1945年2月14日


 第二次大戦中の話である。
 1944年の終わりごろ、ドイツ第三帝国は瀕死の状態にあった。この年の6月、連合軍によるノルマンディへの上陸を許したドイツは、東部戦線、西部戦線ともに敗走に次ぐ敗走をかさね、自国の制空権をも連合軍にゆずりわたしていた。だれが見ても、ドイツの逆転は有り得ない状況だった。実際、連合軍とドイツ軍の物量差は比較にならぬほどのものであったし、ドイツにとって有利な要素は何ひとつなかった。
 しかし、その状況下にあってなお、第三帝国総統アドルフ・ヒトラーは勝利を諦めてはいなかった。電撃爆撃による反攻と巻き返し――。それが彼の構想だった。
 1944年12月16日。構想は実行に移された。ドイツ陸軍総司令官でもあるヒトラーは、その全戦力を西方の戦線に叩き付けたのである。世に言う「アルデンヌの反攻(バルジ作戦)」だった。
 このとき、西部戦線に投入された師団の中に一人の兵士がいた。エルンスト・マイヤーというその男が、この話の主人公である。

 マイヤーは、運のない男だった。25という年齢ゆえに曹長の階級章を得てはいたが、その戦績に記すべきところは何もない、あえて言えば無能な男だった。
 12月に開始された総反攻作戦においても、彼はその無能ぶりをさらした。単純なミスから撤退のタイミングを誤った彼は、やすやすと敵軍の捕虜になってしまったのである。
 まったくのところ、彼に軍務という仕事は向いてなかった。料理と音楽鑑賞、そして詩を好む彼の嗜好は、どちらかというと女性的でさえあった。彼自身それは承知していたらしく、日ごろから軍務の愚痴を周囲にこぼしていた。自分に軍隊は向いていない、と。
 そして、それは現実の問題となって彼を襲ったのだった。


「ちょっと待て」
「なんだ?」
「これは何の話だったか?」
「バレンタインデーの話だ」
「それはわかっている。……たしか、その由来を説明するとか言ってたな?」
「いかにも」
「これのどこが、バレンタインデーなんだ?」
「まぁ、話は最後まで聞け。じきにわかる」
「……そうか」


 連合軍の捕虜となったマイヤーは、訊問を受けた。彼は純血のアーリア人であり、人並みに愛国心を持ち合わせていたが、それに殉ずるほどの気概は持っていなかった。
 階級、姓名、所属……、それら全てを余さず答え、彼が単なる一兵卒に過ぎないことが知れると、じきに訊問は終了した。それは既に形式化した訊問であり、いまさらマイヤーごとき兵卒から得られる有益な情報など何もなかった。
 訊問を済ませたマイヤーは、他のほとんどの捕虜がそうされるように、収容所へ送られることになった。
 その収容所で、彼はある出会いを果たすのである。

 シャノン・ヒューズ。それが彼女の名前だった。
 収容所の責任者であるヒューズの娘で、当時22歳。言語学を専門として学んでいる彼女はイギリス人でありながらフランス語とドイツ語に精通し、その研究の一環として、捕虜となったドイツ兵との会話を繰り返していた。ことに彼女は文学に傾倒しており、詩や小説を自作するという趣味も持っていた。
 詩という共通点が彼女とマイヤーの接点になったことは間違いない。初めて言葉を交わしたその瞬間から、二人は互いのことが気になっていた。


「なるほど。男女の話になってきたな」
「当然であろうが」
「しかし、バレンタインデーの要素がまったく出てこないが……」
「だから、それは最後まで聞けと言っている」
「わかった、わかった。続けてくれ」


 シャノンはマイヤーと会話を交わすようになってから、ほぼ毎日収容所を訪れるようになった。
 会話はドイツ語のみで交わされ、数名が収容されているマイヤーの房は他のドイツ兵も交じって連日、談笑が繰り広げられた。
 シャノンは、しかし他のドイツ兵に対しては無関心に近かった。彼女が話をしたい相手はマイヤーだけだったのだ。それを証明するかのように、彼女は自らの力を使ってマイヤーを独房に移動させた。
 一対一で会話ができるようになると、シャノンはそれこそ毎日、何時間もマイヤーを訪れた。二人はそうして互いに詩を読み、小説を朗読し、あるいは世界を語り合った。最初のうちはシャノンの積極さに戸惑っていたマイヤーも、徐々に彼女を理解していった。

