狼の夜 1st day (1)
二月。真冬のアズラス地方は、深い雪に覆われていた。三日続いた吹雪は今朝になって落ち着いたもののまたいつ荒れ始めるかわからず、ニコラスは苦い表情を浮かべながら雪原を歩いていた。
濃緑色のコートとフード、背負っている巨大なザックは二十キロ以上もある。右肩に担いだ猟銃は、熊撃ち用の連装式散弾銃だ。煙のように白い息を吐きながら、ニコラスは雪を掻き分けてゆく。緩い斜面を描く一面の雪野原を、彼は迷いなくまっすぐに進んでいった。
ニコラスは旅を目的に生きる男だった。あまりに多くの村や町を旅したせいで、生まれ育った村の名前さえ忘れたほどであった。歳は三十五。背は高い。旅人ゆえの粗食で体格は良くないが、その鋭い眼光は彼の精強な肉体と意志を如実に表すものだった。
時刻は正午に近かった。太陽は分厚い雲に隠されて微かな光を放つばかり。仄暗い雪原の上に、ニコラス以外動くものは存在しなかった。ときおり冷たい風が降り積もった雪片を舞い上がらせるのみで、ニコラスの視界に映るのは雪と風ばかりだった。
緩斜面の向こうには、長く連なる山稜が聳えていた。真北の主峰を中心とした山並みはぐるりと東を回って、ニコラスの背後──南東の方角にまで伸びている。彼は、南の山麓に位置する村からここまで歩いてきたのだ。距離にして百キロ以上。それを五日で踏破した。雪深い真冬の原野を、である。生半にできるものではなかった。
ニコラスは焦っていた。何としても、今日の太陽が沈むまでに目的の村にたどりつかなければならなかった。名前もない、小さな集落だ。十数人の村人が暮らしている。そういう情報を、百キロ彼方の村で手に入れていた。
ガシャリ、と猟銃が重い金属音を立てた。ニコラスは足を止めていた。雪のスロープの向こうに、目的の村を見つけたのだ。村は、北の山麓の足元にうずくまるようにしてその姿を現していた。三方を山々に囲まれた、盆地の集落だった。戸数は二十程度。その家屋のいくつかから炊事の煙が立っているのを見て、ニコラスは小さく息をついた。白い息に隠れて安堵の表情を浮かべると、彼は足を早めた。
村の家並みは西から東へと並んで、往来もまたそれを貫くようにできていた。町からの行商人や旅人は、例外なく西の街道からやってくる。南から現れたニコラスは、それだけで村人たちの警戒心を煽った。
最初に彼を見つけたのは、雪の中で遊んでいた二人の子供だった。名はペーターとリーザ。二人ともまだ十歳で、戦争孤児だった。長く続く植民地戦争でこの辺境の村にも徴集がかかり、二人とも両親を失ったのだ。この国のどこにでも見られる子供たちだった。
二人はニコラスの姿を見つけるなり、ぴたりと動きを止めた。雪にまみれた彼の姿もさることながら、肩に担がれた猟銃が圧倒的な威圧感を有していたのだ。そのことに気付いて、ニコラスは銃身を後ろに向けると小さく笑顔を作ってみせた。
「おじさん、どこから来たの?」
リーザをかばうように、ペーターが前へ出た。子供らしくまっすぐに切りそろえられた茶色の髪が、風に吹かれて乱れた。ドングリのように丸い目は、まっすぐにニコラスを見つめていた。
「南の村からだよ」
「ウソだ。南に村なんてない。あるのは西の町だけだよ」
ニコラスが答えるや否や、ペーターは否定した。
「いや、あるんだ。ずっと遠くだけどね」
「へぇー。おじさんは狩人なの?」
ペーターは興味津々といった様子でニコラスの猟銃を指差した。
「あぁ、そうだ。腕は悪くないぜ?」
ニコラスが笑顔で銃床を叩いてみせると、ペーターは警戒心を解いたようだった。代わりに、好奇心が外に出てきた。
「カッコイイね、それ。ちょっと見せてよ。ねぇ」
「駄目だ。子供のさわるものじゃない」
「ケチだなぁ。ディーター兄さんはさわらせてくれるのに」
「それは坊やのお兄さんかい?」
「坊やって言うな。名前で呼べ」
「はは。それは悪かった。俺はニコラス。キミの名前は?」
「ペーター。こっちの子はリーザ」
紹介されても、リーザはペーターの後ろから出てこなかった。ただ、小さく頭を下げただけだった。大雑把に束ねられたライトブラウンの髪が揺れた。
「ディーター兄さんは僕の兄弟じゃないよ。年だって全然ちがうもん。……いま、三十歳ぐらいだっけ?」
ペーターの問いかけに、リーザは二度うなずいた。
「そのディーター兄さんが持ってる銃は、こんなヤツかい?」
