞いてもいいですか?」
 ジェミニとの会話とは明らかに異なる作り声で、彼は言いました。
「え? キキやけど……」
 いつでも能天気の彼女がこんなにイヤそうな顔をするのは珍しいことです。
「私はタラといいます。この塔には、ずいぶん昔から住んでるんですよ。よかったら、いろいろ教えてあげましょうか?」
「じゃあたのむけん、手短に教えてくれると?」
「いやあ、そんな短い話じゃないんですよ。よかったら、私の家に来ませんか。そこでじっくりお話を……」
 ああ、これはなんというわかりやすいナンパ。まぁ別にそれ自体は悪いことでもありません。ただ、いきなり自宅につれこもうとするあたりがチャレンジャーでしたが。一歩まちがえれば性犯罪者です。

「俺たちは急いでるんにゃ。ビョーマはすっこんでろにゃ」
 アンダンテが一喝しました。
 しかし悲しいかな。所詮は一匹の猫。いくら大声出しても、まるで迫力ありません。
「まぁまぁ。あなたたちも一緒に来てくれてもいいんですよ? 悪い話じゃないと思うんですけどねえ……」
「うるせーにゃ。情報を持ってるなら、とっとと吐き出せにゃ。それともカネが目的にゃ?」
「いやいや。お金なんて。そんな。私はただ、そちらの子とおしゃべりしたいなあと……。ふふっ」
「おめーとしゃべることなんかひとつもねぇにゃ。ビョーマが一方的に情報をしゃべれば、それでいいんにゃ。さっさと話せにゃ」
「そういう態度は良くないと思うんですよ。せっかく私が平和的に交渉しているんですから……」

 タラがそこまで口にしたとき。ドレス姿のスノーが階段を駆け上がってきて、問答無用とばかりにマシンガンを乱射しました。
 まさに電光石火。あっというまのできごとです。だれかが止めるヒマもありませんでした。あったとしても誰も止めなかったとは思いますが。
 タラは全身に無数の弾丸を浴びて、一言も発することなく床に倒れました。ああ、かわいそうなタラ。これが病魔の運命だったのです。

「これで、手紙の恩は返しましたから」
 あっけにとられているジェミニたちに向かって、スノーは告げました。そしてスカートの裾をひるがえすと、なにごともなかったかのようにその場を立ち去ったのです。わずか二十秒たらずの活劇でした。

「できれば情報を吐かせてから殺してほしかったんだけどにゃー」
 残念そうな顔で、アンダンテは病魔の死体を見下ろしました。
 一方ジェミニは、それどころではありません。不運にも、マシンガンの跳弾が彼の肩をえぐっていたのです。これもまた、かなりの出血でした。着々と削られてゆくジェミニのライフゲージ。そろそろ黄色く点滅するころです。

「たいへん! じぇみたん、ケガしてるやん!」
 ようやく異変に気付いて、キキが声を上げました。
 しかし、彼女には何もできません。医療道具も、薬も、なにもないのです。仮にあったとしても、さかさま世界の住人である彼女はジェミニに触れることもできませんでしたが。

「そんなの、ツバつけときゃ治るにゃ。ほら、さっさと先に進むにゃんよ」
 あいかわらず容赦のないアンダンテです。
 しかし、言っていることはあながち間違いでもありませんでした。一刻も早く幸運の石を手に入れなければ、ジェミニは不運によって落命してしまうのです。

 床に血痕を落としながら、ジェミニは歩きました。
 はっきり言って、体力は限界寸前。ゲージが点滅しているような状態です。どこかの格闘ゲームみたいに必殺技出し放題とかだったらまだ救われるところですが、そんな機能はありません。あったとしても、ジェミニの必殺技なんてロクでもないものに決まっています。画鋲乱舞とか。
 とにかく、いまは幸運の石を信じて前へと進むしかありませんでした。引き返すことも、休憩することもできません。いちど座ってしまったら、もう立てそうにないのでした。
 頂上は、もう、すぐそこです。窓から上を眺めると、十メートルほど上のほうに塔のてっぺんが見えるのですから、ほんとうにあと数分で頂上に着くのです。休憩する理由がありませんでした。