 マイヤーは、当時のドイツでは禁書とされていたハイネの詩をよく諳んじた。その作品の中で頻繁に扱われるテーマ――つまり恋愛――に乗せて自らの気持ちを伝え、シャノンはそれに応える詩を自ら作った。
 国籍と民族を越えて、二人は日ごと互いの気持ちを確かめあった。


「ああ、そうか。ハイネはユダヤ人だったな」
「よく知っているな。そのとおりだ」
「ハイネの詩は好きでね」
「嘘をつくな。お前は詩なぞ読まないだろ」
「失礼な。たまには読むぞ。柿食えば鐘が鳴るなり、ほ」
「黙ってろ。続けるぞ」


 二人は、しかし自分達のそれが決してかなわぬ恋であることを理解していた。理解していたからこそ、その想いはより熱を帯びたのかもしれない。
 戦争さえ終われば──。そればかりを、二人は考えるようになっていた。無論、戦争が終わったからといって簡単に解決される問題ではない。が、それでも戦争さえ終わればどうにかなると考えていた。――否、考えようとしていた。それ以外、彼らにできることはなかった。

 1945年も2月になると、第三帝国は見る影もないほどに衰弱していた。資材と燃料の枯渇が、その主たる原因だった。V2ロケットやMe−262、ティーガー2といった最強の兵器を有しながら、それを活用するだけの力はもはやなかった。
 東はロシア軍、西には連合軍が迫り、連日の空爆がベルリンを含めた各都市を襲った。加えて帝国内部には粛清と処刑の嵐が吹き荒れ、ドイツは内と外から崩壊していったのである。
 2月12日には、アメリカ、イギリス、ソ連の連合国首脳がクリミア半島ヤルタで会談し、ドイツに対して無条件降伏を要求した。
 それでも、ヒトラーはこの戦争を諦めなかった。


「V2かMe−262が半年も早く実戦配備されていれば、ドイツは負けなかったと言うな」
「とくにV2は、そのとおりだな。確実にイギリスは壊滅させられていただろう。……まぁ、架空の話だが」
「Me−262もな。防空さえできていれば、ああまでドイツは疲弊しなかったはずだ」
「燃料の問題もあるが、な。当時のジェット・エンジンの対効果燃料消費量といったら、無視できるようなものではなかった」
「あれだけの戦闘力を引き出すためには仕方ない。それより空軍にとって悲惨だったのはゲーリングの存在だろう。あのデブが全ての元凶だ。あのブタめ」
「……そんなにデブが嫌いなのか、お前は」


 2月14日、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)は小規模な反撃を開始した。
 Me−262爆撃機型による、各地への爆撃作戦である。ほとんど無駄な抵抗とも言えるこの作戦の爆撃目標として、マイヤーの収監されている収容所地域も含まれていた。
 しかし、この作戦の計画はイギリス側の諜報活動によって寸前に知られるところとなった。この時期、すでにドイツ側の情報系統は目茶苦茶だった。暗号の大半も連合側に解析されていた。

 その前日、シャノンは収容所が爆撃される可能性があることを父から聞かされ、避難するよう忠告された。無論、防空のための迎撃準備は整っている。が、それが完璧に運ばれるとは限らない。所長の判断は正しかった。
 急なことだった。すぐさま避難するよう言われて、シャノンはとまどった。マイヤーと離れたくなかったのだ。しかし、所長はシャノンとマイヤーの関係を知らない。有無を言う間もなく、シャノンは避難用のトラックに乗せられていた。
 どうしようもなかった。空襲が去ったらすぐに戻ればいい。そしてマイヤーに会えばいい。彼女は、そう自分に言い聞かせた。それでも、避難する前にもう一度マイヤーに会いたいという想いは止められなかった。


「おお、盛り上がってきたな」
「茶々を入れるな。これからクライマックスだというのに」
「しかし、オチが読めるなぁ」
「『オチ』ではない!」


 シャノンの乗った車両が発進する寸前、一人の所員が通りかかった。リックという、シャノンの親しくしている所員で、彼女は彼にマイヤーへの伝言を頼んだ。
 シャノンは愛用のメモ帳を取り出し、わずかに考えてから、
「愛しています」
 とだけ書き付けた。詩作の時間などなかった。それだけが精一杯だった。すでに彼女の乗ったトラックは、ゆっくりと動きだしていた。
 書き付けたそのページをちぎり、彼女はトラックの脇を走るリックに手渡した。同時に、ポケットにチョコレートが入っていたのを思い出して、それも渡した。ほんの思い付きの行動だった。
 しかし、紙片とその小さいチョコレートがマイヤーのもとに届いたか、彼女が確認することはできなかった。

