千葉駅0:30


 深夜の千葉駅であった。
 改札口を出てすぐのバスターミナル。
 その一角を通り過ぎようとしたとき、
「おい、待てよ!」
 背後から男の声が聞こえた。怒鳴りつけるようなその声に、私は反射的に振り向いていた。私だけではない。周囲の人々は、皆そろって声の方向へ首を向けていた。
 声の主は若い男だった。二十代前半と思われる男が、同じぐらいの歳格好をした女性の腕をつかんでいる。やたら化粧の濃い、派手な感じの女だった。
「ちょっと、放してよ!」
 女が高い声を上げた。
 非常にわかりやすい光景だった。どう見ても、これは痴話喧嘩だ。少なくとも、プロポーズの現場ではない。
「待てってんだよ! ちゃんと話聞けよ!」
 男が怒鳴った。どうやら、彼は自分たちの痴話喧嘩を1キロ四方に宣伝したいようだった。
「さっき聞いたでしょ! もういいよ、そんな話」
 女は男の手を振りほどこうとしたが、そう簡単なことではないようだった。男は彼女の腕とバッグをつかんでいるのだ。バッグをあきらめないかぎり、彼女が解放されることはあるまい。
 唐突に始まったこの三文芝居に、しかし周囲の反応は冷たかった。
「なんだ、痴話喧嘩かよ」
 そんな風な態度で、すぐさまそれぞれの帰途につこうとする。
 どうやら、男の宣伝はあまり効果がなかったようだ。宣伝文句にイマイチ人を引き付ける力がなかったのだろう。やはり、「殺すぞ」とか「犯すぞ」とかいった迫力のある宣伝文句でなければダメだ。「今なら先着10名様にガラスの小鉢プレゼント」などの、実利に訴えた宣伝も効果的と言えよう。なぜガラスの小鉢なのか、よくわからないが。
 とにかく周囲の人々は、男の口にしたキャッチコピー程度では足を止めなかった。 いや、おそらく彼らも心の中ではこの三文芝居の成り行きに興味はあるのだろう。が、そんなことよりも早く家に帰って眠りたい、というところが本音ではなかろうか。深夜0:30という時刻を考えると、まともな勤め人にとっては少々キツい時間だ。
 だが、中にはこの時刻を苦にもしていない種類の人種もいる。その一人が私であった。
「このドラマは私のために用意されたものに違いない」
 そう信じて、私は彼らに付き合うことにした。どうせすぐに終わるだろうと思ったのだ。……そう、男の敗北という形で。どう見ても、この戦いは女の方に分があるようだった。
 どうも、男、女、といった表記はわかりにくいので、とりあえず男をポール、女をジェーンと呼ぶことにしよう。センスがない、類型的である、といった異議は却下する。
 ポールは相変わらずの大声で、
「だから、オマエの勘違いだって言ってんだろ? 何回説明したと思ってんだよ!」
 と、ジェーンの腕を離さない。
 ジェーンもジェーンで、
「そんな話、信じるワケないでしょ! 人のことバカにしてんの?」
 と、徹底抗戦の構えだ。
「じゃあ、どうすればいいんだよ。どう言えば、オレのこと信じてくれんだ?」
「どうやったって信じないっての! もういいから、早く放してよ」
「よくねぇよ! 絶対、オマエ勘違いしてるって!」
「勘違いでも何でもいいよ。もうアンタの話なんて聞きたくもないっつの」
 ふむふむ。どうやら、ポールがジェーンを裏切るようなことをしたんだな。裏切るようなことというのは、無粋な言い方をすれば、他の女と一発やったということだ。
 ポールは、その事実を否認しているらしい。いわば、被告兼弁護人だ。対するジェーンは、原告兼検事か。……いや、裁判長も兼ねている。やはりジェーン有利だ。
 被告兼弁護人であるところのポールは陳述した。
「要するに、オレの話じゃ信じられねぇって言うんだろ? だから、さっきからタカミヤに聞けって言ってんじゃねぇかよ!」
 むむ。弁護人はタカミヤなる証言人を用意していたようだ。果たして、タカミヤ氏の証言はポールの不利をひっくりかえすことができるのか。
