イリス嬢に問う
その日、退屈なバイトをしていた。
ゲーム店の販売員である。つまり、レジ打ちだ。秋葉原の某店で、私は週末のみの臨時要員として雇われていた。
週末の秋葉原を知る人は、あの殺人的な混雑ぶりをよくご存知だろう。その混雑の渦中に林立するゲーム店の一つが、私のバイト先だった。週末の店内は、さながら通勤ラッシュのごとき惨状となる。
それで「退屈だった」とは、どういうことか。……いや、決して退屈だったわけではない。5秒で前言を撤回してしまったが、とにかく私に仕事らしい仕事がまわってこなかったのは確かだ。
なんとなれば私は新入りであり、週末要員として優秀なメンバーがそろっていたため、私にレジ打ちという仕事は任されなかったのだ。要するに役立たずだったのである。これまでの人生すべてがそうだったように。
役立たずの新入りというキャラ設定をわりあてられた私にできる仕事は、ただただ来店する客に向かって「いらっしゃいませー」と持ち合わせてもいない愛想を振りまくことだけだった。これが退屈でなくて何だと言うのか。何時間もの間、ただひたすら「いらっしゃいませー」なのである。人間のやる仕事か、これが。機械で十分ではないのか。そのための機械より私のほうが安上がりだというのなら仕方ないが。
休みなしで2時間も3時間も「いらっしゃいませー」を繰り返していると、だんだん頭がおかしくなってくる。もともとおかしいではないか、という類型的なツッコミは却下する。もっと創意工夫のあるツッコミを期待している。大丈夫、そんなに難しいことではない。ちょっとした閃きと努力だよ、キミ。……だれに言っているのかわからなくなってきたが、まぁそんな次第で私の頭はオーバーヒート気味になってゆくのであった。
「いらっしゃいませー」
「らっしゃいませー」
「らっしゃんせー」
「らっしゃーせー」
どんどん崩れてゆくのである。そして、そのうちどこまで崩すことができるかという考えが頭を支配する。だが、ただ崩すだけでは面白くない。工夫が必要だ。
すぐにピンときた。その素敵な思いつきに一人ほくそ笑んで、さっそく実行する。
「ラッシャーK」
言うまでもなく、Kとは木村のことである。本当は「ラッシャー木村」とフルネームで言いたいところだったが、さすがにそれはできなかった。まだ理性が残っているようだった。
それにしても、だれ一人として気付かない。私は驚いた。
調子に乗って、訪れる客すべてに「ラッシャーK」と呼びかけてみる。が、だれも私の方を見向きもしない。そりゃたしかにあなたはラッシャー木村ではないだろうから、そう呼ばれたからといって返事をする必要はないのだけれども。しかし、いきなりラッシャー木村扱いされて、それであなたは平気なのか? 自分の名前に誇りはないのか?
――どうやら、ないらしい。50人以上の客に「ラッシャーK」と呼びかけてみるも、一度たりと「俺はラッシャーじゃねぇ」という反論はなかった。私は図に乗った。
「ラッシャー板前」
「木村」は無理でも、「板前」ならどうにかなると考えてのことだった。発音は「いらっしゃいませ」の後半部分と酷似している。そして実際、それは難なくクリアできた。
となれば、次なる関門に挑戦せねばなるまい。
「イラン社製」
これはどうだ。うちの店にはイラン製品など置いてないぞ。置いてあったとしても意味は不明だが。
だが、これもまったくノー・プロブレムだった。スルーである。客に向かって「イラン社製」と連呼しているのに、何の反応もない。それともあなたたちは全員、イラン社製のアンドロイドか何かなのか? あまりにも当然すぎるその呼びかけに辟易しているのか?
