2日目−75
サイオンが時計台の前に姿をあらわしたのは、夜の始まろうとする時刻。午後七時ちかくのことだった。
すでに太陽は西の地平線に沈み、東の空には丸い月が浮かんでいる。完全な円を描く月は、血を塗りこめたように鮮やかな緋色。その月明かりが彼女の姿をくっきりと照らし上げながら、黒い影を大地に投げかけている。
時計台の周囲に、彼女以外の人影はなかった。人の姿はおろか、動くものの一つとてない。夜の地上を照らすのは、時計台をライトアップするために据えつけられたフラッドライト四基。くわえて、歩道沿いにぽつぽつと立ちならぶ水銀灯。いずれの光も月光に浸食されて赤みを帯び、地上のすべてを血のようなグラデーションで染めている。
しずかな夜だった。風はなく、気温はおだやかで、そこかしこに広がる芝生や植え込みも葉擦れの音さえ立てはしない。あるのは、一分ごとに刻まれる時計台の針の音。そして、サイオンのブーツの底がアスファルトを踏む音ばかり。
時計台の真正面に立つと、彼女はそこで足を止めた。長い髪を首になでつけるようにしながら、物憂げな様子で時計台を見上げる。六時五十七分。
集合時刻まで、あと三分だった。情報交換のため狼側全員でここに集まろうという約束になっている。彼女の一方的な提案ではあったが、反対する者はいなかった。ことに、氷雨に対しては確約をとりつけたと言っても良いぐらいだった。無論、彼は約束を守るはずだった。生きているかぎりは。
時計台の針がガチッという音を鳴らして、七時をさした。
約束の時刻だったが、サイオン以外だれひとり姿を見せはしなかった。
まぁいつものことですがね──と、彼女は昨夜アルタ前で漏らしたのと同じ言葉をつぶやいた。牛村の参加者たちが時間を守らないことなど、彼女にとっては最初から織り込み済みなのだ。そのことについて、特になんとも思うことはなかった。
しかし、彼女の予測に反していつもと少し違うことがあった。十分たっても二十分たっても、彼女の仲間であるはずのプレイヤーは一人もやってこなかったのである。
時刻が七時半ちかくなると、さすがのサイオンも表情を曇らせた。
考えられることは、いくつもあった。単に約束を忘れているという愚劣きわまる理由から、仲間全員が死んだという最悪の事態まで。
彼女は、あまり楽観的な性格ではなかった。つねに最悪の事態を念頭におきながらことを運ぶのが、彼女の流儀である。仮にどれほど最善の想像をしたとしても、氷雨が倒れたことはほぼ確実と思われた。
つまり私ひとりで村人全員を片付けなければならない、ということですか──。
胸の中でそう呟いて、サイオンは微かに白い息を吐いた。それが容易なことでないのは誰よりもわかっていたが、あながち不可能でもないという事実もまた彼女は知っていた。
赤い月光の下。真っ黒な長針が金属光を照りかえしつつ七時半を告げると、彼女は溜め息さえ残さず時計台をあとにした。地面に触れるほど長いその黒髪を撫でるようにして、大地の底から真っ白な霧がたちこめようとしていた。
2日目−76
夜になると、校舎の中は薄闇につつまれた。窓から差しこむ月明かりのおかげで歩くには支障なかったが、昼と比べれば視界はせまい。あちこちに設置されている蛍光灯のスイッチを入れてしまえば十分な明るさを保つことはできたが、それが自分たちの居場所を宣伝しながら歩くようなものだということに気付かないほど、彼らは愚かではなかった。
もちろん、気付いたのはナビアひとりであり、キキとミギは彼女の提言に従ったにすぎなかった。「三人寄れば文殊の知恵」ということわざがいかに無意味なものであるか、ナビアは身をもって理解していた。
「それにしても、図書室みつけるだけでこんなに時間がかかるなんて……」
どこかやつれたような顔で、ナビアは言った。実際、かなり疲れているのだった。なにしろ一時間ものあいだ歩きどおしである。それも、校舎の中をひたすらグルグルと。
「すんません」
なぜか頭をさげるミギ。道に迷ったのは彼だけのせいではなかったが、すくなくとも三分の一は彼のせいでもあった。
「そういえば最初に曲がるところ間違えたのはミギ君やったね」
かるい口調でキキが言った。彼女とて何度も道を間違えたのだが、そんなことはもちろん棚の上である。棚の上どころか、衛星軌道の上ぐらいの忘れぶりなのであった。
「すんませんッした」
反論するでもなく、ひたすら謝りたおすミギ。それが彼の処世訓だった。比較的かしこい生きかたである。
