驟雨
それは、いつもいきなりやってくる。――ある一つの記憶と共に。
既視感。
初めて訪れる場所、初めて見る光景、にも関わらず、経験したことがあるような感覚。そうした感覚にとらわれるのは、決まって雨の日だ。それも、夏の日の夕方、前触れもなく降る雨のときが多い。そう、たとえば今日のような。
赤羽。初めて降りる駅だった。古い友人と会うために、電車を乗り継いでここまで来た。
列車を降りたときには、すでに空はずっしりと雲に覆われていた。一目で、驟雨になると知れた。駅の改札を抜けたころには、ぽつぽつと雨滴が当たるようになっていた。
なにも、こんな日に――。
そう思って天を見上げたが、それで雨が降るのを止められるわけでもなかった。にわかに雨は強くなり、アスファルトに雫の跡が散った。雨に打たれたアスファルトの薄く饐えるような匂いが大気に溶け込んで――、私は軽い酩酊に陥った。曇天を見たときから、その予感はしていた。
既視感、だった。
雨に濡れる赤羽の駅前。突然の夕立に悪態をつきながら足を早める人々。そのすべてが、見覚えのあるものに変じた。ロータリーに入ってきた路線バスがクラクションを鳴らす。その耳障りな音も、その耳障りな感覚さえも、過去のどこかで体験したものだった。
またか――。
私は胸の内で呟いた。
と同時に、軽い頭痛が訪れる。脳の中心が疼くような、それは独特の痛みだった。既視感は、常にこの疼痛を伴って現れる。最初に既視感、わずかに遅れて疼痛。この順序は、いつも変わらない。疼痛自体が既視感の一部なのだ。
痛み自体は大したものではない。ただ、その痛みが与える焦燥感にも似た感覚。それが不快だった。なにかしなければ……、という焦燥感。ここでこうしていて良いのか、という切迫感。いてもたってもいられなくなり周囲を見回してみるが、それもまた予定された行動だ。なにも、私に出来ることなどない。なにも。ただ、その感覚が一刻も早く去ってくれることを祈るだけ。
頭痛を追い出そうと、私はポケットからMDプレイヤーのイヤホンを取り出した。それを耳に入れ、再生させようとして躊躇した。リモコンの再生スイッチに指をかけたところで、動きが止まる。――が、逡巡したのは数秒だった。私は息を吐き、MDをスタートさせた。スイッチを押す指が、ひどく重かった。
軽快なギターが短いリフを刻み、トーンの高いヴォーカルが入る。
「I'm goin' away.I don't know where.But it doesn't matter...」
タイ・フォンというバンドの”ゴーイン・アウェイ”という曲だった。どれだけ聴いたかわからないほどに聴きつぶした曲だ。歌詞は一字一句違えず頭に入っている。
強くなってゆく夕立をぼんやりと見つめながら、私は駅舎の壁に背を預け、イヤホンから紡ぎ出される音を拾っていた。頭痛は治まらなかった。治まるどころか、この夕立と同じように目に見えて強くなってゆくようだった。
――そして、記憶が蘇る。
昼休みのことだった。いつものように数人の悪友たちと学食でラーメンをすすっていたときのこと。
喧騒に包まれた学食の中で、ふと耳に響く音があることに気付いた。ひずんだギターと、狂ったようなメロトロンの音。聞き覚えのある音だった。
ジェネシス。
音の正体をつかむのと同時に、その発生源もわかった。天井に設置されているスピーカーだ。そこから流れている曲は、たしかにジェネシスの”ウォッチャー・オブ・ザ・スカイズ”だった。だれかが、放送室でそのアルバムを――おそらくはテープを、再生させているのだ。
おや、と思った。放送室にジェネシスのテープなどなかったはずだ。だてに放送部員を二年間やってきたわけではない。放送室にストックされているテープのタイトルは全て把握している。つまり、いま校内に流れているこの音源は誰かが新しく持ち込んだものだ。
しかし、いったい誰が……?