 そうして、ついに彼らは最後の部屋にたどりつきました。
 展望台の部屋です。直通エレベーターを使えば一階エントランスから数分で到着できるフロア。もっとも、そういう客が歓迎されるとは限りませんが。──そう。この部屋には気難しい主がいるのです。

 室内の中央。その天井に、ひとりの男が立っていました。
 黒いロングコートにサングラス。なにがおもしろいのか、口元にはニヤニヤ笑いを浮かべています。右手にさげているのは、拳銃みたいな電動ドリルみたいな謎の武器。

「やっぱりここにいたにゃんね、トム伯爵」
 どこか緊張したような声で、アンダンテが言いました。
 伯爵はさかさまにアンダンテを見下ろしながら、「クックック」と悪党っぽい含み笑いを響かせました。じつに似合った笑顔です。生粋の悪党にしかできない笑いかたと言って良いでしょう。それも、チンピラじゃなくてマフィアの親分みたいな笑いかたです。

「なぜここに来たんだ、アンダンテ。おまえには図書館勤務を命じたはずだがな」
「あんなバカどもと一緒に働いてらんねーにゃ。俺はこの塔を出ていくにゃ」
「そうか。ならば、好きに出ていくがいいさ。引き止めはしない」
「そのまえに、幸運の石をよこせにゃ」
「……なるほど。そういう目的か」
 伯爵の笑みが、さらに深くなりました。

「一応確認するが……」
 芝居がかった動作で前髪をかきあげながら、伯爵はジェミニたちを見回しました。
「そっちの三人も、幸運の石が目的か?」
 この問いかけに、ジェミニもキキもレイドールも肯定の言葉を返しました。
「ふ……」と冷笑を浮かべて、伯爵は言います。
「教えてやろう。幸運の石なんてものは存在しない、と」
 なんということでしょう。ここまでの苦労すべてをぶちこわす一言です。
「えええええっ!」と大声で驚くキキ。彼女は他人を疑うことを知りません。能天気なのです。

 しかしもちろん、ジェミニは伯爵の言うことなど信用しませんでした。
「いや、幸運の石はあるやろ? 賢者ナビアが言うてたんやで? あの人がウソつくわけないやろ」
「ふふん。賢者ナビアね。俺は彼女の友人だから、ただしいことを教えてやろう。いいか? 幸運の石なんて、どこにもない。おまえがこの塔を最後まで上りきったという、その事実が幸運の証なのさ。つまり、おまえは既に不運ではない」
 尊大な口ぶりで、伯爵は言いました。
 一瞬、返す言葉に困るジェミニ。たしかに、そう言われればスジはとおっています。
「いや、けどやな。これ見ろや。ここに来るまでに、俺がどれだけケガしたと思うん。これで幸運とは言えんやろ」
「ここまで来たならわかるだろう? この塔の住人は狂人ばかりなんだよ。その程度の危険はあって当然だ。死ななかっただけで幸運なんだよ」
 伯爵はそう言いましたが、ジェミニにとってはいっそ死んだほうが幸運だという見方もあります。いつまでも死ねずに苦しむほうが、彼にとっては不運なのです。そして、それが今までの彼の人生だったのです。

「それにだな。おまえは怪我の代償として何かを手に入れただろう? ちがうか? それが幸運の証だとは思えないか?」
 そう言われると、ジェミニには思い当たることがあるのでした。ほかでもない、レイドールとの出会いです。
 思わず彼のほうを振り向くジェミニ。レイドールは反射的に体をすくませて一歩うしろへさがります。そして、ちょっとためらいがちに彼は口を開きました。
「あの……。僕は、なにも手に入れてないんですけれど……」
「ああ。まぁ、そういう場合も、ある」
 伯爵の顔に、ほんのわずか哀れみの色が浮かびました。
 もしかすると、この物語で一番の被害者はレイドールなのかもしれません。