「まぁ、あたしも二階と三階まちがえて階段おりるところをのぼっちゃったりしたし……」
フォローするようにナビアが口をはさんだ。方向音痴のレベルでいえば、彼女が圧倒的に上であった。平面上でさえものすごい勢いで道をまちがえるナビアである。高さの概念が追加されれば更にまちがえるのは無理からぬことであった。──もっとも、ふつうの人間は自分のいるフロアをまちがえたりしないものだが。
「しかし、そんな数々の冒険を乗りこえて今ぼくたちは図書室にたどりつこうとしているわけですよ」
まるでアマゾンの秘境でも踏破してきたかのように言うミギ。
「そうだね。さすがにここまで来たら、もう間違えないよね」
まちがえようもなかった。目の前の十字路の先に、図書室のドアが見えているのだ。彼らの一時間に及ぶ冒険は、いまようやく報われようとしていた。
「これでやっと英和辞典が手に入るんやね。そしたらサイオンさんのスキルも、」
言いかけたキキの言葉が、凍りついたように止まった。
十字に分かれた廊下の左からやってきた人影と、ばったり出くわしたのである。
「……おや。こんばんは。キキさまにナビアさま。それにミギさまも」
そっと拳銃を抜き出しながら、サイオンはいつもどおりの無表情で夜のあいさつを告げた。
2日目−77
「こ、こんばんは。サイオンさま」
おもわず標準語の発音になってあいさつするキキ。さりげなく一歩さがって、ミギを盾にすることは忘れなかった。やっぱり男の子は女の子を守らないとね! そういう自己完結した理屈をつけながら。
占ったわけではないが、彼女はサイオンをほぼ狼と見ていた。百パーセント勘のみだが、今回の場合その勘は的中していた。そしてサイオンの手に拳銃があるのをたしかめると、キキはもはや逃げること以外かんがえようとしなかった。
「サイオンさんは一人? いままでどうしてたの?」
一方、ごく自然に話しかけたのはナビアである。彼女もすでにサイオンを狼と見なしていた。それこそ、占う必要もないぐらいに。
しかしオンラインのゲームと違って説得や投票で処刑できるわけではない。三対一でもまったく優勢とは思えない状況だった。こちらにも銃があるとはいえ、持ち主はミギなのである。こころもとないこと、この上なかった。
「私は、あれから色々と学内を見てまわっておりましたけれども……」
さらりと受け流しながら、サイオンはキキの様子を見てひとつのことを悟った。自分が人狼であると見抜かれているのを。
無論、表情には出さなかった。相手の武器やスキルがわからない状態で戦いを挑むほど、彼女はアグレッシブではない。最低でも自分自身のスキルぐらいは知っておかなければ。そう思っていた。
「ところで、皆さまはこれからどちらに?」
あたりさわりのない質問をしつつ、サイオンは自然な感じでうしろにさがった。いざというとき銃を使うには、もうすこし離れておいたほうが良さそうだと判断したのである。
「ああ、あたしたち食堂行こうかと思って。そろそろ夕食の時間でしょ?」
ナビアはとっさに嘘をついた。こんな場所で出くわした以上、サイオンが図書室へ行こうとしていた確率は高い。最悪、図書室を狼側に占拠されている可能性もある。うかつには入れない。そこまで考えて、瞬間的にウソをついたのであった。
しかし、その考えは一瞬でぶちこわしにされた。
「え!? 図書室行くんじゃなかったっスか? 英和辞典さがすんですよね?」
さすがのナビアも、この瞬間ばかりはミギを見捨てなかったことを後悔した。
「英和辞典ですか。なにをおしらべに?」
サイオンは、彼女には珍しいぐらいのやさしげな表情でミギに問いかけた。その目は、ボールをくわえてきた飼い犬を見るようでもあった。ナビアの嘘については何も触れなかった。いったい何のために嘘をついたのか。その意図を察することができないほど、彼女は鈍くなかった。
「ちょっとわからない単語があって」
「ミギくん、ミギくん! 図書室はあとにするって言ったでしょ? ね? さきに食堂行ってゴハン食べようね?」
幼稚園児に語りかけるようにして、ナビアはどうにかミギの口を閉じさせようとした。
徒労であった。
「え。でもせっかく図書室の前にいるんですよ!? とりあえず英和辞典さがしてからでも」
「いやほら。サイオンさんが図書室つかうみたいだから。あたしたちが一緒に行ったらうるさいでしょ?」
