別離の料理 〜 Last supper




「……別れてほしいの」
 溜め息を吐くようにして、女はそう言った。
 深夜の波止場。夏の終わりの海が、静かに夜空を映していた。
「……そうか」
 俺は静かに言った。女が『海を見たい』と言った時から、こうなる事は予想できていた。
 俺はシャツのポケットから煙草を出し、火をつけた。ピースという、少々間の抜けた名の煙草だ。ゆっくりとその煙を吸い込んで、吸ったとき以上の時間をかけて吐き出した。
「そうか……って、それだけ? 答えになってないじゃない」
 女の語調が強くなった。
 俺は静かに答える。
「君のしたいようにすればいい」
「別れてもいいって言うのね?」
「それが、君の望みならば」
「っ……」
 女にとって、この展開は予想しなかったことだったのだろう。言葉を失って、彼女は黙り込んだ。俺が引き留めるとでも考えていたに違いない。彼女は、そういう女だった。
 波の音もなく、街の喧騒もここまでは届かない。――静かな夜だった。ゆっくりと、動かしがたいほどの沈黙が落ちた。ジリジリと、ピースの焦げる音がやけに大きく響いた。
 彼女はうつむいたきり、顔を上げなかった。その瞳に涙を見たような気がして、俺は仕方なく言葉を発した。
「腹が減ったな」
「え……?」
 何をこんな時に。――そう言いたげに、女は俺を見た。
「どこかで軽く食事でもしないか? ……最後の晩餐というわけでもないが」
 俺は言って、愛車ジャガーのキーを手に取った。
 女が小さくうなずき、俺はジャガーに乗り込んだ。少し遅れて、女が助手席に座る。この一年間、そこは彼女専用のシートだった。だが、それも今日までのことになるのだろうか――。
 俺はエンジンをスタートさせ、ハンド・ブレーキを倒した。
「ねぇ、どこに行くの?」
 女が訊いた。
「よしぎう」
 俺は答えた。
「……は?」
「よしぎうさ。見映えは悪いが、なかなかの物を食わせる」
「よ、よしぎうって、いったい……?」
「ふっ、」
 俺は微かに口元をゆがめた。
 灰皿でピースを揉み消し、
「行けばわかる」
 アクセルを踏み込んだ。