こんな曲をかけるような人間には、心当たりがなかった。二年間も同じ部にいれば、他の部員たちの音楽嗜好もほとんど理解している。
新入部員か──? それ以外、考えられなかった。だが、五月というこの時期に、入ったばかりの部員が持参したテープをかけるものだろうか。――無論、そうすること自体は何の問題もない。常識の範囲内でなら、どんな音楽をかけてもかまわない。部長から、そう言い含められているはずだ。
しかし、それでも通常の新入部員は遠慮するものだ。しばらくの間――夏休みが終わるぐらいまでは、放送室にストックされているテープから自分の趣味に合うものを探し出してかけるというのが、たいていの新入部員のとる行動だった。
だれなのか、気になった。ジェネシスというその音楽嗜好もさることながら、新入部員らしからぬ強気が興味を引いた。
気もそぞろにラーメンをかたづけると、私は悪友たちを残して放送室へ向かった。
思ったとおり、放送室にいたのは一年生だった。
「何をかけてもいいんですよね?」
彼は、ニッコリ微笑んでそう言った。線の細い、どこか女の子みたいな印象を与える男だった。
「ああ、それはかまわないよ」
私はそう答えて、
「ジェネシスが好きなのか?」
問いかけるというよりは、確認する口調で訊いた。とたん、彼の表情がこれ以上ないほど明るくなった。
「先輩もジェネシス好きなんですか?」
「それほど詳しくはないけどね。プログレは全般的に好きだよ」
「あ、それじゃあ仲間ですね。ほら、先輩先輩」
言いながら、彼は私に向かって右手を伸ばしてきた。
一瞬、とまどった。あまり誰かと握手をするような習慣がなかったのだ。が、どうにかそのとまどいを隠して、私は彼の手を握ることができた。
「先輩、三年生ですね。それじゃ、一年間よろしくおねがいします」
その細い腕とは裏腹に、彼の握手は力強かった。
それが、彼――ヒロキとの出会いだった。
ヒロキと私は、たちまち意気投合した。音楽の趣味が合致していたこと。それはもちろん大きい。だが、それ以上に私はヒロキの快活さに惹かれていた。それは、決して私には持ち得ない部分だった。
ヒロキは常にだれとでもコミュニケーションをとろうとするタイプだった。相手が上級生であろうと教師であろうと、何の遠慮もなく話しかけた。およそ物怖じというものをしない性格だったのだ。加えて、彼はだれにでも握手を求めた。男も女も関係なかった。日本人らしからぬ彼の行動にとまどった相手を、私は何度となく目にした。それでいて、ヒロキは思慮深い性格でもあった。試験の成績も良かったし、容姿も上等の部類に入る方だった。したがって、と言うべきか、女生徒には人気が高かった。
一度、こんなことがあった。
ある日の放課後、私は当番でないにも関わらず放送室を訪れた。その日の当番は、ヒロキともう一人、一年生の女子だった。彼女の名前は覚えていなかったが、どことなくヒロキに好意を寄せているらしいことは察していた。邪魔をするつもりはなかったので、ヒロキに貸しているCDを返してもらえばすぐに引き上げるつもりだった。
放送室に入るとヒロキがマイクの前に座っており、その少し離れた所で彼女が顔を伏せていた。泣いているのが、すぐにわかった。何があったのか、聞くまでもなかった。
気まずい空気が垂れ込めて、私は言葉を発することができなかった。即座にその場を立ち去って、何も見なかったことにしたい気分だった。
が、ヒロキはなにごともなかったかのように言ったのだ。
「あ、先輩。遊びにきたんですか?」
いつもと変わらぬその声に、私は彼の神経を少し疑った。
「ああ……、CDを取りにきただけなんだが」
私が言うのと、ガタンと椅子が倒れるのとは、ほぼ同時だった。顔を向こうに向けたまま、女生徒は逃げるように廊下へ出ていった。
「オレのことが好きらしいんですよ」
訊くより先に、ヒロキが言った。
「で、どう答えたんだ?」
「オレはおまえのことは何とも思ってない、って答えましたよ」
「……もう少し、言い方があるだろうに」
「オレは男が好きなんだ、とでも言っておけば良かったですかねぇ」
「まぁ、そういうやりかたもあるが」
「次は、そうしますよ。ああ、そうそう。CDでしたね」
