YESTERDAY


 人は、ときに取り返しのつかない過ちを犯す。だれしも、「あのときの自分にもどって、もう一度あの場面をやりなおしたい」と思う人生の一幕があるだろう。
 私の場合、それは13年前のクリスマス・イヴの日だ。その日、私は一瞬の不注意から一生取り返しのつかない傷を心に負った。今なお私の心を苛んでやまない、それは辛く苦い記憶だ。忘れようとしても決して忘れられないその記憶は、いつもある一曲の歌で思い出される。
 優しいギターの調べが胸を打つその曲のタイトルは――、

「ビートルズの”イエスタデイ”」
 はにかむような笑みを浮かべて、彼女はそう言った。
 昼休みの放送室。せまい室内で、僕と彼女は二人きりだった。
「ああ、これがビートルズなのか。どこかで聴いたことあるよ」
 それは、たったいま校内に流れている曲のことだった。僕たちの中学校では、昼休みの間はいつも何かの曲が流れている。それはクラシックやジャズだったり、流行りの歌謡曲だったり、ときには洋楽だったりした。
 多くの場合、それは生徒がリクエストとして持ってきたカセットテープが音源になっていて、そのまま置き去りにされたテープが、放送室には大量に残されている。段ボール箱に詰め込まれたそれらのテープのせいで、ただでさえ広くない放送室は4人も入れば身動き取れなくなるような空間になっていた。そんなせまい室内であるから、並んで座った僕と彼女の間にはほとんど距離がない。
「ラジオとかで、よくかかるよ。特集組んでたりしてね」
 微笑したまま、彼女は言った。子犬のような笑顔は、とてもかわいい。
 僕たち二人は、新米の放送部員だった。顧問の教師や上級生の指導もなく、たった二人で校内放送をするのは、初めてのことだ。その初めての日に、彼女は自分の好きな曲ばかりを収めたというテープを持ってきた。
 そこにはバラードばかりが収められており、他にはイーグルスやシカゴ、ビリー・ジョエルなどというアーティストが入っていた。僕は、そのどれも聴いたことがなかった。だから、5曲目ぐらいで”イエスタデイ”がかかったときは、少しうれしかったかもしれない。それだけは、いつかどこかで聴いたことがあったから。
「お母さんがビートルズ好きで、うちにレコードが全部あるの。そのせいで、あたしもビートルズ好きなんだけどね。やっぱり、この曲が一番好き」
 彼女は、なんだか楽しそうだった。その表情だけで、彼女が本当にこの曲が好きなんだということがわかった。
「うん、いいね。僕も好きだよ」
 僕はそう応えた。けれど、それは本心ではなかったかもしれない。正直なところ、英語が苦手な僕には、何を歌っているのかさっぱりわからなかった。僕の関心は、ビートルズよりむしろ彼女の方に向けられていた。
「洋楽とか聴く?」
 と、彼女。
「あまり聴かないけど、機会があれば聴いてみたいな」
「ビートルズで良かったら、どれでも好きなのテープに取ってあげるよ」
「え、いいの?」
「いいよ。テープはたくさんあまってるし」
「でも、ビートルズの曲って、他には知らないんだ」
「それじゃ、あたしが好きな曲だけ入れてあげるよ。それでいい?」
「ああ、まかせるよ」
「じゃあ、明日持ってくるね。そのとき、ついでにここでかけよう」
 そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。

 僕は放送当番の日をたのしみにするようになった。
 当番のローテーションはちょっと複雑な形になっていて、彼女と同じ日になることは少なかったけれど、それでも週に一回か二回は会えた。そのたびに、彼女は「特製テープ」なるものを僕に渡してくれた。多くの場合、それにはビートルズの曲が入っていけれど、そうでない場合、彼女は嬉々としてそのテープに収められているバンドの説明を僕にほどこした。
 洋楽の知識などまったく持ち合わせていない僕は、いつも彼女にしゃべらせてばかりだった。彼女は僕の見たこともないような音楽雑誌を持ってきては、その雑誌に記載されている以上のことを説明してくれた。
 彼女の知識は、とても中学生のものとは思えなかった。僕が何かを訊くと必ず答えが返ってくるといった具合で、とくに60年代の古いバンドについては何でも知っているのではないかとさえ思えるほどだった。ことにイギリスのバンドについては異常なほど詳しかった。
「いつか、イギリス行きたいなぁ」
 口癖のように、彼女はそう言っていた。
「でも、英語が話せないと」
「うん。だから、英語だけはちゃんと勉強してるよ」
 言葉通り、彼女の英語の成績は良かった。先日の期末テストでは100点を取ったという話だ。僕の方はといえば、お世辞にも良い成績とは言えなかった。
 僕は彼女との間を埋めようとして、必死に英語の勉強をした。そうすることで、少しでも彼女と親しくなろうとしていたのかもしれない。
 その甲斐あってか、僕たちは会うたびに新密度を増していった。――実際のところ、それは僕の気のせいだったのかもしれない。それでも僕たちは昼休みの放送室で”レット・イット・ビー”や”オネスティ”を一緒に歌ったりした。もちろん”イエスタデイ”も。
 幼いころからピアノを習っているという彼女の歌声は、とてもきれいだった。 その声が聴きたくて、僕は何度も彼女に歌のリクエストをした。彼女は、いつも微笑んで僕のリクエストに応えてくれた。

