狼の夜 Night before
彼は、夢を見ていた。
黒い獣に喰われる夢だ。波のように揺れるおぼろな苦痛の中、狼に似た猛獣の鋭い爪が腹を引き裂き、巨大な牙を持った顎が内臓の一つ一つを咀嚼する夢。血と肉に彩られた、どこまでも続く悪夢。
彼の視界には、一面の赤が広がっている。イチゴとミルクを混ぜたような色に泡立った肺。巨大なルビーの原石のように輝く肝臓。真っ赤な血溜まりの中から折れて突き出た、場違いなほどに白々とした象牙のような肋骨──。その全てが、彼にとって見慣れたものだった。そして、それらが一つずつ獣の顎に噛み取られ、飲み込まれてゆくさまも。
不思議なほどに、痛みは小さい。ただ、自らの肉体が消えてゆく虚無感と、自分自身が血肉を食っているような嘔吐感に苛まれる。この夢のせいで、彼は肉料理が食べられない。ふだんは菜食主義で通している。かかりつけの医師以外に、夢の話をしたことはなかった。
獣は、全身が黒い獣毛で覆われている。闇に溶け込むようなその色は、しかし夢の中ではいつでも血にまみれてエナメルに似た光沢を放っている。細い鉄線のようなその束が、剥き出しになった内臓に触れるたび、彼は痛覚ではなく一種の恍惚感にも近い掻痒感を覚えるのだった。
あらゆる感覚が鈍磨した夢の中、彼の身体を貪りつづける獣の存在だけが彼の感覚を刺激し、圧迫しつづける。血まみれの肉を噛み締める、ぐちゃぐちゃした音。牙の先端が背骨をこする、ごりごりした感覚。皮膚に熱く吹きかけられる、獰猛な獣の息遣い──。全てが、夢とは思えないほど現実感に満ちている。それでいながら、彼にはこれが夢であるという自覚があるのだ。
何度も見た夢だった。物心ついたころには、既にこの獣が夢の中に住んでいた。子供のころには夢を見るたび泣き叫びながら目を覚ました彼も、成人した現在となってはもはや長年付き合った持病と接するほどに慣れてしまっていた。さながら、獣が自らの一部であるかのように。
獣は、いつでもテーブルマナーを尊重する紳士のような丁寧さで彼を食べる。肉片の一つとして散らかさぬよう、牙と爪で静かに肉をちぎり、何度も噛み潰して飲み込む。こぼれた血は舌で舐めとり、彼の身体の一部たりと無駄にしない。毛髪一本、爪一枚にいたるまで、残さず喰い尽くすのが習いだった。それは、あたかも彼の存在を痕跡さえ残さず消してしまうことが目的であるかのような、執拗とも言える喰い方だった。
彼にとって恐ろしい点は、もう一つあった。それは、獣が外側からでなく内側から彼を喰っているという事実だった。そう、その獣は彼の内部から皮膚を裂き破り、そこから顎を突き出して彼の肉を腹に収めているのだ。自分で自分を喰っているかのような感覚は、これに起因していた。
この異常な夢について、彼は医師に相談したことがある。しかし、返ってきた答えは彼の満足するものではなかった。そこで、彼は自分自身でこの夢について調べ始めたのだった。すぐに判明したのが、月齢との相関だった。月の形が大きいときほど彼はこの夢を見る傾向にあり、満月の夜には例外なく獣が満腹する最後の瞬間まで夢の中に閉じ込められるのだ。
彼は、手に入るかぎりの書物を読み漁り、近隣の街の知識人に話を聞いて、一つの結論に達した。すなわち、彼が人狼の血を引いているという事実に。その日、彼は自らの将来を案じて泣いた。泣きながらも、彼は血統ある血の誇りを捨てざるべきことを選んだのだった。三年前のことだった。以来、彼はこの悪夢を受け入れるしかないことを悟っていた。
獣は、ゆうゆうと彼の左腕を喰い始めた。指先からではなかった。肩口を骨ごと噛み砕く硬い音がしたかと思うと、彼の左腕は根元から噛みちぎられて、噴き出した血が赤黒いタールのように床を染めていった。その色よりもなお赤い獣の舌が、音をたてて床を舐め這いずった。
夢の中だけでしか知り得ない他人のもののような鈍痛を感じながら、彼は果たしてこの獣が他人の肉や血の味を知ることがあるのだろうかと思っていた。その想像は彼を恐怖させ、そして歓喜させた。