上等ではないか。ならば、これでどうだ。
「射精」
客に向かって「射精」である。こんな所業が許されるのか。
いや別に「写生」でも「社性」でも良いのだが。気分的には「射精」だった。笑い死にしそうなほどの衝動を抑えているせいか、エンドルフィンやアドレナリンの分泌が著しい。口の中に脳内物質の味がするほどだった。
もはや、私の理性は完全に失われていた。退屈なバイトは一変して最高のアミューズメントと化した。筋肉痛になりそうな腹筋を押さえながら、20人に一人ぐらいの割合で紛れ込んでくる女性客を見つけるたびに、私はひときわ大きい声で「射精!」と叫ぶのであった。まるきり変態である。いや、キチガイか。
だが、それも30分ほど続けると徐々に飽きてきた。なにしろ、ぜんぜんバレないのだ。ごくまれに怪訝そうな目をこちらへ向ける客もいるが、例外なく自分の聞き間違いだと判断してしまうらしい。私は明らかな意図をもって「射精」と叫んでいるにも関わらず。
大体が、ほかのバイト要員もまったくのスルー状態なのだからあきれる。もっとも、私が「射精」と言っているときは他のバイト諸君は「いらしゃいませ」と言っているのだから、それに掻き消されてしまっているということもあるが。
新たな刺激を求めて「射精してぇ」と叫んでみても、状況に変化はなかった。いいのか、本当に。
ここはやはり、もっと大胆に行かねばならぬときだ。数分ほど言葉を選んで、私は新たな攻撃に出た。
「シャーマン戦車」
これはさすがに他のバイト要員の耳を引いた。
私のすぐ横でカウンター奥の棚整理をしていたWというバイト要員が
「いま、何て言いました?」
と、ツッコんできた。このWはわりと気心の知れた男なので、私は先ほどからの経緯を簡潔に説明した。まぁ、難しく説明するのも不可能だが。
聞き終えたWは、ニヤリと笑ってこう言った。
「じゃあ『イラン選挙戦』ってのは、どうですか?」
「すばらしい」
私は即座にそれを採用した。
「あと、『イラン軍派兵』とか」
Wの才能は実に優れていた。
私は10人ほどの客に「イラン軍派兵」とか「イラン軍歩兵」などと呼びかけてみた。イラン人でもなければ歩兵でもない普通の日本人が、わけもなくイラン軍の歩兵扱いである。これをシュールと言わずして何と言うのか。
だが、Wはさらなる奇策を編み出した。のみならず、自身でそれを口にした。
「イリスちゃん何故」
誰だよ、イリスちゃんって。アニメか何かのキャラか。危ねぇヤツだな。しかも問いかけてるし。君とイリスちゃんとの間に、何かあったのか?
しかも、あきらかにバレている。十人中五人以上は、なに言ってんだコイツという目でWを見ているのだ。にもかかわらず、彼はおかまいなしに「イリスちゃん何故」とか「イリスちゃんハゲ」などと連呼している。
だが、そういうことなら私も進まなければならない。
まずはジャブだ。
「ロシア体制!」
次はフック。
「リビア連盟!」
そしてストレートだ。
「世界的だぜー!」
当然ながら、最後のはバレバレだった。
だが、バレたってかまわないのだ。だいじなのは客をもてなす心である。なにも問題ない。
そうこうしているうちに、退屈だったはずのバイトの時間は終わりに近付いていた。この日ほどバイトの終了時刻が恨めしいと思ったことはなかった。
――そして、終了時刻まであと10分というころ。再度、Wはその才能を見せつけたのであった。
「アリはアントでございましたー」
たったいま自分がレジを打った客に対して、Wはそう言ったのである。「ありがとうございました」のつもりなのであろう。客は振り返りもせずに行ってしまったが、私は聞き逃さなかった。
しかし、たしかにアリはアントである。Wは何もまちがってはいない。まちがっているとすれば、それは現在の状況のほうだ。
Wは、「どうだ」と言わんばかりの勝ち誇った表情を私に向けた。
くそ、このままではWに負けっぱなしではないか。私も男だ。このまま引き下がるわけにはいかない。意を決し、私は乾坤の一擲を打った。
「アイラブ・ゴマあんデニッシュ」
その直後、店長に呼び出されて怒られました。
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