猫噛み家の一族


「猫って、なめると甘いよね」
 唐突に、彼女はそう言った。
 私は思わず周囲を見回した。この場にいるのは私と彼女、そしてもう一人の男。計3人だけだった。どうやら彼女の問いかけは、私とその男に対してのものだったらしい。
「……は?」
 私は一瞬の思考停止状態に陥って、そう聞き返した。
 彼女は驚いたように言った。
「猫、なめたことないの!?」
 驚かれても困るのだが……。私が猫になめられたことはあっても、私が猫をなめたことはない。主客転倒とはこのことか? だいたい、いかなる理由があって猫をなめるのだ? 甘いからか?
 彼女の問いには答えずに、私はさらに聞き返した。
「ふつう、なめるか?」
「俺もなめたことない」
 もう一人の男も、そう答えた。ちなみに、この男は”はにわ”というあだなで呼ばれている。由来は不明だ。女性の方の名は、人権に関わるおそれがあるので伏せておこう。
「猫好きだったら、ふつうはなめるでしょ」
 彼女は当然のように言った。
 私は特に猫が好きとか嫌いとかいった感情はないが、どうやら彼女の論理に当てはめると猫好きではないことになるようだ。べつにかまわないが。
 補足しておくと、彼女は自宅で10匹以上もの猫を飼っているツワモノである。ちょっとした猫屋敷だ。
 それにしても、猫をなめると「甘い」という部分がひっかかった。
「だいたい、猫が甘いか? ちょっと味覚がおかしいぞ」
「なめればわかるって。猫が自分の体をなめるのは毛づくろいの意味もあるけど、本当は甘いからなんだよ」
 冗談で言ってるのか? それとも電波か?
 いや、どうやら彼女は本気だ。口調から気迫が伝わってくる。気迫でなく電波かもしれない。実際のところ私は猫をなめたことがないから断定はできないが。ただ、ひとつだけ言えるのは、私は決して彼女の料理は食べたくないということだ。
「なめるだけじゃなくて、かんだりもするし」
 彼女は、ごくふつうの日常会話のような口調で言うのだった。
「……かむ、のか?」
 正直に言うと、このとき以来、私の彼女に対する認識は大きく変わった。それまでは比較的理知的な女性だと思っていたのだが、どうやらそれは誤認だったらしい。
 ”猫をかむ女”
 それだけが、彼女に対する認識となった。それほどにインパクトのある告白だった。
「かむっていっても、軽くだよ。手とか足とか」
 手ではなく、前脚だろう? そういう指摘をしようかと思ったが、できなかった。もはや、そんな低次元な誤謬はどうでも良かった。
「ちょっと怖いよ」
 そう言ったのは、はにわだった。私もその意見に賛成だった。「ちょっと」ではなく「かなり」怖かったが。
 しかし、彼女は平気で言う。
「怖くないって〜。うちの家族なんか、子猫の顔を口に入れたりしてるよ。『かわいいでちゅねー』とか言いながら。カプ、って」
 私は、その光景を想像して寒くなった。動物を前にすると幼児退行する人間は多いが、それにしても「かわいいでちゅねー」はないだろ。あまつさえ、「かぷ」である。ムツゴロウでも、そこまではするまい。――いやムツゴロウならやるな。
「……家族って、他にだれがやってるんだ?」
 どこか遠い世界に行ってしまいそうな意識をつなぎ止めつつ、かろうじて私は訊くことができた。
「私の親とか兄弟とか、みんなやってるよ」
 こともなげに彼女は答えた。彼女の歳からして、その両親は50を越えているだろう。50歳の男性が子猫を「かぷ」か……。世も末だ。
「『うちの子(猫)たちってなんでこんなにかわいいんだろうね』なんて話しながら、家族みんなで『かぷ』とかやったりね。まぁ、猫好きなんてこんなもんよ」
 彼女は恥じる風でもなく、楽しげに言う。なにやら、パラノイア(偏執狂)の独白を聞いているような気分になってきた。精神科に行くことを勧めた方が良いのだろうか。
「きみだって、ギター好きでしょ? なめたりしない?」
 彼女は冗談めかして言った。訊かれたのは、はにわだ。彼がギターをやっていることは周知である。
 いきなり話を振られた彼は、当惑したように答えた。
「なめはしないけど、一緒のベッドで寝たことはある」
 今度はギターと添い寝する男か。どうやら、私は癲狂院にまぎれ込んでしまったらしい。
 「ギターをなめると甘い」とか言われなかっただけマシではあるが、それにしても……。コミュニケーションの相手は、せめて生きものにしてほしいものだ。そのうち、「かわいいギターでちゅねー」とか言い出さないかと不安になる。……いや、すでに言ってるのかもしれないが。
「あはは、ギターと添い寝だって。マジ?」
 と、彼女が笑った。
 キミに彼を笑う資格はないぞ。
「ギター抱いて寝るとおちつく」
 と、はにわ。
「私も猫抱いて寝るよ。3匹ぐらい」
「ギター3台は抱けないな。持ってないし」
「朝起きると、猫の耳が口の中に入ってたり」
「ギターは口の中に入らないなぁ。頬ずりしたりはするけど」
「頬ずりは基本でしょ」
「やっぱりなめないと駄目か」
「なめるっていうより、かまないと。かぷ、って」
 やけに「かぷ」にこだわる女である。酔っぱらってるのか。酒も飲んでないのに。
「耳をかぷ、ってやるのがいいの。とくに子猫の耳。あ〜、猫耳最高♪」
 だれか救急車を呼べ。すでに手遅れかもしれんが。
 彼女の暴走は止まらない。
「猫耳好き? 今度、かませてあげようか?」
「遠慮しておく」
「やめとく」
 私とはにわは、ほぼ同時に答えた。
「えー? 食わず嫌いは良くないよ。一度やれば、絶対やみつきになるって」
 食わず嫌いという言葉は、こういうときに使うものだったか? そもそも、やみつきになどなりたくないぞ。
「なんなら、かみ心地のいい猫、選んであげるよ?」
 彼女はしつこかった。
「かみ心地って何だよ」
 私とはにわから、同時にツッコミが入った。
「かみ心地ってあるんだよ。いろいろと。わかんないかな〜」
 わかるか。
「うちの猫ちゃんたちなら、目つぶってても耳かんだだけで区別できるよ」
 それは自慢してるのか?
 だとしたら、やはり医者へ行け。
「うちがヘンなのかなー。家族全員、猫耳好きなんだけど」
 全員で医者へ行け、なるみ。
 ああ、いかん。毒気に当てられて、つい名前を出してしまった。
 ちなみに、彼女の名字は猫神である。嘘だが。
 そういうわけで、全国の猫神さん、彼女を嫁にしてやってください。猫好きであることは当然として、猫耳の味の違いがわかることが条件です。ついでに、ギターの代わりにはにわと添い寝してくれる女性も募集。



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