ヒロキがカバンからCDを引っ張り出し、あとはそのCDに関しての話題ばかりだった。出ていった女生徒についてはまったく触れられなかった。そんなことより他に話すべき話題が、私たちの間にはいくらでもあったのだ。その話題とは、主にロックのことばかりだったが。
とにかく、ヒロキの興味はまっすぐにロックへと向けられていた。それ以外の全ては、彼にとって些事に過ぎないようだった。ロックとギター。それがヒロキの日常だった。
「先輩、バンドやりませんか?」
ヒロキからそういう提案を受けたのは、夏休みに入る直前――7月の中頃のことだった。
「バンド?」
私は問い返した。ヒロキの真意がつかめなかったのだ。私がギターを始めとした楽器の一切に触れないことを、彼はよく知っているはずだった。
「そう、ずっとやりたかったんですよ。でも、メンバーが足りなくて」
困ったようにヒロキが言った。
「私には楽器は無理だよ。……で、何人ぐらい集まったんだ? ドラムだったら、趣味でやってるヤツを知ってるから紹介してもいい」
「ええと、今のところ集まってるのはギターだけです」
「……要するに、一人も集まってないってことだな?」
「そうとも言いますね」
「そうとしか言わない」
私は一蹴しようとしたが、ヒロキはあきらめなかった。
「でも、やりたいんですよー。オレ、一応ヴォーカルもできますから、そのドラムの人を紹介してくれれば、あとはベースだけそろえばどうにかなるんです。先輩、ベースやりません? おもしろいですよ」
「そんなにベースがおもしろいんなら、ヒロキがやればいいだろう? ギタリストだったら、ちょっと探せばすぐ見つかる」
「そんなこと言わずに、おねがいしますよー。ベースなんて、メチャクチャ簡単ですから。ね?」
「そんなに簡単なものが、本当におもしろいのか?」
「いや、それは言葉のアヤっていうヤツで……。駄目ですか? ……他にアテがないんですよ」
「バンドねぇ」
私は思案するような素振りを見せた。ヒロキとのこういうやりとりは嫌いではなかった。
「まぁ、もう少しメンバー集めをがんばってみな。夏休みまでにそろわなかったら、私がベースをやるよ」
「やった。約束ですよ? それじゃ、もう少しがんばってきます」
そう言って、ヒロキは慌ただしく教室を飛び出していった。行動力の塊のような男だった。
ヒロキが出ていった扉に目をやりながら、私はバンドをやってみるのも悪くないかと思っていた。
翌日、私は友人のTをヒロキに紹介した。
Tは小学生の頃からブラスバンドでドラムを叩いていたという男で、腕は確かだった。彼もまたプログレッシヴ・ロックを趣味とする男で、ヒロキとはすぐに打ち解けた。
ただ、ヒロキの尽力にも関わらず最後のメンバーは見つからなかった。夏休みに入る前日、約束通りに私はベースを受け持つこととなったのである。そうして、私たち三人のバンドは一応のスタートを切った。
しかし、練習を始めてみると当然のように私は二人の足を引っ張ることとなった。なにしろ、私はそれまで一度たりとも弦楽器の類を手にしたことがなかったのだ。それに引き換え、Tは5年以上、ヒロキも2年ほどの経験がある。技術の差は数ヶ月程度の練習で埋められるものではなかった。そして、このことが最も重大な点なのだが――、私には演奏のセンスというものがカケラもなかったのである。
無人の教室の一つを使っての練習だったが、その一ヶ月間、ヒロキはほとんど私にベースを教えるだけだった。Tはドラム・スティックだけは持って来ていたものの、たまにそれを使って机や床でリズムを刻んでみたりするばかりで、ドラムを持ち込んで練習するつもりはないようだった。Tはヒロキとの会話を楽しむためだけに来ていたのかもしれない。実際、Tとヒロキは――私とヒロキがそうだったように――ごく短期間で非常に親交を深めていた。それこそ、私が羨むぐらいに。
私とT、そしてヒロキの三人は、毎日のように昼前から日が暮れるまで教室に閉じこもっていた。蒸し暑い教室の中で、私たちはギターとベースを掻き鳴らし、パンとジュースで腹を満たして談笑した。この夏のこの一ヶ月間は、私にとって忘れられない日々となった。
9月1日。二学期の始まるその日、私たちはバンドの練習を休んで街へ繰り出すことになっていた。
私がヒロキから借りているベースの弦と、その日取り寄せられるというヒロキがレコード屋に頼んでいたアルバムを入手するのが目的だった。どちらも彼一人で足りる用事だから私とTが付き合う必要はまったくないのだが、このころの私たちはほとんど何をするにも一緒だった。