「ぜんぶ詭弁にゃ!」
 そのとき、逆転裁判のような勢いでアンダンテが立ち上がりました。
「トム伯爵! 以前おまえは幸運の石を手に入れたと言ってただろーがにゃ! あれがウソだったとは言わせねーにゃ!」
「いや、あれはウソだった」
 あっさり認める伯爵に、アンダンテは次の言葉を見失ってしまいました。
 あわてずさわがず、深呼吸をひとつ。気を取りなおして、尋問をつづけます。
「なんで、そんなウソをついたにゃ!」
「幸運の石が存在すると思わせておいたほうが、なにかと都合が良いのさ。石を持っているのは俺とミギだけということになっているが、それは俺たちの間で口裏を合わせているからだ。……まさか、まだわからないのか? おまえはだまされていたんだよ。事実を認めろ」
「ウソにゃあああ! 俺は信じねぇにゃああああああ! 幸運の石よこせにゃあああああ!」

 こわれてしまったアンダンテをよそに、キキがたずねました。
「じゃあ、トムさんは一体ここで何してたと?」
 さかさま世界の彼女の視点からすればもっと重要な質問があるはずでしたが、それに気付かないのは彼女がキキだからなのでした。
 伯爵は満面の笑顔で答えます。
「俺がここにいるのは、おまえたちみたいな子羊を導くためさ」
「ウソつくんじゃねーにゃ! おまえは子羊を食べるほうの人間だにゃ!」
「悲しいな、アンダンテ。俺は、いつでもおまえの味方をしてやったはずだというのに。いったい、どういう誤解のもとにおまえはそういう思い違いをしているんだ?」
 ちっとも悲しくなさそうな顔で、伯爵は言うのでした。

「あの……。ちょっといいですか?」
 かるく手をあげて、レイドールが口をはさみました。
「なんだ? 言ってみろ」
 伯爵は、どこまでも鷹揚で尊大な態度を崩しません。
「ずっと疑問だったんですけれど。どうして伯爵さんやキキさんは、さかさまなんですか? なにか共通点があるんじゃないかと思うんですけど……」
「ほぉ。いいところに気がついたな。たしかに共通点はある。それが、この塔の持っている最大にして唯一の魔法なのさ」
「その魔法というのを教えてください」
「この塔から出られないという魔法だ」
 肩をすくめながら、伯爵はそう答えました。

「出られないっていうのは、どういうことですか?」
「見てわからないのか?」
「すみません。わからないので教えてください」
「こっちの世界には『地面』がない。塔から一歩出たとたん、俺たちは空の彼方へ落ちてしまうというわけさ」
「なんで、そんな魔法が……?」
「さあな。ミギという男に訊いてくれ」
 伯爵の答えに、レイドールは首をひねりました。
 そして、質問をつづけます。
「伯爵さんは、どうやってこの塔に入ったんですか?」
「ふつうに入ってきたさ。地面を歩いて」
「ということは、この塔の中で重力が反転したわけですね?」
「そういうことだ」
「その原因を教えてください。……僕は、幸運の石を手に入れたからじゃないかと思うんですけれど」
「理由か」
 うっすらとした笑みを浮かべて、伯爵は答えました。
「残念ながら、理由は知らないな」

「やっぱり、幸運の石はあるんだにゃーーーー!」
 アンダンテが叫びました。
「さっさとその石よこせにゃ! カネならいくらでも払ってやるにゃ! それで駄目なら、実力行使してもいいにゃ! 俺を甘く見るんじゃねぇにゃ!」
 彼がここまでおかしくなっているのには、理由があります。アンダンテは、この塔に住みついてからの十数年というもの、ずーーーーっと幸運の石のことばかりを考えてきたのです。
 彼にとって、それだけがカネで手に入れることのできない唯一のものだったのです。世間一般では愛とか友情とかもカネで買えないことになってますが、彼には買えるのです。そんなものは。いえ、じつは買えていないのかもしれませんが。本人が買ったつもりになっているのですから、それでいいんです。

「まぁ落ち着けや、アンダンテ」
 冷静な口調で、ジェミニがなだめました。
「これが落ち着いてられるかにゃーーー!」
「まぁ待てや。もし幸運の石の力で重力が逆転するなら、キキがその石を持ってるはずやろ。……なぁ、どうなん?」
 ジェミニは頭上のキキを見上げました。
 しかし、返ってきたのは「えー。キキそんなん持っとらんよ」という返事。
 ちょっと考えて、ジェミニは言いました。
「そしたらやな。そもそも、キキはいつからさかさまの世界に住んどるん?」
「えーーーと。いつだったかな。……あ、そうそう。思い出した」
 その瞬間。伯爵の右腕がスッと水平になりました。
 右手に握られた謎の武器から、ピルルルルッという音とともに赤いレーザーが発射されます。それがキキの胸に当たった瞬間、彼女はあとかたもなく消滅してしまいました。