「そういうのも持ってるし、もっと小さくって片手で撃てるぐらいのヤツもあるよ。ディーター兄さんは、もと兵隊さんなんだ。すごく偉い人だったんだぞ」
「そうか。俺も軍隊にいたことがあるから、もしかすると知っているかもしれないな」
「へえー。おじさんも兵隊さんだったんだ。カッコイイなぁ」
「別に、格好よくはないさ。ただ、国民の義務に従っただけだ。ペーター。キミだっていずれ軍に入れられることになる」
「わかってるよ。だから、毎日剣術と馬術の練習はしてるもん。この前だって、西の町で開かれた剣闘大会少年の部で優勝したんだぞ」
ペーターは、これでもかとばかりに胸を張って自慢した。
ニコラスは苦笑し、ペーターの頭に手を置いた。
「それは凄いな。……だが、武術ばかりでなく学術も修めておいたほうがいい。将来のためにもな」
「大人はみんなそう言うんだ。聞き飽きちゃったよ、もう」
うんざりだとばかりに、ペーターが雪を蹴り上げた。
「……それで、おじさんはこの村に泊まっていくの?」
「おじさんと呼ぶのは、やめてくれ。まだそんな歳じゃない。ニコ、とでも呼んでくれるか?」
「わかったよ。ニコだね。それでどうなの? 泊まってくの?」
「あぁ、しばらく厄介になるつもりだ」
「そんなら、宿屋まで案内してあげるよ。ついてきて」
言うが早いか、ペーターは体を翻して走りだした。雪国の子供らしく、積もった雪をまったく意に介さない足取りだった。後を追って走るリーザもまた同様だった。旅の疲れもあって、ニコラスは二人に離されないようついていくのが精一杯だった。
村を東西に抜ける通りは、ざっと雪掻きされていた。露出した粘土質の路面が溶けた雪と混じり合って。あちこちにココア色の水溜まりができている。ペーターとリーザは泥の飛沫を撥ね上げながら、おかまいなしにその上を走っていった。ニコラスは、それを避けて後を追った。
静かな村だった。人の姿がどこにもない。ところどころ雪面に足跡が残されているのが、どこか作り物めいて見えた。物音さえ聞こえてこない。死んだように静まり返った雪景色の中を元気よく走るペーターとリーザの姿は、ニコラスの目に幻のようにも見えた。
三人は、鄙びた宿の前で足を止めた。時代を感じさせる、木造二階建ての家屋。テニスコートほどの前庭を囲んだ鉄柵はニコラスの背丈より遥かに低く、侵入者を抑止する効果はなかった。この村の大半の家屋が、そうした作りだった。
「りっぱな宿だろ。夏は観光客もたくさん来るんだ」
得意げに言って、ペーターは宿の扉を開けた。
木製のドアが重い軋みをたてた。と同時に、ドアの向こうから温かい空気に混じって様々な匂いが流れてきた。焦げた木炭の匂い、甘い香水の匂い、饐えたアルコールのにおい、煙草の匂い──。全てが、人の生活の匂いだった。それは、ニコラスにとって長らく離れていたものたちであった。
少年ペーターは、しかしそんなニコラスを感慨に浸らせることさえ許さず、ドタドタと音をたてて宿に駆け込むと「おばさーん」と大声で呼びかけた。返事は、すぐには返ってこなかった。ニコラスはフードを上げると全身に貼り付いた雪を払い落とし、静かに宿の玄関をくぐった。
宿の内装を見て、ニコラスは思わず感嘆の声を漏らした。ドアを開けて右側にカウンター。左側に十ほどのテーブル席が整然と列を成している。カウンターには手すり代わりに真鍮製のパイプが取り付けられているだけで、イスはない。カウンターの奥には無数の酒瓶が並べられたバックバーとロッカー。清掃の行き届いた店内は、宿としてはともかくバーとしては申し分ない店構えだった。
「レジーナおばさーん。お客さんだよー」
ペーターが再び大声を張り上げた。
「あいよ。いま行く」
カウンターの奥からハスキーな声が返ってきたかと見えるや、すぐに声の主が姿を見せた。派手なピンクのドレスに、カールさせたブロンドの髪。彫りの深い顔立ちは若いころの美貌を想像させるものだったが、彼女の上にのしかかった年齢と体重とが全てを打ち壊していた。
「こんな季節にお客さんとは、珍しいこともあったもんだね。見たとこ、猟にでも来たのかい? 観光客って感じじゃあないやね」
無遠慮にニコラスの頭から爪先まで観察すると、レジーナはそう言った。
「まぁ、そんなところだ。だが、熊や鹿を狩りに来たわけじゃない」
「そんな立派な得物で、ウサギでも狩ろうってのかい?」
「違う」
短く否定して、ニコラスはレジーナの目を見ながら言った。
「人狼だ」