 そうして、半年ほどが過ぎた。
 12月24日。
 二学期の終業式が終わると同時に、僕は放送室に向かった。
 今日の当番は、僕と彼女だ。この日の当番を、僕は少々強引な方法で手に入れた。いや、「強引」と言うと人聞きが悪い。ただ、今日の当番だった友人に交代してもらっただけだ。彼にしてみれば面倒な仕事をせずに済んだのだから、ありがたかろう。
 放送室の扉を開くと、彼女は先に来ていた。
「あれ? 今日当番だったっけ?」
 壁に貼られているローテーション表を見ながら、彼女は驚いたように言った。
「ああ、代わってもらったんだ」
 君に会いたくてね、という言葉を僕は飲み込んだ。
「ふぅん」
 彼女は、そっけない感じでそう言った。少しだけ、僕は傷付いたかもしれない。もちろん、そんな態度は決して表には出さない。僕は、いつもと同じようにして彼女の隣に腰を下ろした。
 聴いたことのない曲がかかっていて、僕はそのバンドの名を訊ねた。
 ボストン。
 そう言って、彼女は付け加えた。
「このバンドのリーダー、マサチューセッツ工科大学の出身なんだ。すごいよね」
「え? ああ」
 マサチューセッツ工科大学というのがどういう所なのか、僕は知らなかった。ただ、その語感と彼女の口調から、相当レベルの高い大学なのだろうとは思った。そんな大学を出てミュージシャンになる人もいるんだな、とも思った。
「また、レコード買ったんだ?」
 僕は訊いた。
「うん。レコードだったら、お母さんが半分お金出してくれるしね」
「そういえば、そんなこと言ってたね」
「うん。……で、どう?」
「どう、って?」
 いきなり訊かれて、僕はとまどった。
 彼女は微笑して、スピーカーを指差した。
「ボストン。……あたしは気に入ってるの」
「え、あぁ、うん。いいんじゃないかな」
「……なんか、駄目みたい? ビートルズとかの方がいいかな?」
「いや、いいと思うけど」
「うーん。やっぱりやめとくね。家でゆっくり聴くよ。それに、あんまりあたしの好きな音楽ばっかりかけてると、また先生に怒られるし」
 言いながら、彼女はテープを停止させた。取り出したそれを、ケースに入れる。
「なにか怒られたの?」
「このまえ、エアロスミスかけてたら、ちょっと怒られたよ」
「ははは」
「笑いごとじゃないよぉ。……あ、リクエストある?」
 ボストンのテープを制服のポケットに入れ、彼女は100本ほどのカセットテープが詰め込まれた段ボール箱を足元に引き寄せた。テープの大半は、彼女が持ってきたものだ。
「いや、なんでもいいよ」
 100本ほどのテープに収められている曲のほとんどを、僕はもう耳にしていた。彼女と知り合って半年ほどの間に、洋楽にはかなり詳しくなったと思う。なにしろ、以前はストーンズもクイーンも知らなかったのだ。
「そう? じゃあ、これにしよう」
 彼女がひっぱりだしたのは、ビートルズの『ヘルプ!』だった。そのまま僕の返事を待たずに慣れた手つきでデッキに入れ、再生させた。彼女のしなやかな腕の動きはなんとなく格好良くて、僕はいつも見とれてしまう。
 勢いのあるタイトルナンバーがスピーカーからほとばしり、彼女はそれに合わせて歌い始めた。彼女は歌詞カードを見ない。ビートルズの曲は完全に覚えてしまっているのだ。せまい放送室で、そうしてまた僕たちはいつものようにロックの話をつづけた。ときどきビートルズに割り込んでくる、職員室からの校内放送に悪態をつきながら。
「冬休みは、なにか予定とかある?」
 僕は、ごく自然な感じでそう訊いた。
 スピーカーからは、”イエスタデイ”が流れていた。
「なにもないよ。ずっと家でゴロゴロしてると思う」
 と、彼女。
「太るよ?」
「あたし、太らない体質なんだよ。他の女の子から、よくうらやましがられるもん」
「そうなのか」
 たしかに、彼女は痩せている。
「そうだよぉ。少し太りたいと思ってるぐらいなんだから」
「食べれば太るって。……じゃあとりあえず、冬休みはヒマなのかな?」
「食べるのって、あんまり好きじゃないんだ。冬休みはヒマだよ。ヒマヒマ」
「ヒマなのか……」
 短く言葉を区切り、それから僕は意を決して言った。
「冬休み、どこかで会わない?」
「なに? デートの誘い?」
「まぁ、そうかも」
 どうも、僕はこういうものの言い方しかできない。
「ふぅん。……いいよ。ヒマだし」
「いつがいい?」
 声のトーンが高くなりそうになるのを抑えて、僕はできるかぎりの冷静さを装った。
「いつでもいいよ」
 彼女がそう言ったので、僕は少しばかり思いきった行動に出ようとした。翌日――つまり、クリスマスを指定しようとしたのである。
 ――そして、ミスを犯した。
「じゃあ、イエスタデイってことで」
「え?」
「いや、だから明日」
「はぁ?」

 そう、僕はそのときまで、「イエスタデイ」の意味を「明日」だと思っていたのである。
 何故そういう勘違いをしていたのか。わからない。勘違いだと気付く機会は、何度もあったはずだ。何もこんな最悪のシチュエーションで……。
 その日(正確にはその瞬間)以来、彼女の態度は明らかに変化した。
 僕に弁明の余地はなかった。――もっとも、弁明のしようもないが。
 ”トゥモロー・ネヴァー・ノウズ”がかかってれば良かったのに。



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