 水を打ったような静寂とともに、圧倒的な戦慄が訪れました。ジェミニたちは、伯爵を甘く見すぎていたのです。本当のところ、彼が本気になりさえすればジェミニ一行など三秒で葬り去れるぐらい力の差があるのでした。だって、ラスボスだし。

「……キキをどこにやったん?」
 つかのまの静寂をやぶって、ジェミニが問いました。
 謎の武器を目の前にかざしながら、伯爵は笑顔を見せます。
「どこって。天国さ。……いや、地獄かもしれないな。この銃は、スギという科学者に作らせたのさ。レーザー光で補足した対象物を波動則にもとづいて再収束させることによって……まぁ要するに別の次元へテレポートさせたわけだ。一般的には死後の世界と呼ばれる空間にね」
「…………」
 ジェミニは、言葉に詰まりました。
 少年漫画の主人公とかだったら、「うおおおお! 許せねぇ!」とか言って殴りかかるところですが、もちろんジェミニがそんなことするわけありません。彼に人間の心などないのです。

「どうしてキキを殺したにゃ! 生きてると都合の悪いことがあったからだろーがにゃ! 幸運の石の秘密がバレることを恐れたんだろにゃ!」
 トム伯爵の武器を目の当たりにしたというのに、ひるむことなくアンダンテはつっかかります。ものすごい勇気です。こういうのを死亡フラグといいます。みなさん覚えておきましょう。もっとも、物語がはじまったときから死亡フラグが立っているジェミニよりはずっとマシですけが。

「ああ、そうさ。アレが生きていると都合の悪いことがあったから消したんだよ。それは認めよう。しかし、幸運の石とは何の関係もない理由によるものだがな」
「その理由とかいうのを教えろにゃ!」
「こちらの世界に来る方法を、おまえたちに知られたくなかったのさ」
 伯爵は、ものすごく正直に答えました。彼の口から出てくる言葉のほとんどはウソでしたが、これだけはたしかに真実だったのです。

「そんな方法、どうでもいいにゃ! さかさまの世界になんて、行きたくもねぇにゃ!」
 アンダンテは、伯爵の言葉を取り違えていました。
 もちろん、その間違いを指摘する伯爵ではありません。彼はうっすらと笑って言いました。
「そうか? こちらの世界も案外わるくはないぞ? なにせ、すべての人間を見下して暮らすことができる。愉快な気分じゃないか」
「俺はそんなことに興味ねーにゃ! 俺が興味あるのはカネだけだにゃ! あと幸運の石にゃ!」
 なにもそこまで正直にならなくても良いのではないかと思うほどのアンダンテなのでした。

「おいおい。何度も言わせるな、アンダンテ。幸運の石なんて、どこにも存在しないんだよ」
「ウソつくんじゃねぇにゃああああ!」
「やれやれ……。おまえはそこまで頭が悪かったのか。失望した」
 言うやいなや、伯爵が右手を上げました。キキを消し去った武器の銃口が、ゆっくりとアンダンテに向けられます。

「ま、まった! まってください!」
 そこへ、レイドールが割って入りました。
 言葉だけではありません。アンダンテの前に立ちふさがり、身を呈して守っているのです。ああ、なんという献身的な行為でありましょうか。アンダンテが死んだことで喜ぶ者は大勢いても、悲しむ者など一人もいないのに。