 翌日、収容所近隣の一帯は猛烈な爆撃に晒された。
 連合軍側の防空体勢に手抜きはなかった。ただ、その予想を上回るほどのドイツ機が彼らの前に現れたに過ぎない。ルフトヴァッフェの底力――最後の抵抗だった。
 収容所施設内にも、いくつかの被弾があった。そのうちの一つが、マイヤーの収容されている独房棟を直撃した。
 250キロ爆弾の威力は、独房棟を半壊させるに十分だった。この一発だけで、ドイツ軍は少なくとも50名以上の同胞を殺傷した。そして、エルンスト・マイヤーもその中に含まれていた。


「やはり、予想どおりのオチか」
「『オチ』ではないと言っておろうが! それに、話はまだ終わってない!」
「ああ、それはスマンな。それにしても長いぞ」
「うるさい。黙って聞け」


 翌日、リックはマイヤーの死をシャノンに伝えるべく、彼女の避難先を訪れた。彼の手には、二日前にシャノンから預かった物と同じ紙片があった。「愛しています」と書かれたその裏に、マイヤーの文字が刻まれていた。
 それは、彼が最後に残した詩だった。

 暗渠の虜囚となりて、我はまた盲目の虜囚となる
 我が瞳に映るは君が姿のみ
 暗渠に輝けるは君が瞳
 我が心に透り入り、我を虜囚となす

                ――夏声書院刊「名もなき詩たち(ドイツ編)」より

 ドイツ語で書かれたそれを、リックは読む事ができなかった。それでも、詩の内容は理解できた。そして、それを届けるのが自分の義務であると信じていた。――が、その紙片がシャノンに届けられることはなかった。
 避難先へ向かった彼女のトラックは、目的地に着いていなかった。途中でドイツ機の攻撃を受けたのだ。機銃掃射によってトラックが爆発炎上したという話を、リックは目撃者たちから聞いた。
 シャノンは行方不明だった。――行方不明。つまり、遺体の確認が不可能だったという意味である。マイヤーよりも先に、シャノン・ヒューズはその命を落としていたのだ。
 リックの手には、そうして二人の想いを刻む紙片が残された。

 数日後、シャノンの遺体の一部が発見され、葬儀が行われると共に埋葬された。早春の寒い日で、彼女の死を悼むように天から雪が落ちていた。
 参列したリックは、シャノンの棺に紙片を捧げた。そこ以外に、紙片のあるべき場所はなかった。
 1945年3月14日。シャノンはマイヤーの詩を胸に抱いて土へと帰ったのである。


「ひどい話だ」
「戦争の悲劇、というやつだ」
「いや、ひどいのは君だ。こんな話を捏造して、いったい何が言いたいのだ?」
「捏造ではない。実話だ」
「……本気で言っているのか?」
「俺は常に本気だ」
「常に本気で嘘をついている、ということか」
「嘘ではない。資料にもとづいた話だ」
「ほう。ならば訊くが、この話のどこがバレンタインデーの由来になっているというのだ?」
「言うのを忘れていたが、収容所の名がバレ」
「嘘をつくな!」
「嘘ではない。疑うのなら、資料を調べてみれば良かろう?」
「くっ……。調べられないと思って大きく出やがって」
「とにかく、これがバレンタインデーの由来だ。そして、雪が降ったシャノンの葬儀の日がホワイトデーの由来でもある」
「ホワイトデーまでも……。図々しいにもほどがあるぞ」
「図々しいのは製菓会社だ。本来、ホワイトデーとは男性から女性に詩を送る日だったのだぞ。それをキャンデーやらマシュマロやらと……。まったく、とんでもない話だ」
「とんでもないのは、君のほうだ」
「とにかく、俺は古式ゆかしくホワイトデーには詩を送るぞ」
「それが目的か。そんなに金を使いたくないのか、君は」
「下衆な勘繰りだな。金など、愛の前では塵のようなものだ」
「……バレンタインデーにチョコをもらったというだけで、人間はここまで尊大になれるものなのか」



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