真冬の夜に降る雨は
冬の夜には、氷のような雨が降る――。
それは、ある冬の夜のことだった。凍てつくようなみぞれ混じりの雨が降るその夜、私は懐かしい街で懐かしい人に再会した。
秋子。――かつて私の最も近くにいた女性。五年ぶりの邂逅だった。気まぐれで入った喫茶店の隣のテーブルに、彼女は座っていたのだ。まるで、そう約束でもしていたかのように。
「あ……、」
先に気付いたのは彼女の方だった。驚いたように口を開いたまま、彼女はぽかんとして私を見つめていた。その表情から、驚き以外のものは読み取れなかった。
「や、やぁ」
私はとまどっていた。というのも、彼女との最後の別れ方があまりにもひどいものだったからだ。その原因は全て私にあった。つまり、私は彼女の前に姿を出せる人間ではなかったのだ。だが、こうして顔を合わせてしまったものは仕方ない。努めて冷静を装いながら、私はウェイターに注文を告げた。カフェ・オ・レ。そういうものが飲みたい気分だった。
「ひさしぶりですね。……お元気でしたか?」
隣のテーブルで、秋子が言った。私と同じテーブルに移ってこようとはしなかった。そういう期待をするのには、五年という歳月は長すぎた。
「ああ。……キミは?」
「私は……うまくやってます」
そこまで言葉を交わしたあと、しかし私たちの間に交わすべき言葉は見つからなかった。黙り込んだまま、秋子は居心地の悪そうにティーカップを何度も持ち上げたり下ろしたりしていた。私の方もまた、熱いカフェ・オ・レをスプーンでかきまぜたりする以外になすことがなかった。
「……あの、」
ふいに秋子が口を開いたので、私は啜っていたカフェ・オ・レで火傷しそうになってしまった。
「もしかして、怒ってらっしゃるんですか?」
「え? どうして?」
怒っているのは、むしろ彼女の方ではなかったのか。五年前のあの夜のことを考えれば、その権利は当然彼女にあるはずだった。
「だって……全然しゃべってくれないから」
怒っているなどというのは、まったくのところ私の勘違いだった。秋子は今にも泣きだしそうだった。私は慌てた。
「い、いや、そんなことはないよ。ただあの日のことをどう謝ろうかと思って」
「え……?」
「いや、だから……」
「あ、あのことですか。あれなら、あたしは全然気にしてません」
「……本当に?」
「はい」
そう言って、秋子は小さく微笑んだ。その笑顔は五年前と何ら変わっていなかった。
五年前、私は秋子に悪魔のゲームを教えてしまった。Magic:The Gathering――。古今あらゆるゲームと比較してみても非情なまでに苛烈なそのゲームを、私はあろうことか純真な一人の女性に教え込んでしまったのだ。一体どうしてそのようなことができたのか、過去の自分を問いただしてやりたい。いくら彼女自身の願いだったとはいえ、あまりに非人道的な行為ではなかったか。
いや、真に非人道的なのは彼女との最後のデュエルにおける私のデッキだった。<<露天鉱床>>と<<冬の宝珠>>でマナを拘束し、<<黒い万力>>で永続的にダメージを与え続け、それを邪魔する呪文は一つ残らずカウンター。のちにプリズンと呼ばれることになるそのデッキで、私は秋子を完膚なきまでに叩きのめしてしまったのだ。――そう、<<灰色熊>>と<<猫族の戦士>>を愛する罪のない彼女を。
そうして彼女は短いデュエル人生に自ら終止符を打ち、私の前から姿を消した。
「あれから、あたしも強くなったんです」
と、秋子は言った。
「まさか……。それはマジックのことを言ってるのかい?」
「はい」
答える彼女の声は自信に満ちていた。
「キミはあの世界から足を洗ったはずじゃ……」
「また始めたんです」
彼女は完全に立ち直っていた。五年前のことを引きずっていたのは、私だけだった。残りライフ1で<<黒い万力>>を<<解呪>>しようとして<<対抗呪文>>の前に泣き崩れた彼女の姿は、もうそこにはなかった。
「その証拠に……。ほら、見てください」
秋子は、テーブルの上に閉じられていた文庫本を手に取って、私に見せた。その中ほどからスッと引き抜かれたしおりは、使い古されてボロボロになった<<灰色熊>>のカードだった。
「ね?」
彼女は今度こそ満面の笑顔を浮かべた。私もつられて笑った。