「幸運の石は存在しないんですよね? それはわかりました。じゃあ、伯爵さんは何故こんなところにいるんですか?」
 理路整然と、レイドールは問いかけました。
「ヒマだからだ」と、伯爵。
「ウソこくんじゃねぇにゃあああああ!」
 ピンピンと猫ヒゲをふりまわして、アンダンテが叫びました。
 伯爵は鼻で笑って答えます。
「いまのは冗談だ。俺がここにいるのは、それがあるからさ」
 彼が指差したのは、一階直通のエレベーター。
「この展望台からは、一階まですぐに降りることができる。ここにいる理由は、それだけさ」
「それなら、一階で暮らしてもよさそうに思えるんですが……」
 レイドールの問いは、常に理論的です。そして冷静です。
「一階は、おまえたちみたいな連中がやってきてうるさいんだよ。わかるか?」
「ああ、なるほど。わかります」
 伯爵の説明もまた、理論的で穴がありませんでした。

「納得できたなら、そろそろ帰るがいい。上りよりは下りのほうがラクだろう」
「そうですね。でも、もうすこし訊きたいことが……」
 ドサッ。
 レイドールの発言をさえぎるようにして、何か重いものの倒れる音がしました。
 見ると、ジェミニが真っ青な顔で床に転がっているではありませんか。
 その足元には、真っ赤な血溜まり。出血多量で意識を失ってしまったのです。もはや、彼の命は風前の灯し火でした。──え? 最初からそうだろって? そんな残酷なwww

「ジェミニさん! だいじょうぶですか!」
「あ、ああ……」
 確実に意識を失っていたはずのジェミニですが、レイドールのイケメンボイスで息を吹き返すあたり、さすがはスーパーリアルゲイと言うほかありませんでした。
 しかし、彼の体力ゲージが残り数ドットであることは事実です。どう考えても、塔を下りて帰ることなどできません。それどころか、立ち上がることさえできるかどうか。

「なんだ? その男は死にかけているのか? 死ぬのはかまわんが、あまりこの部屋を汚すなよ?」
 伯爵は、天井のシミでも見るような目でジェミニを見つめました。
 死体がひとつ増えるぐらい、彼にとっては何でもありません。右手の怪電波銃で、どんなものでも別次元に葬り去ることができるからです。ただ、天井に血の汚れが残るのは願い下げでした。

「トム伯爵! おまえの持ってる幸運の石を貸せにゃ! そうしたら、ジェミニも助かるかもしれねぇにゃ!」
 友達思いのことを言っているように見えるアンダンテのセリフですが、もちろんジェミニを助けるつもりなんか、これっぽっちもありません。利用できるものはなんでも利用するのがアンダンテの処世術なのです。
「くどいぞ。そんなものはどこにもないと、何度言えばわかる?」
 伯爵の表情から、笑みが消えました。
「ウソもいいかげんにしろにゃ! 幸運の石が存在することは、図書館の本ぜんぶに書かれてるにゃ!」
「あたりまえだろう。それらの書物は、すべて俺が書いたのだから」
「次から次へと、デマカセばっかりほざくんじゃねぇにゃあああ!」
「はあ。やれやれだ。これ以上、おまえの妄言にはつきあってられん」

 伯爵の怪電波銃が、まっすぐにアンダンテをとらえました。
 ピルルルルルッ!
 間抜けな発射音と同時に、赤いレーザーが撃ち出されます。
 ああ! さようならアンダンテ!

「にゃあああっ!」
 次の瞬間。アンダンテの右前脚が素早く動きました。どこからともなく取り出した財布に手をつっこむと、そこから現れたのは鏡面仕上げの反射盾。

 かきーん!

 ホームランを打つような音とともに、盾がレーザーを反射しました。
 そのまま、もときた方向へと跳ね返ってゆくレーザービーム。
 ぽふん、という音がしました。
 おお。なんという悲劇でしょう。消え去ってしまったのは、伯爵のほうだったのです。

「俺の勝ちにゃああああ!」
 犬みたいに尻尾をふりまわすアンダンテ。

 その直後のことです。
 伯爵の立っていた空間から、丸い石ころが落ちてきました。

「あれこそ幸運の石にゃあああああ!」
 落下地点に向かって、猛然とダッシュするアンダンテ。
 すべては彼の計算どおりでした。──そう。なにもかもが彼の思惑どおりだったのです。ジェミニを利用することも、伯爵を挑発して怪電波銃を撃たせることも、それを反射シールドで跳ね返すことも。なにからなにまで、完璧なプランでした。