学校は始業式と諸連絡だけで終わり、正午前には解放された。
昇降口へ行くと、Tとヒロキの姿があった。それぞれ一度自宅へ帰ってから再集合するということで、その場はすぐに別れた。
別れる間際にヒロキが、
「今日は、ちょっと話しておきたいことがあるんですよ」
と、彼にしては珍しく真剣な口調で言った。この場で言え、と私もTも促したのだが、ヒロキは勿体ぶるように――あるいは逡巡するように、苦笑いを浮かべてはぐらかした。
「あとで話しますよ。それじゃ、おさきに」
さっと身を翻して、ヒロキは素早く立ち去った。
残された私とTは、「なんなんだ、アイツ」などと繰り返しながら、帰路の中ほどまでを共にした。「まぁ、ヒロキのことだから大したことじゃあるまい」などと言いながら。ヒロキを引き留めてでも話を聞いておくべきだったと後悔したのは、だからもっと後のことだった。
家に帰ると私服に着替え、三つほど離れた駅まで電車で移動した。電車で移動する間に空が黒い雲に覆われてゆくのが目に見えてわかった。
目的の駅で降り、待ち合わせの目印にしている場所に着くころには、いまにも雨粒が落ちて来そうな空になっていた。約束の時刻には5分早かったが、ヒロキもTもまだ来ていなかった。待ち合わせの場所が屋根のあるところで良かったと思った。私は、どんなに雨が降りそうな天候でも家を出るその瞬間にさえ雨が降っていなければ傘を携帯しないという信念を持っているので、そのときも当然のように傘を手にしてはいなかった。
時刻が14:00になった。
約束の時刻だった。が、Tもヒロキも姿を見せなかった。
――と、それを見計らっていたかのように、パラパラと雨の落ちる音が耳についた。その音と前後して、夕立特有の匂いが鼻孔をついた。嫌いな匂いではなかった。
いったん降りだすと、あっというまだった。数分としないうちに土砂降りになった。突然の雨に、道行く人々の間から無言の悪態が天に向かって発せられた。足を早めてどこかへ向かう人、手近の場所で雨宿りを決め込む人、用意の良いところを見せつけるようにカバンから折り畳み式の傘を取り出す人……。夕立は人々の動きを活性化させた。驟雨に打たれる街と人々を、私は気だるい感覚で眺めていた。
――遠くから救急車のサイレンのような音が聞こえて、気が付くと約束の時刻を15分も過ぎていた。
私は付近を見回して公衆電話を見つけると、Tの自宅にかけた。
だれも出なかった。
続けて、ヒロキの自宅に電話を入れた。出たのはヒロキの母親だった。聞くと、ヒロキは一時間も前に家を出たという。ヒロキの家からこの待ち合わせの場所までは30分もあれば着くはずだった。生返事をして、私は電話を切った。
変だと思いながらも、目印の場所まで戻ってみた。
10分が経ち、20分が経っても、ヒロキもTも現れなかった。
夕立は一向に弱まる気配を見せなかった。夏だというのに、私は冷たい汗をかいていた。
どうすべきかと思った。思ったが、何をどうすることもできなかった。約束をすっぽかされたとは思わなかった。約束の時刻を間違えているはずもなかった。何度も確認したのだ。だが、二人は来ない。なぜ。
雨の音がうるさかった。わけもなくイラついて、どうしようもなかった。
15:00まで待って、私はその場を離れた。雨はやんでなかった。簡単にやむ雨ではないようで、可能なかぎり屋根のある場所を選びながらレコード屋へ向かった。それ以外、することがなかった。
目の前でクラクションが鳴らされて、我に返った。
ずいぶん長い間――といっても5分程度のことだが、夕立を眺めていたようだ。頭痛は治まっていた。MDは”ゴーイン・アウェイ”が終わって二曲目の”シスター・ジェーン”へ移っていた。
イヤホンを外そうとして、すぐに思いとどまった。音量を少しだけ落とし、イヤホンは耳につけたままで目の前の車に近寄る。助手席のドアを開けて、シートに腰を下ろした。
「よ。ひさしぶりだな」
運転席でTが言った。
「ああ。……3年ぶりか」
「そうだな。……どうだ? 最近は。何かあったか?」
「いや、とくに何も」
「あいかわらずってことか。……それ、MDか?」
Tが私の胸ポケットを指差した。
「ああ。このまえ買ったばかりだが、便利だな」
「何を聴いてるんだ?」
