恐怖の焼売
自分が常識だと思っていることでも、意外と世の中全体の常識ではない――。そういうことは、よくあると思う。
私などは、たとえば納豆を食べるときはだいたい卵を入れるのだが、これを私は世間一般の常識だと思っていた。育った環境がおかしかったのだと今になれば理解できるが、幼少のころは納豆に卵というのは常識であり、納豆を単体で食べるなど考えもつかなかった。無論、納豆を食べること自体が既に非常識だという説があることも理解している。
カレーに卵を入れる人、牛丼に卵を入れる人、親子丼に卵を入れる人、とそれぞれ常識があるのだと思う。ふと思ったのだが、卵の入ってない親子丼は「親丼」と呼ぶのだろうか。
世の中にはそのようにさまざまの常識があり、見解の相違について驚くことも多いのだが、先日またしても私は常識の相違に悩まされた。
それは、酒の席でのことだった。
「恐怖のシューマイ」
ふとした話題から、私はその言葉を口に出していた。どういう経緯でそんな言葉が出てきたのか、いまとなっては覚えていない。なにかの比喩として使ったものとだけ記憶している。だれでも知っているものと思って、何の配慮もなく口にしてしまったのだ。
ところが、私の常識はその場にいる皆の常識ではなかった。
「恐怖のシューマイ?」
「なんだ、それは」
「怪談か?」
恐ろしいことに、その場に居合わせた5人ほどの人間の中に「恐怖のシューマイ」を知る者はなかった。私は驚愕した。私にとって「恐怖のシューマイ」を知らないというのは、「桃太郎」を知らないに等しい。それほどの、一般常識だと思っていたのだ。私の中に、現在の学校教育と文部省の方針に対しての疑念が浮かび上がってきた。
「で、何なのだ? それは」
「恐怖の味噌汁とかと同じアレか」
「いや、どうせまたコイツのくだらぬ作り話に違いない」
「ああ、またウソか」
「まったく、どうしようもないヤツだな」
自分たちの無知を棚に上げて、ひどい言いようである。本当に知らないのか、と私は問い返した。かつがれているのかもしれない、とも思っていた。
「知らん」
「おまえの作り話には付き合ってられん」
「どうでもいい」
私は付き合う友人をまちがえているのかもしれない。このときほど痛切にそう思ったことはなかった。……いや、まちがえているのは向こうのほうかもしれぬが。
やむなく、私は「恐怖のシューマイ」を語ることとなった。
むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。
ある日、町へ芝居見物に出かけたおじいさんは、帰りがけに一箱のシューマイを買って、おばあさんの待つ家に帰りました。おじいさんはシューマイが大好きだったのです。
その日の晩御飯はシューマイです。おじいさんが5個、おばあさんも5個ずつ、二人仲良く食べました。
おじいさんが買ったのは20個入りのシューマイでした。おじいさんはシューマイが大好きなので本当は全部食べてしまいたかったのですが、最近は歳のせいか血圧も高く、おばあさんに止められていたのです。残った半分のシューマイは箱に入れたまま、おじいさんはしぶしぶそれを冷蔵庫にしまいました。
でも、おじいさんはやっぱり我慢できませんでした。夜中、おばあさんが寝たのを見計らって、そっと台所へ。冷蔵庫を開けて、シューマイの箱を取り出します。そして、つまみ食いしようとフタを開けたのですが、なんとビックリ。10個あるはずのシューマイが6個しかありません。おじいさんは怒りました。
「ばあさんや、ばあさんや!」
近所迷惑もかえりみず、おじいさんは大声で叩き起こしました。つまみ食いしようとしていたことなど、すっかり忘れています。
「どうしたんですか、おじいさん」
おばあさんは眠そうな目をこすっています。
おじいさんが怒鳴りつけるように言いました。
「ワシのシューマイ、食ったじゃろ!」
「食べてませんよ」
「いや、食った」
「食べてませんたら」
「それじゃ、10個あったシューマイが6個になってるのは、どういうワケじゃ!」
言いながら、おじいさんはシューマイの箱を開けました。ところが、そこにあるシューマイは3個だけ。
「そ、そんな!?」
目を疑うおじいさんをよそに、おばあさんが怒りだします。
「おじいさん、7個もつまみ食いしたんですか! 医者に止められてるでしょうに!」
「ち、ちがうんじゃ! こっ、これは一体……」
おじいさんはうろたえました。これは何かの見間違いだと思い、いったんフタをもどします。そうして深呼吸すると、もう一度おそるおそるフタを開けました。
すると――、
そこには、ついに一つのシューマイも残ってはいませんでした。
「そ、そ、そんな……!」
おじいさんは、この不思議な現象に全身を震わせました。そして、もともと心臓の悪かったおじいさんは、そのショックで死んでしまったのです。
「お、おじいさん! おじいさんや!」
悲しみにくれるおばあさん。
倒れたおじいさんの横には、カラになったシューマイの箱とフタ。そのフタの裏には、きれいに並んだシューマイが10個、くっついておりました。
翌日、おじいさんの葬儀がしめやかに行われました。
お坊さんのお経も終わり、出棺というときです。
「故人と最後のご対面を……」
そう言われて、おばあさんは棺の前に立ちました。
涙に濡れるおばあさんの前で、おじいさんの棺のフタが開けられます。――が、棺の中におじいさんの姿はありませんでした。
ああ、おじいさんは一体どこへ──。
最後まで語り終えると、聴衆から反応があった。
「たしかにシューマイはフタにくっつくな」
「全部くっつくとは、さすがに思えないが」
「しかし、なかなか面白い。とくにオチが」
「たしかに、うまくオチている」
「だれかの駄文とは大違いだ」
よけいなお世話である。しかし、それにしても――、
「本当に知らなかったのか?」
私は訊いた。
「初耳だ」
「聞いたことがない」
「おなじく」
私は頭を抱えた。
日本の教育システムには致命的な欠陥があるのではないか。
すでにそうした警鐘は鳴らされて久しいが、早急な改革案が必要なように思う。このままでは、我が国の伝統文化はあっというまに忘れ去られてしまうに違いない。「恐怖のシューマイ」のごとき話は、常識として備えておくべきではなかろうか。いざ死ぬという段になって棺桶のフタにくっつくこともできないようでは、人として恥ずかしい。
――という私の思考を寸断するかのように、一人の男が言った。
「で、おじいさんの死体はどこに行ったんだ?」
ちゃんと話を聞いていたのか、おまえは。