「だったら、そのタカミヤって人、ここにつれてきなよ。何回電話したって、出ないとかつながらないとかさぁ。どうせウソなんでしょ」
 取り付く島もないとは、このことか。ジェーン検事は、どうやら弁護側に証人喚問の機会すら与えるつもりはないらしい。
「ウソじゃねぇって! オマエそんなにオレのこと信じられねぇのか?」
「ああもう、うるさいって! アンタのウソになんか付き合ってらんないよ」
「タカミヤに聞けば全部わかるって言ってるだろ! アイツと連絡取れるまで待てよ!」
「どうせそのタカミヤって人にも話とおしてあるんでしょ。協力してくれってさ」
「オマエ、そこまで言うか? いいかげんにしろよ」
「そっちこそ、いいかげんにしてくんない? もう、帰って寝るんだからさ」
「もう少しだけ待てって! タカミヤ、自分の家にケータイ忘れてんだよ。アイツもそろそろ家に帰るハズだからさ。そうすりゃ連絡つくから」
 さすがにポールも疲れてきたのか、声のトーンが落ちている。頑張れ、ポール。
 ジェーンの腕をつかみながら、ポールは携帯電話を出した。そして、器用に片手でダイヤルする。これまでの話の内容からして、タカミヤなる人物の元にかけているのだろう。これで近所のラーメン屋にでもかけているとしたら、かなりの強者だ。
 ジェーンは、どうやらポールに最後のチャンスを与えたらしい。彼がダイヤルし、携帯電話を耳に当てている間、無言でポールの様子を見守っていた。……いや、睨み付けていた、と言うべきか。
 そして、ポールを見守っているのはジェーンだけではなかった。私を含め、何人かの人間が彼らを遠巻きに見物していたのである。さしずめ、彼らは陪審員といったところか。彼らの多くは会社帰りのサラリーマンであった。ある者は壁にもたれかかり、ある者は煙草をくわえて、さりげなく、しかしじっくりと二人を見守っている。
 私はというと、特にポジションを取らずにバスターミナルをゆっくりと歩いていたのだが、このまま歩いてゆくと、二人の結末を拝むことはできそうになかった。かといって、この場で立ち止まるのも気が引ける。あまりに露骨だ。こういうときタバコを吸っていると便利だなぁと思ったが、嫌煙家の私はカモフラージュ用のタバコさえ持ってはいない。仕方なく、私は手近にある自動販売機を利用することにした。特に喉が渇いていたわけではないが、他に名案が浮かばないので仕方ない。私は110円の見物料を支払って缶コーヒーを手に入れた。
 それを一口飲み、私は努めてさりげなく、ポールとジェーンの会話が聞こえる辺りまで引き返した。
 ポールは、まだ携帯電話を耳に押し付けていた。ダイヤルしてから1分以上は経っている。ジェーンのイラ立ちが手に取るようにわかった。ジェーンだけでなく、陪審員さえもがイラついていた。「もう諦めろよ」という空気が、観客たちの間に広がっている。「おまえはもう終わりだよ」という雰囲気さえあった。
 それから更に1分ほどが過ぎただろうか。
 ジェーンのイラ立ちが頂点に達したと見えたころ、不意にポールが大声を上げた。
「オマエ、どこ行ってたんだよ!」
 と。
 私は、危うくコーヒーを気管の方に流し込むところだった。まさか、ここでタカミヤ氏との連絡が取れるとは思っていなかったのだ。これは新展開だ。
「……え? なに? やっぱりケータイ忘れてったのか。このバカ! オマエのせいで、こっちはすげぇ苦労したんだぜ」
 なるほどなるほど。ポールの読みは当たっていたわけだ。
「……まぁ、もういいよ。で、ちょっと聞いてほしいんだけどよ。今、ここにオレのオンナがいるんだよ」
 言いながら、ポールは不敵な笑みと共にジェーンに視線を向けた。勝ち誇ったような表情だった。
 その表情に、私はポールの無罪を確信した。これは冤罪事件だったのだ。そう思った。
 不信そうな表情のジェーンを見つめながら、ポールは余裕を取りもどした口調で通話相手に向かって言った。