「……タイ・フォン」
答えた途端、空気が重くなった。その空気を払いのけて、私は続けた。
「良いアルバムだよ、これは。あれから何回聴いたかわからないた。毎年一回は必ず聴いてる」
「アナログ盤で?」
「そうしたいのは、やまやまだけどな……。CDで再発されたものだから、いまはそっちばかりだ。アナログ盤もほとんど処分したが、あれだけは残してある」
あの日、ヒロキが買うはずだったレコード。それは、私が代わりに買った。Tと私は、盤面が擦り切れるまでそれを聴いた。テープにまでダビングして、ヒマさえあればそれを聴いた。聴きつぶした。
「……そうか」
Tの表情が、見る間に暗くなった。それを振り払おうとするかのように、彼はギアをチェンジしてアクセルを踏み込んだ。
急発進ぎみにシルビアが走りだす。エンジン音と雨の音に包まれて、私たちはしばらくの間、無言だった。
口を開けば、ヒロキの話になるのはわかりきっていた。だが、いまさらヒロキについて何を語れというのか。私の知っているヒロキはTの知っているヒロキと同じはずだし、その逆も同様だ。そんなことを再確認するつもりは、少なくとも私のほうにはなかった。
「……なぁ」
先に口を開いたのはTだった。
「まだ、ベースやってるか?」
「やめたよ。きれいさっぱり」
「そうか。俺も、結局あれからドラム叩く気がしなくなってな。全然やってない。……一度だけでも、あのバンドでライヴやりたかったけどな」
「ヒロキなしで、か?」
「……あまり面白くないな」
「ああ」
それだけ話して、また会話が途切れた。こういうときヒロキがいれば、「なに暗くなってるんですか、先輩」とでも言うだろう。ギターが手元にあれば、「じゃあオレが明るいヤツでも一曲」などとハード・ロックの一つも弾き始めるに違いない。
そんな想像をして、私は少しだけおかしくなった。想像の中で、ヒロキは十年ほども昔の姿のままなのだ。しかも、その姿は自分でも信じられないほど鮮明に脳裡に焼き付いている。25年間の人生のうちのたった4ヶ月間だけの記憶が、こうも強く残っているものだろうか。――いや、4ヶ月間だけだったからこそ、より強く記憶されたのだろうか。
だが、あまりにも短すぎたと思う。せめて――、せめて、これだけでも聴かせてやりたかったと思う。
”フィールズ・オブ・ゴールド”
MDは五曲目になっていた。美しい。……本当に美しい曲だった。ヒロキがこの曲を聴いたなら、どういう感想を述べただろうか。考えると、涙が出そうになる。
「……もったいないよな」
私は言った。
「たしかにな」
説明しなくとも、何が「もったいない」のか、Tにはわかっているようだった。
「本当にもったいない……」
私はもういちど呟いて目を閉じた。そうしないと、涙がこぼれそうだったのだ。
Tも私も、後はもう口をきかなかった。Tは黙ってハンドルを握り、私はイヤホンから流れ出す音に耳をゆだねていた。
MDが最後の曲を奏で終わるころ、私たちは目的地に着いた。
東京と埼玉の境に位置する霊園。
シルビアを降り、私たちはかつて一度だけ訪れたことのある墓を探した。すでに雨は上がっており、東の空に薄く虹が架かっているのが見えた。
古い記憶のままに、探す墓はそこにあった。
平成二年九月一日──。ヒロキの命日が、くっきり刻まれている。
その日、ヒロキはバイクに撥ねられて死んだ。
その原因の何パーセントかは、確実に私が負っている。Tと同様に。そのことを、私は既視感がやってくるたびに思い出すのだ。この墓参で、既視感も少しはやわらぐだろうか……。
手を合わせ、私はMDプレイヤーからディスクを取り出した。かすかに熱を帯びているそのディスクを、墓前に供えた。
遅くなった、と思う。だが、棺にアナログ盤を入れることはできなかった。ヒロキの両親に反対されたのだ。葬儀のとき、私とTは歓迎されざる客だった。――かといって、墓前に供えるにはアナログ盤は大きすぎた。
無論、こんなことをしたからといって、なにがどうなるわけでもないとは思う。ただ――、願わくば、ヒロキがこのアルバムを聴いてくれることを。そして、もし死後の世界というものがあるのならば、いつかヒロキとTと私とで一つの曲を演奏できることを。
そのためにベースを練習しておくのも、悪くはない。
帰りに楽器店を覗いてみようか――。
そんなことを、考えていた。