ミギにつられて不自然な発言をするナビア。
「私は一向に構いませんけれども。英和辞典をおさがしでしたら、お手伝いしましょうか?」
「いいよいいよ。サイオンさん忙しいでしょ? あたしたちはこれからゴハンするし」
「図書室で食事をなさっても問題ないと思いますけれど」
「おちつかないじゃん。食事はちゃんとした場所でゆっくり食べたいでしょ?」
「それもそうですね」
「うん。そういうわけで、あたしたち行くから」
「はい。それは良いのですけれど……」
あごに指をあてながら、サイオンはゆっくりと言った。
「さきほど、キキさまが私のスキルについて話しておられましたよね。さしつかえなければ、お話の内容を教えてほしいのですが」
ナビアは、ミギだけでなくキキを見捨てなかったことも後悔した。
2日目−78
「え? サイオンさんのスキル? そんなん、えーと。話した覚えないんけど」
あきらかに動揺した様子で、キキはとぼけてみせた。
たとえ聖母マリア様といえど、彼女の表情を見れば「このウソツキ」と言ったにちがいない。しかも聖母様どころか、キキの目の前にいるのは閻魔様のごとき存在なのであった。幼稚なウソなど通用するはずもなかった。
「あの……。とぼけなくても良いと思うのですけれど……」
何気ない動作で、サイオンは三人の前に拳銃を誇示してみせた。
「とぼけてないやん。言いがかりやって。キキは正直者じゃけん、ほんとうのことしか言えんとよ」
関西弁と広島弁と博多弁のミックス言語で、しどろもどろに答えるキキ。
それを見て頭をかかえそうになるナビア。
危機感ゼロでそのやりとりを眺めているミギ。
「そうですか……。しかし私は確かにこの耳で聞いたのですけれど。キキさまが私の名前を出してスキルうんぬんとお話しされているのを。それは私の聞きちがいだったとおっしゃるのでしょうか」
「うん。サイオンさんの聞き間違いやんね、それ」
「そう言い張られてしまいますと、少々こまりますね……」
サイオンの視線が、ちらと手元に流れた。ベレッタのセーフティスイッチを確かめたのだ。
ナビアは、もはやごまかすことをあきらめつつあった。三人がかりなら何とか拳銃を奪い取れるのではないか。そう考えはじめていた。相手が銃を持っているとはいえ、しょせん女ひとりである。こっちには男がいる。それに銃もあるし──。考えれば考えるほど、どうしてこんなに不利な気分になっているのかと理不尽な思いにとらわれるナビアであった。
ミギは一応グロックを抜いて手に持ってはいる。しかし、それをたよりにできるほど、ナビアは楽天的でもなければ自殺願望もなかった。それに、キキは占い師だ。人狼を全滅させるためにも、彼女を失うわけにはいかない。
いざとなったらあたしが最初に飛びかかるしかないな──とナビアは覚悟を決めていた。しかし、キキとミギが援護してくれるかどうかと考えると、その勝算は限りなくゼロに近いように思われるのであった。
「まぁ、わかりました」
不意に、なにかを悟ったようにサイオンが譲歩した。
「きっと、キキさまにも何か考えがおありのことでしょう。単に私を信用できないということもあるかもしれませんし」
「ごめんね、サイオンさん。信用してないわけじゃないんよ」
「でしたら、お話ししてほしいところではありますけれども。……いえ、結構です。わかりました。このお話は、またの機会があればということにしましょう」
「うん。そしたらキキたちは食堂行くけん、ここでお別れやんね。さよなら、サイオンさん」
どうにか生きて切り抜けられそうだと思ったとたん、声音が高くなるキキ。
一瞬サイオンの目が氷のように冷ややかになったが、何も言わずに彼女は拳銃をコートの内側にしまいこんだ。もちろんグリップは握ったままで、トリガーから指を離すこともなかった。
「では、私は図書室に用がありますので。失礼します」
そう言って背を向けようとしたサイオンに、ミギが声をかけた。
「あ、そうだ。サイオンさんはイモータルっていう言葉の意味知ってますか?」
「……はい?」
怪訝そうな顔でサイオンはミギの顔を見つめたが、その表情はすぐに消えた。消える寸前、かすかな笑みのようなものが浮かんだのを、ナビアは見逃さなかった。
「イモータルですか? あいにく、聞いたことのない言葉ですけれども」
嘘だった。が、ナビア以外の二人をだますには十分な演技力でもあった。語学に堪能なサイオンが、その単語の意味を知らないはずもなかった。