「そう。前に一度、会ったことあるだろ? アイツだよ。……で、この前の日曜日のこと、オレの代わりに説明してやってくれねぇか? なんか知らねぇけど、オレが疑われててよ」
 むぅ。この前の日曜日とやらに、いったい何があったのか。観客(陪審員)全員の署名を集めて、その辺りのことをポールに問いただしたかった。
「……ああ。じゃあ頼む。ちゃんと説明してくれよ?」
 そう言って、ポールは携帯電話をジェーンに手渡した。その時になって、ようやくポールはジェーンの腕を離した。
 つかまれていた腕を軽く振りながら、ジェーンは電話に耳を当てた。
「もしもし。……うん。……で、……そう」
 ――くっ、何てことだ。
 私は歯噛みした。ジェーンの声が聞こえなかったのだ。今までは二人とも怒鳴り声のような勢いでしゃべっていたから私のいる所まで声が聞こえていたが、電話に向かってしゃべるジェーンの声は落ち着いた声だった。ほとんど聞き取ることができない。かといって、これ以上彼らに近付くのも不自然だった。最悪、ポールに殴られかねない。
 断腸の思いで、私はジェーンの様子を見守った。
 しかし、どうやらこの流れは原告の敗訴という形で決着を見そうだった。被告の逆転無罪を、私は確信した。この時点で陪審員に票を投じさせたなら、まちがいなく被告側の完全勝利であったろう。
 ――だが、事態は予想もしない方向へ進展した。
 2分間ほど、ジェーンはタカミヤ氏と思われる相手と通話していた。
 が、
「もういい!」
 いきなり、ジェーンが携帯電話を足元に叩き付けた。それも思いっきり。携帯電話はこの一撃で確実に破壊されたことだろう。
 私を始めとした陪審員一同も驚いたが、一番驚いたのは当然、ポールだったはずだ。
「おい、オマエ……」
 ポールが何か言おうとした。
 言おうとしたその顔に、ジェーンの平手が飛んだ。
 パアン!
 屋根付きのバス・ターミナル内に、気持ち良いほどの破裂音が響いた。
 頬を押さえたポールの向こう脛に、さらにジェーンのヒールがめり込んだ。
 ガツッ。
 という音がした。骨が折れたのではないかと思うほどの音だった。
「いっ! ……ぐ……」
 情けない声を上げて、ポールはその場にうずくまった。
 無残。その一語に尽きた。
「二度と顔見せんな、このバカ!」
 それが、ジェーン裁判長の判決であるようだった。
 ――どういうことだ!?
 あまりのことに、被告を始め陪審員一同もあっけに取られていた。いったい、タカミヤ氏の証言内容はどういった内容だったのか。
「我々陪審員一同は、タカミヤ氏の証言の公開を求める!」
 そう叫びたい気分だった。
 だがジェーン裁判長は、残酷かつ一方的な判決を被告に下すと、もうこの裁判には何の未練もないようだった。ヒールの音も高らかに、その場を立ち去ろうとする。
「てめぇ! 待てよ!」
 うずくまったまま、ポールは呼びかけた。彼は、この判決に不満があるらしい。上訴しようとでもいうのか。ジェーンはしかし、振り返りもしなかった。ターミナルの外れでタクシーを止め、素早く乗り込んだ。
「おい、もどってこい!」
 ポールの怒声がむなしく響いた。その声はジェーンに届いていなかっただろう。タクシーのドアは閉まっていた。そうして、勝訴を勝ち取った原告を乗せたタクシーは去って行った。後には被告と陪審員だけが残された。
 陪審員の間には、被告に対する同情ムードが強く漂っていた。……もっとも、同情したからといって、慰めの言葉をかけるわけでもない。三々五々、さりげなく立ち去って行く。
 私も缶コーヒーを飲み終えて、その場を離れた。110円以上の価値がある見世物だった。
 ――それにしてもタカミヤ、お前どんな証言したんだ?



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