少女エイプリルに捧げる


 今日4月1日は、エイプリル・フールである。
 年に一度のこの日は嘘をついても良いとされている。しかし、そのユニークな習慣の裏に隠された悲劇を知る者は少ない。なぜ、エイプリル・フールという習慣が生まれたのか――、それを今回は語ろうと思う。


 100年ほど昔のこと。ウェールズの片田舎に、一人の少女が住んでいた。
 少女の名はエイプリル。生まれつき脳に障害を持つ彼女は、ただ一人の家族である母親と一緒に人里離れた森の中で隠れるように生活していた。
 15歳のエイプリルは、身体的には何の障害もなかったが、知能のほうが遅れていた。その知能は5歳児程度。無論、母親の介護なしで生きていくことはできなかった。
 エイプリルは物静かな子だった。いつも一人で絵本を読んでばかりいるような子で、たまに外へ出るときは必ず母親がついて歩いた。母親以外の家族や親族もなく、彼女の世界にあるのは森で見かける動物や絵本の中の王様やお姫様ばかりだった。
 エイプリルの母親がどうやって生活の糧を得ていたのか、それはわからない。ただ、ときおり夜半に出かけて翌朝まで帰らないことがあった。そういうとき、彼女はいつも疲れきった表情をしていた。その表情がエイプリルは嫌いだったが、代わりに買ってくるケーキなどの菓子はそれを打ち消すのに十分だったので、一人で過ごす夜もエイプリルは我慢した。
 母親が買ってくるのはケーキだけではなかった。服や絵本であることもあったし、玩具であることも多かった。一度、母親がオモチャの指輪を買ってきたことがあった。エイプリルはその指輪が気に入って、いつも指にはめるようになった。母親がはめている指輪と同じ緑色の石だったのが気に入ったのかもしれない。
 決して裕福とは言えないまでも、二人の生活に不自由はなかった。エイプリルの障害を除いては。

 が、不幸は突然やってきた。
 真冬のある日のこと。前夜に出かけたエイプリルの母親が、朝になっても帰ってこなかったのである。何があったのか。エイプリルにはわからなかった。いつものように絵本を読みながら、彼女はじっと母親の帰りを待った。しかし、いつまで経っても母親は帰ってこない。日が暮れて森が夜の闇に包まれても、エイプリルは待ち続けた。
 翌朝になっても、母親は帰らなかった。初めてのことだった。
 エイプリルは泣かなかったが、困ったことがあった。暖炉の火が消えそうだったのである。脳に障害のあるエイプリルだったが、子供のころからやっていたせいで暖炉の番だけは支障なくできた。しかし、薪がない。それを調達してくるのは母親の役割だった。
 薪だけではない。食べ物も、ろくに備蓄されてはいなかった。生のジャガイモや小麦といったものはあったが、手を加えずに食べられる物はほとんどなかった。エイプリルにそれらを料理することは不可能だった。
 その日の夕方には薪が底を尽き、暖炉の火が消えた。毛布にくるまって、エイプリルは夜を過ごした。――空腹を抱えながら。
 三日目の朝になっても、母親は帰らなかった。
 その日の夕方になって、エイプリルは一つの決心をした。町へ行ってみようと思ったのだ。母親が町へ行っているのは知っていたし、一緒に行ったことも何度かある。町に行けば、薪も食べ物も手に入るだろう。
 毛布を羽織って、エイプリルは家を出た。ポケットにオモチャのお金を入れて。

 町に着くころには、日が落ちていた。
 薄暗い街路をふらふら歩くエイプリルの姿は、周囲の目を集めるに十分だった。だが、彼女はそんなことを気にも留めない。母親と――それから食べ物屋を探して、町の中を歩いた。
 母親の姿は見つからなかったが、食べ物屋はすぐに見つかった。立派な店構えのパン屋だ。店じまいしようとしているところらしく、何人かの男が忙しそうに働いていた。パンの香ばしい香り。店先に並べられている品物を見て、エイプリルは小走りに駆けだした。
 何種類もあるパンの中から、彼女はいつも食べているのと同じようなパンを手に取った。母親が焼くパンと違って温かくはなかったが、そのときのエイプリルにとっては最高においしそうに見えた。何日もおなかをすかせていたのだから、無理もない。
 店員の一人が彼女に気付いて代金を請求した。エイプリルは何の疑問もなくポケットからオモチャのお金を出して、それを店員に手渡した。そして、そのまま店を立ち去ろうとした。
 それを店員が止めたのは、当然のことだろう。彼に非はない。――ただ、彼が止めたことが悲劇の原因の一つとなっただけに過ぎない。
 彼は、背を向けて走り出そうとするエイプリルの右手をつかんだ。とたん、彼女は悲鳴を上げた。母親以外の誰かに触れられることに慣れていなかったのだ。あわてて振り返り、彼女はつかまれた右手をふりほどこうとした。その拍子に、指輪が抜けた。もともと、少しサイズが大きかったのだ。
 あっ、ともう一度エイプリルは叫んだ。叫ぶ彼女の前で、指輪は路面を転がって下水路に落ちた。
 パンを投げ出して、エイプリルは指輪を追った。
 下水路は、深く広い。エイプリルは中へ手をつっこんだが、とうてい届くようなものではなかった。彼女は下水路の中へ飛び込んだ。膝まで下水に浸かりながら、彼女は懸命に指輪を探した。
 何が彼女をそうまでさせたのか、彼女にとってそのオモチャの指輪がどれほど価値のあるものだったのか、それは誰にもわからない。
 泥だらけになって指輪を探すエイプリルを、しかし道行く人々は冷たい目で見下ろすだけだった。夜が更けて人通りが絶えても、彼女は一人、探し続けた。真冬の寒さに耐えながら。

 翌朝、街路に倒れているエイプリルの姿があった。その右手にはすっかり汚れて光を失った指輪がはめられて――、そうして彼女は死んでいた。偶然にもその場所は、三日前に彼女の母親が暴漢に刺されて死んだ場所だった。
 二人は、身寄りのない遺体の全てと同様に乱雑な埋葬をされたが、その際ひとつだけ不思議なことがあった。二人の手にはそれぞれ同じ色の指輪がはめられていたが、一方は本物のエメラルドであり、もう一方は粗悪な模造品だった。不思議な点というのは、それら二つのうちの本物のほうがエイプリルの指に、模造品のほうが母親の指にはめられていたことである。

 エイプリルの死後、この町では年に一度の行事が行われるようになった。彼女の誕生日である4月1日に行われるその行事はオモチャのお金を使って物を買うというユニークなもので、地域住民の間ではエイプリル・フール祭と呼ばれている。
 後にこの名称だけがアメリカへ伝わり変化したものが現在知られているエイプリル・フールの原形とされるが、その発祥を知る者は少ない。



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