 吉野家。
 オレンジ色の看板が煌煌と光るその店の前に、俺はジャガーを止めた。
「ここは……?」
「行くぞ」
 女の問いかけには答えず、俺はジャガーを降りた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。これ、もしかして牛丼屋?」
 あわてて俺の後についてきた女が、驚いたように言った。
 俺は振り返った。
「牛丼は食べたことがないのか?」
「そんな下品なもの、食べたことないわよ」
 怒ったような、女の口調。
「下品とは心外だな……。牛丼には赤ワインが使われているんだぜ」
「ワインですって?」
「そうさ。ワイン通の君には、ぴったりの料理じゃないか」
「だからって……」
「何事も経験さ。……そう、入る前に一つだけ言っておくことがある」
 俺は足を止め、右手の人差し指をピッと立てた。
「カウンターのお漬物は有料だぜ」
「お漬物なんて、いらないわよ……っ!」
「そうか。なら、いいがな」
 俺は再び歩き出した。
 が、ふと重要なことを思い出し、また足を止める。
「もう一つ、大事なことがあった」
 ピッ、と人差し指。
「紅生姜は無料だ」
「……」
「聞こえたのか?」
「聞こえたわよっ! 私は漬物も紅生姜もいらないのっ!」
「そうか。なるべく牛丼の素朴な味をそのまま楽しもうというわけだな」
 何をそんなにイラ立っているのかわからなかったが、俺はとりあえずそう言っておいた。俺の考えとしては紅生姜があってこその牛丼だと思うのだが、この問題はひとまず置いておこう。以前、この論争が原因で殴り合いの喧嘩になったことがある。
 ちなみに、その前には卵論争で警察の厄介になったこともあった。一人で三人を殴り倒してしまったのも マズかったが、取り調べに当たった警官が卵否定派だったのが最悪だった。官憲には、カツ丼以外の味など わからないのに違いない。
『牛丼に卵だぁ? はっはっは』
 そう笑われた日のことを、俺は忘れない。権力をカサにきた犬め。真冬の拘置所で寒さに震えながら、俺はそのとき誓ったのだ。『生涯、牛丼には卵を入れる』と。
「ちょっと、どうしたのよ。拳にぎってないで、早く行きなさいよ」
 女の声で、俺は我に帰った。苦い過去の記憶に、少し我を失っていたようだ。
「いや、何でもない。じゃあ、行くぜ」
「はいはい」
 やる気のなさそうな女の相槌を背に、俺は自動ドアの前に立った。
「いらっしゃいませ、こんばんはー」
 威勢の良い店員の声が、俺達を迎えた。この声を聞くと、俺は我が家に帰ってきたような気分になる。将来家庭を持つならば、こんな家庭にしたいものだ。
 この店には、カウンター席だけでなくボックス席もある。が、そんな所に腰を下ろすのは俺のポリシーが 許さない。俺は黙ってカウンター席の一つに座った。男の席はカウンターと決まっているものだ。
 床に固定されたイスに苦労して、女が隣に腰を下ろす。
 素早くおひやが出てきて、店員の一人が訊いた。
「ご注文は?」
 ニヤリと口元をゆがませて、俺は言った。
「トクモリ、ツユダク、ギョク」
 心得た、といった調子で、若い店員が厨房に向かって注文を復唱する。注文を受けた店員から同じ言葉が返ってきて、俺は一人うなずいた。なかなか良い声だ。
「な、なに? 今、何て言ったの?」
 異国の言葉をでも耳にしたかのような、女の反応だった。どうやらこの女、本当に素人らしい。無事にこの店を出ることができるのだろうか。
「そちらは?」
 店員が、女に向かって訊いた。
「え? えっと……」
 女は、あわてたようにメニューを探した。だが、カウンターにそんなものはない。
 俺は、店内壁面に貼られたメニューを指差した。
 数少ないそのメニューの中から、女は最もありきたりな選択をした。
「じゃあ、牛丼の並一つ」
「ナミいっちょぉーー」
「へい、ナミいっちょぉーー」
 すかさず、店員たちから声が上がった。
「ついでにギョクだ」
 俺は追加した。
「ギョクいっちょぉーー」
「へい、ギョクいっちょぉーー」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それ、私の?」
 と、女。
「遠慮するな。俺のおごりだ」
「遠慮も何も、ギョクって何なのよ」
「すぐわかる」
 俺の言葉通り、間髪入れずにギョクが出てきた。
「生卵じゃない。まさか、これを……」
 女の言葉に、俺はうなずいた。
「そう。牛丼にかけるのさ」
「冗談でしょ!? 私は普通に食べるわよ」
「まぁ、そう言わずに試してみろ」
「いやよ、気持ち悪い」
「……俺のギョクが食えないってのか?」
「そ、そんなスゴまないでよ。わかったわよ、入れればいいんでしょ、入れれば」
「よし。じゃあ、今のうちにかきまぜておけ」
「え?」
「え、じゃない。牛丼が来る前にギョクをかきまぜておけ、と言ってるんだ」
 俺は割り箸を取って、素早くギョクをかきまぜた。
 わずか十秒ほどでこの作業を終えると、ちょうどそのタイミングを見計らっていたかのように特盛りが出てきた。今かきまぜたばかりのギョクを特盛りに投入し、更に電光石火の早技で紅生姜を加える。ツユダクに生卵、紅生姜の汁が渾然一体となり、特盛り牛丼はさながらお粥のような状態になった。
「うっ……」
 隣で、女がうめくような声を上げた。
「どうした?」
「それ……、食べるの? もしかして」
「そのつもりだが。……何か顔色が悪いな、大丈夫か?」
「ちょっと、気分が悪くて」
「そいつは良くないな。牛丼を食って元気を出すといい」
「え、ええ……」
「よし。俺はこれから食い始めるが、食ってる間は決して話しかけるな。気が散るからな」
 言っておいて、俺は丼を手に取った。
 左腕でえぐりこむように丼を抱え、右腕で正確なストロークを刻み始める。三秒に一回のストロークが俺のペースだった。「貪り食う」という表現も、あながち外れてはいない。
「ねぇ、ちょっと……」
 女が呼びかけたが、俺は答えなかった。三秒に一回のリズムは崩せない。
「私、気分が悪いんだけど」
 うるさい女だ。三秒に一回、三秒に一回。
「聞いてるのっ?」
 くそ、固い肉が入ってやがった。少しリズムが乱れたぞ。畜生。
「私帰るわよ、もう」
 なんてこった、紅生姜の塊を食っちまった。ちょっと鼻にきたぜ、これは。
「じゃあねっ! さようならっ!」
 マズい、ペースをまちがえたか。肉が先になくなりそうだ。俺としたことがっ!
 いや、これはどうにか挽回できる失敗だ。卵と紅生姜、この二つをうまく利用すれば。
 ――よし、どうにかバランスを立て直すことができたようだ。ラストスパート!

「……ふぅ」
 所用時間二分半。
 カラになった丼をカウンターに置き、ふと隣の席を見ると、そこも丼同様カラになっていた。
「ワインが足りなかったか……?」
 俺は、小さくつぶやいた。
 支払いを済ませ、店の外に出る。
「ありがとうございましたー!」
 店員の声を聞きながら、俺はもう一つの可能性に思いいたるのだった。
 松屋にしておけば良かったかもしれない、と。



                         ――了



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