そうして、彼女の誘いのまま私は秋子のアパートへ行ったのだった。もちろん、途中で自宅に寄り、いくつかのデッキを持ってくることは忘れなかった。
見覚えのあるその部屋は、ひどく懐かしい匂いがした。――カシスの芳香剤。かすかに甘酸っぱいその香りは、いやでも昔のことを思い出させた。もう一度この部屋に招かれることがあろうとは、夢にも思わなかった。感慨にも似た感傷を抱きながら室内を見回せば、模様替えをしたのか家具の配置は私の記憶の中のそれとはいくぶん違っていたが、サイドボードの隅に置かれたカードケースだけはそのままだった。
「……懐かしいな」
私は思ったままのことを口にした。
「そう、ですね。……あ、紅茶でいいですか?」
その言葉を聞いて、改めて感慨に浸る。そうだ。彼女は果実の香りのする紅茶が好きだった。五年前の私はそういう紅茶に砂糖を入れようとして、よく叱られたものだ。
「あぁ、オレンジの紅茶がいいな」
さりげなくリクエストしてみた。じつはこの部屋へ通される前にキッチンでオレンジティーの缶を見かけていた。私の好きな――そしてそれ以上に秋子が好きな銘柄だった。
ほどなくして二つのティーカップが並べられ、どちらからともなしにデッキを取り出した。そのころ、私は強さだけを求めるデュエルに飽き飽きし、穏やかに楽しめるデッキばかりを使っていた。五年の間に<<黒い万力>>も<<冬の宝珠>>も、それに私の愛したほとんどのカードが時代の波に呑まれてしまっていた。
「それじゃ、まずはこのデッキかな」
私は青と赤で構成されたデッキを床に置いた。通常のカウンターバーンに<<魔力のとげ>>や<<生命転移>>を組み込んだ、お世辞にも強いとは言いかねるデッキだった。なにしろこの時代の青に必須と言われた<<火薬樽>>を、私は一枚も持っていなかったのだ。
私がデッキとライフカウンターの用意をしたのを見て、秋子はそっと自分のデッキを置いた。私の知る彼女は、白と緑で構築したクリーチャーホードを愛用していた。<<ハルマゲドン>>も<<ルアゴイフ>>も持っていない彼女のデッキは、私の操るパーミッションデッキの前には赤子同然だった。――『あたしも強くなったんです』と彼女は言った。私の知らない五年間を彼女はどう過ごし、どう成長してきたのだろう。
「始めようか」
雨音に促されるようにして、私はデュエルの開始を宣言した。
先攻は彼女だった。色気を感じさせるほどに滑らかな手つきでライブラリから7枚のカードを取り、彼女はまず<<山>>をセットした。そして「<<炎の印章>>を置いてエンド」と静かに告げた。
なるほどステロイドデッキか、と思った。そう、彼女が緑から離れることなど有り得ないと思っていたのだ。きっと彼女は次のターン、<<灰色熊>>を召喚して「クマさん登場ぉ♪」などとおどけてくれるに違いない。そう信じていた。――だが、私のそうした夢想は3ターンめに打ち砕かれた。
「あなたの<<島>>を<<石の雨>>で破壊します」
冷たい声で、彼女はそう宣告したのだった。私は自分の耳を疑った。あの無垢で心優しい秋子が、あろうことか土地破壊デッキを使うなんて!
「……秋子、私の目を見てくれ。私の目を見ながら、もう一度同じことが言えるか?」
信じたくなかった。私の知る彼女は、何があろうと他人の土地を――しかも<<島>>を――破壊しようとするような女性ではなかった。
彼女は、しかし私の目を見ようとはせずに、
「<<石の雨>>を撃ちます。対象は<<島>>です」
いくらか小さい声で、再び言うのだった。
「本当に……、本当にいいんだな?」
私の手札に<<石の雨>>を打ち消すカードはなかった。加えて言うならば、場に出ている2枚の<<島>>以外に土地カードは持っていなかった。この<<島>>を破壊されれば私の敗北は決定的だ。だが、もはやデュエルの勝敗などどうでもよかった。かわいかったあの秋子が、いま私の<<島>>を破壊しようとしている。信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「<<島>>を破壊します」
彼女は繰り返した。決然として言い放ち、おまけにこう付け加えた。
「対象はアンタップしている方の<<島>>です」
私は慄然とした。――彼女は土地破壊デッキを使い慣れている!