 ただひとつの計算違いは、伯爵との距離が遠すぎたことです。
 まさに獲物を狩る獣の速度で駆け寄るアンダンテでしたが、どっこい残念。まにあいませんでした。あと一歩というところで、幸運の石は床に落ちて砕け散ってしまったのです。それこそ跡形もなく、粉々のバラバラに。──さあ皆さん、どうぞごいっしょに。ざまぁみろ。

「ウソにゃあああああ! これは何かの間違いにゃああああ! 石をもとにもどせにゃああああ!」
 必死の形相で、アンダンテは石のカケラをかきあつめようとしました。けれど、どうにもなりません。なにしろ、カケラのひとつひとつはケシ粒ぐらいの大きさなのです。どうやったって、あつめられるものではありませんでした。たとえ全部あつめたところで、もとにはもどりませんけれども。

「こんなことは認めねぇにゃあああ! 俺の苦労は何だったにゃああああ!」
 すべて水の泡です。悪党にはふさわしい結末でした。
 もっとも、登場人物の大半は悪党だったかもしれませんが。

 そのとき。おどろくべきことが起こりました。
 アンダンテの体が宙に浮いたかと思うと、そのまま真上に向かって飛び上がっていったのです。──いえ、実際には飛び上がったのではありません。彼は、天井に向かって落ちていったのです。

「な、なんにゃ!?」
 人間だったら大怪我しているところですが、彼は立派な猫でした。空中で姿勢を入れ替えると、きれいに足から着地することができたのです。
「にゃ……!? にゃっ!?」
 愕然として、周囲を見回すアンダンテ。それは、すべてのものがさかさまになった世界でした。彼もまた、その世界の住人として認められてしまったのです。これこそが、サーカス塔にほどこされた唯一の魔法なのでした。

「ど、どうしちゃったんですか。アンダンテさん」
 おどろいたのは、レイドールも同じです。天井を見上げて、彼はうろたえました。
「知らねぇにゃ! なんでさかさまになってんにゃ!」
「ええと。やっぱりなにか条件があるんじゃ……」
「それをさっさと教えろにゃ!」
「僕が知ってるわけありませんよ……」
「まさか、伯爵の呪いにゃ?」
「そんな非科学的な……」
「この塔で、科学とかなんとか寝言みてぇなこと言ってんじゃねぇにゃあああ!」

 大騒ぎするアンダンテの声にかぶさって、チーンという電子音が鳴り響きました。
 エレベーターの音です。その扉が開いて、見覚えのある男が現れました。一階で姿を見せた気狂い男。塔の建設者、ミギです。
 彼は縄梯子を使って天井に下りると、哀れな猫に向かって微笑みました。

「こんにちは。ついに私たちの仲間になりましたね、アンダンテさん」
「ワケわからねぇにゃ! いったい何の仲間にゃ!」
「え? 仲間は仲間ですよ。大歓迎です。私はアンダンテさんのことが好きですからね」
「俺はおめぇのことなんかどうでもいいにゃ! さっさと、床にもどる方法おしえろにゃ!」
「もどれませんよ。だって、そういうシステムなんです」
「わかるように説明しろにゃ! システムって何にゃ!」
「この塔を作ったのは私です」
「そんなことは誰でも知ってるにゃ!」
「ですから、塔を出られないようにしたんですよ」
「意味がわからねぇにゃ!」
「え……? なにがわからないんですか?」
「だれか、通訳つれてこいにゃああああ!」

 つまり、これはミギのお友達を作るためのシステムだったのです。
 そのために、この塔は建てられたのです。キチガイばかり集められているサーカス塔ですが、その中でもレベルの高いキチガイだけが、ミギのお友達になれるのです。そして、お友達を逃がさないために世界をさかさまにしてしまうのです。ああ。なんと恐ろしい魔法なのでしょう。以上、通訳おわり。

「いやいやいや。ちょっと待てにゃ。素数をかぞえておちつくにゃ。えーと、1は素数だったっけにゃ。……って、そんなことはどうでもいいにゃ。つまり、どういうことだにゃ? 俺はもうこの塔から出られねぇっつー、そういうことかにゃ?」
「そういうことです」
「にゃあああああ! イヤにゃああああ! ふざけんじゃねぇにゃああああ! ミギと友達になんかなりたくねぇにゃあああ!」
 ひどいことを言うアンダンテです。まぁ最初からですが。

