黒と白の悪夢


 悪夢を見ているようだった。
 いま、私の目の前にある、この光景――。
 これを、どう表せば良いのか。
 黒と白の、円筒形の物体。モノトーンで構成されたその物体は、私の作業スペースであるところのデスクを完全に制圧している。それは、目を疑うほどの──圧倒的な質量だった。

 寿司であった。
 大量の寿司が、私のデスク上に山積みにされているのだ。少なく見積もっても確実に20人前はあろうかと思われる、それは寿司の山だった。
 私は溜め息をつく。
 寿司は好きだ。好きだが、それは断じてこのような寿司ではない。
 このような、というのは、つまり巻き寿司のことである。黒と白の円筒形の物体といえば、巻き寿司以外になかろう。それが20人前。しかも、20人前のうちの18人前は納豆巻きであった。
 納豆巻きである。納豆をただ漫然と白飯と海苔で巻いただけの、何の工夫もない食物。外国人にとっては、遊星からの物体Xにも近い存在に違いない。
 いや、いっそ私が日本人でなければ救われたかもしれない。日本人でなければ、こんな得体の知れない物体は即座に処分するであろう。これが食べ物であるとわかってしまうのが、私にとっての悲劇だった。
 いったい、なにゆえに納豆巻きか。
 鉄火巻きとは言わぬ。かんぴょう巻きでもたくあん巻きでも良かった。百歩ゆずってカッパ巻きでも許す。ネギトロ巻きなどであれば、神にも感謝したやもしれぬ。
 が、現実に私の前にあるのは納豆巻きだった。

 ナット上手き。
 ──思考回路が停止している。この暴力的なまでに膨大な質量の納豆巻きは、私の頭脳の働きを停滞させるに十分だった。
「食べる」
 という考えすら出てこない。そもそも、食べる気にさえなれなかった。
 もはや、これは食い物ではない。食い物としての体裁を保っていない。

 そもそも、いかなる理由でこのような惨状が現出することとなったのか。それは、実に単純明快な理由だった。寿司の製造工場で働いている友人が、「これ余ったから、もらってきてやった」と置いていったのである。
 納豆巻き(しかも余り物)ごときで『もらってきてやった』などという態度もどうかと思うが、それにも増して理解できないのは、その非常識な分量である。何を考えて、これほどの納豆巻きを持ってきたのか。いやがらせとしか思えない。
 加えて、「それ昨日のだから、今日中に食ったほうがいいぞ」とのことである。
 一日でコレを食えと言うのか。この殺人的なまでの量の納豆巻きを。
「おまえなら食えるだろ」
 友人はそう言って去っていった。部屋にも上がろうとしなかった。
 お前は納豆巻きのデリバラーか。しかも、人を大食い選手権優勝者みたいに言うんじゃない。だいたい、もう少しバリエーションを持たせて持ってこい。どうして、納豆巻き9割カッパ巻き1割なんだ。

 誤解のないように言っておくが、私は納豆が嫌いなわけではない。好んで食べるというほどでもないが、出されれば食べるし、おいしいとも思う。が、18人前もの納豆巻きを食べたいとは思わない。
 補足しておくと、この18人前という概算は私の基準による計算での18人前で、一般的な基準に基づいて計算すれば36人前以上ということになる。あるいは、それ以上か。
 いったい、こいつらをどのようにして処理すれば良いのか。
 食べる、というのがやはり最も建設的かつ合理的な方法であろう。
 捨てる、というのは次善策か。
 他に方法は……、

「食べさせる」
 そうだ。それがあった。
 18人前の納豆巻きというサイケデリックな光景に、そんな単純な解決策を思い付くことさえ時間を要した。
 思い立ったが吉日。善は急げ。さっそく、私は心当たりの友人に電話を入れた。こういう時に頼りになる友人は一人である。
 数回のコール音の後に出た人物に向かって、私は言った。
「ああ、ゲンさん?」
「おお、何の用だ?」
「今から行って良いか? ちょっとした手みやげがある」
「みやげ? 酒か? 食い物か?」
「あなたの頭の中には、その二つしかないのか。……食い物のほうだが」
「食い物?」
「寿司だ」
 抽象的な表現で、私は言った。ウソはついてない。
「寿司!?」
「ああ、大量に余っているんだ。持って行くが、食べるか?」
 良心が痛む。
 ウソだが。
「おお、食うぞ。持ってこい」
「では今から行く。飲み物の用意をしておくように」
 飲み物とは、当然アルコールのことである。特に指定しないかぎり、ビールが待っていることだろう。
「わかった。……しかし、おまえでも食い切れないってことは相当な量だな」
 どうも、私は大食いであることを自認せねばならぬようだ。
「まぁ、量はかなりのものだ。ではこれから行く」
 そう言って、私は電話を切った。どうやら、タダ酒にありつくことができたらしい。酒の肴が納豆巻きとカッパ巻きだけという事実は、とりあえず考えないことにしよう。



 ――このあと、カッパ巻きをめぐっての争奪戦が繰り広げられたことは語るまでもない。



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