「そうか……。わかった。<<島>>を墓地に置くよ。……しかし、まさか次のターンに<<バルデュヴィアの大軍>>を召喚したりはしないよな?」
私は笑顔を浮かべながら言おうとしたが、うまく表情が作れなかった。声を出して笑おうとすると、渇いた声になっていた。それを聞いて、彼女はどこか悲しそうな表情を浮かべた。そうして、
「<<バルデュヴィアの大軍>>はデッキに入ってません」
と言うのだった。私は胸をなで下ろした。そう、土地破壊混じりのビートダウンデッキなんて、彼女には似合わない。彼女が4マナで召喚するクリーチャーは<<ラジャンの精>>のはずだ。愚かにも、私はそう信じ込もうとしていた。
だが、真の悪夢は次のターンに訪れた。何ということだろう、秋子は4つめの土地として<<沼>>を場に出したのだ。<<森>>ではなかった。<<沼>>だ。あの、死と破滅を象徴する黒いマナを生み出す土地。自然と調和を意味する緑のマナとはあまりに違う。
「秋子……」
私は何かを言おうとしたが、言葉が浮かんでこなかった。わけもなく涙が出てきそうになって、私は顔をそむけた。次に彼女がとるであろう行動がありありと頭に浮かんだ。それは、とても正視にたえる光景ではなかった。
「土地を全てタップして<<暗黒の儀式>>を使います。黒マナと赤マナを一つずつ使って<<貪欲なるネズミ>>を召喚。……カウンターしますか?」
私は無言で首を横に振った。いったい彼女に何があったのだろう。この五年間の彼女のデュエル人生を思うと、涙が止まらなかった。あの弱くて愛らしかった秋子が、土地ばかりか手札までをも破壊しようだなんて。残酷すぎる時の流れに、私は神を呪った。
「それじゃ、残った4マナで<<深淵の死霊>>を召喚します」
淡々と作業を進める彼女の姿に、もはやかつての面影は微塵もなかった。作業。そう、作業だ。対戦相手のライフをゼロにして地に叩き伏せるための作業。そこに一切の情は存在しない。五年の間に秋子は立派に成長した。一人の魔術師として。だが、もうそこに私の愛した彼女はいなかった。そこにいるのは私の土地と手札を破壊し尽くそうとする邪悪な一人の魔術師だった。<<灰色熊>>に<<再生>>をエンチャントして喜んでいた彼女は、もうどこにもいなかった。――次のターン、<<涙の雨>>を受けて私は投了した。私の心の中にも同じ雨が降っていた。
『あれから、あたしも強くなったんです』……その言葉どおりだった。精神的にも技術的にも彼女は成長していた。デッキには一分のスキもなかった。土地、手札、クリーチャー、そしてライフ。ほぼ全てのリソースを破壊する、みごとなデッキだった。完敗だった。
「……強くなったな、秋子」
私は手札をライブラリに置いた。私の場に出ていたのは<<島>>と<<山>>が一枚ずつ。それだけだった。私ができたのはそれらの土地を出すことと<<渦巻く知識>>を撃つことだけだった。それ以外のことは何もできなかった。あまりに一方的なデュエルだった。
「まだ一勝しただけです」
ぽつりと秋子は言った。――まだ? 『まだ』だって?
彼女は当然のことであるかのようにデッキのカードを入れ替えていた。サイドボードから入ってくるのであろう何枚かのカードの一つが、ちらりと見えた。血のように赤く染まったそのカードは、<<沸騰>>だった。全ての<<島>>を破壊する、凶悪な呪文。
「<<沸騰>>、か……」
誰にともなく私は呟いた。秋子は興味なさそうに私を一瞥しただけだった。氷のように冷ややかな色をたたえたその瞳に映る私は一人の懐かしい友人ではなく、ただの<対象の対戦相手>だった。
全て私の責任だった。五年前のあのとき<<黒い万力>>への<<解呪>>を見逃してやっていれば、あるいは彼女はまだ<<灰色熊>>を愛し続けることができたのかもしれない。たくさんのクリーチャーを並べながら、緑と白のデッキを楽しんでいたのかもしれない。だが、それら全ては遠い彼方へ消え失せ、幻影となってしまった。あの日、私はたった一枚の<<対抗呪文>>で一人の女性の人生を狂わせてしまったのだろうか。<<灰色熊>>を愛していた秋子。だが今は<<貪欲なるネズミ>>を召喚する邪悪な女魔法使い。それは、ある意味正しいことなのだろう。この荒廃した世界を生きてゆくのに、<<灰色熊>>は不要だ。しかし、そんな不要なカードを使う彼女をこそ、私は愛していたのかもしれない。
「どうかしたんですか?」
私の心情を知ってか知らずか、秋子は怪訝そうな顔を見せた。
「いや、何でもない。……何でもないんだ」
自分に言い聞かせるように、私は二度繰り返した。――そう、何でもないことだ。立派に成長した彼女をこそ、誉めてやるべきだ。今の秋子ならきっと、<<貪り食うストロサス>>のアップキープコストとして<<灰色熊>>を生け贄に捧げることにも抵抗を感じないだろう。そう、それでいいんだ。
「……二戦めを始めようか」
私は静かに次のデュエルの開始を告げた。私にできるのは、せめて2ターンめに<<深淵の死霊>>を召喚されないよう祈ることだけだった。
雨はますます強くなる。真冬の夜に降る雨は、<<涙の雨>>か<<石の雨>>か――。