「あの……。それじゃ幸運の石っていうのは、どういうことになりますか?」
 遠慮がちに、レイドールがたずねました。
「あ。幸運の石ですか。いっぱい持ってます。お友達にあげることにしてるんですよ。はい、アンダンテさん」
 そう言って、ミギはポケットからジャラジャラ取り出した石ころをアンダンテに渡しました。それは正真正銘、まちがいなく幸運の石でした。
「やったにゃー! ついに、念願の幸運の石を手に入れたにゃーー!」
 無邪気に喜ぶアンダンテ。どう見ても、完璧なキチガイです。さすがはミギのお友達です。
「アンダンテさん……」
 すっかり狂ってしまった彼の姿を前に、なにをどう言っていいものかわからず、レイドールは一人呆然と立ち尽くすほかありませんでした。

「あなたは私のお友達になってくれませんか?」
 狂喜乱舞するアンダンテをよそ目に、ミギがレイドールにたずねました。
 どうやったって、なれるわけありません。この塔でレイドールもかなり精神を犯されましたが、まだまだ真性キチガイと認められるにはほど遠いレベルです。
「いえ……。すみません。なれそうにないです」
 正直に答えるレイドール。
 すると、ミギはガッカリした顔になりました。
「ここまで来たのにお友達になってくれないなんて、残念です」
「はい。僕も残念です」
 まだ若いのに、きっちり社交辞令の言えるレイドール。さすが完全イケメン超人です。

「あの……。それじゃ、僕は帰ります……」
 すっかり元気のなくなった声で、レイドールは言いました。
 ミギを殺してでも石を奪い取るとか、そういう発想はありませんでした。もしそんなことを考えたとしても、天井までとどく武器がなければどうにもなりません。
「え。もっと遊んでいってください。この塔には、図書館や画廊もあります。たのしいところですよ。夜にはラジオだって……」
 自慢げに語るミギでしたが、レイドールはそんなものに興味ありません。とくにラジオなんか、思い出すのもおぞましい記憶です。
 レイドールは、首を横に振りました。そして、溜め息をひとつ。

「帰ってしまうんですか? 残念です。でも、あなたにはエレベーターがあります。エレベーター。フマさんがなおしてくれたんですよ。いい人ですよね、フマさん」
 ミギは誤解していました。エレベーターはたしかに故障していましたが、フマは何もしてません。自然に壊れたり、なおったりするのです。ファジー機能(死語)のついたエレベーターなのです。そういう機能をファジーと呼ぶのかどうか知りませんが。だいたい、フマが仕事するわけないじゃありませんか。

「それじゃ、せっかくなのでエレベーターを使わせてもらいます……」
 別れの言葉を告げて、レイドールは踵を返しました。
 そして、横で倒れているジェミニに声をかけます。──が、何度呼びかけても一向に返事がありません。うつぶせに倒れたきり、どれだけ呼びかけても彼はピクリともしないのです。いったい、どういうことでしょう。
 ええ。そうです。もう十分以上も前に、ジェミニは死んでいたのです。

 だって、仕方ありません。この展望台にたどりついた時点で残り数ドットの体力だったというのに、これだけ色々なことが起こったんですから。それはもう、作者だってジェミニが死んだことなんか書いてるヒマありません。そんなヤツ、どうでもいいじゃん。死んだっていいじゃん、みたいな。むしろさっさと死んでくれ、みたいな。

 そんなわけで、イケメン主人公レイドールの冒険は無事に幕を閉じました。
 最初はジェミニとかいう不運の男が旅立ったような気もしますが、気のせいです。そうでなかったとしても、レイドール君が無事に帰還できたのですからジェミニも本望でしょう。きっと、草葉の影で喜んでいるにちがいありません。よかったね、ジェミニ!

 ともかく、このようにしてひとつの不運なサングラスが生涯を閉じたのでした。
 冒頭部分、煎餅占いで三日後に死ぬとかいう伏線がありましたが、あれは「三日以内」のまちがいでした。ここに、謹んで訂正させていただきます。

 それでは、めでたしめでたし。



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