車内図書館観察レポート


 電車に乗ると、さまざまな人間に出会う。
 平日の午後6時。東京発千葉行きの総武線は、いつものように通勤ラッシュのピークを迎えようとしていた。乗客は会社帰りのサラリーマンやOLが多い。皆、疲れきった顔でシートに身を預け、あるいは吊り革にぶらさがっている。
 あらためて彼らを観察すると、本や新聞を広げている人間が多いことに気付く。文庫本、漫画雑誌、スポーツ新聞など、それらを読みふけっている人々の数は、車内人口の3割以上にも達するだろうか。睡眠中の2割弱ほどの人間を差し引くと、約半数の人間が活字もしくは写植に目を落としている。そうした人々の中に、少々目を引かれる人物がいた。

 若い女性だ。金色に近いほどに染め上げられた髪を後ろに束ねて、首にはネックレス、耳にはピアス、指にはリングを5、6個と、これでもかと言わんばかりにアクセサリーを身につけている。エナメル質の革のコートと膝まであるロング・ブーツが良く似合っていた。まるで、ハリウッド映画に登場する無軌道な若者の見本みたいな女性だ。
 彼女は右手で吊り革につかまり、左手で一冊の本を開いていた。大きい本だった。両手で開かなければ読みにくいであろうその本を、彼女はこの帰宅ラッシュの中で懸命に読みふけっているのである。
 彼女の隣に立った私は、なんとなくその本に目をやった。

 一瞬、私は目を疑った。
 そこに描かれているのは、何十種類もの魚の絵だった。
 アジ、サバ、タイ、ニシン、ブリ、サンマ……。
 何だ何だと思う間もなく、彼女はページをめくった。
 タコ、イカ、エビ、カニ、アサリ……。
 そういった魚介類のイラストが、フルカラーで描かれているのである。魚介類の図鑑かとも思ったが、それにしては変にかたよりがあるような気がする。そう、「食」の方向に。
 彼女がさらにページを繰ると、私の疑問は瞬時に氷解した。

「本書で使う道具」として、包丁から俎板、鍋、フライパン、計量カップといったものが並んでいたのである。なるほど、料理の本だったというわけだ。
 次のページからは、さっそく料理の紹介と調理法の解説が始まっている。

 ――しかし、ちょっと待てよ。
 私は、思わず彼女の姿格好を再確認してしまった。
 この娘が? このマリファナでもやってそうな彼女が料理するのか? それも、魚料理を? 魚よりもむしろ男を料理していそうな、この女が?
 いや、偏見だとはわかっている。容姿と料理の腕前には何の関連性もない。それは明らかだ。こう見えても、彼女は調理師免許を持つ料理人かもしれない。料理の世界では知らぬ者はいない名人かもしれないのだ。『活け造りのヨーコ』とかいって。勝手に名付けてしまったが許してくれよ、ヨーコ。

 ヨーコは一心不乱に料理本を凝視していた。混み合う車内で、本の大きさゆえに随分つらそうな体勢を強いられている。
 それにしても、およそラッシュ時の電車内で読むような本ではなかった。自宅で机の上に置いて読むべき代物だ。そのサイズに比例して、重量もかなりのものであろうと思われる。私などは非力であるものだから、見ているだけで腱鞘炎になりそうだ。それとも筋力トレーニングのつもりか、ヨーコよ。そういえば腕が太いな、ヨーコ。

 おそらく、私の明晰な推理力から察するに、ヨーコはこれから彼氏の部屋へ料理を作りに行くのだ。そのための勉強を今になって始めているのだ。そう考えれば、彼女のめかし込んだ服装も合点がゆく。うらやましいではないか、ヨーコの彼氏よ。
 しかし、ヨーコよ。いまごろになって勉強しているようでは遅いのではないか? そんなことで、彼氏を納得させるだけの料理を作れるつもりなのか? 料理の世界を甘く見過ぎていないか? あるいは彼氏の味覚を甘く見過ぎてはいないか?

 しかも、ヨーコがページをめくる手を止めて先刻から熟読しているのは、「イカメシ」のページなのであった。いきなりそんなマニアックなものを彼氏に食わせるつもりか、ヨーコ。ちょっと何かまちがってないか? ほかにも料理のレシピはいくらでもあろうに、よりにもよってイカメシか。悪いことは言わない、やめておけ。なにも、そんなチャレンジ精神旺盛なところをアピールする必要はない。もっと安全策を取るべきだ。イカメシで外してしまったら、二度と取り返しがつかないぞ。君は一生、「イカメシを作った女」というレッテルを貼られることになるのだ。良いのか、本当に。後悔しないのだな?
 ――かと思うと、ヨーコは再びページをめくりはじめた。どうやら、イカメシ案は保留のようだ。ヨーコにも冷静な判断力というものがあったらしい。よかったな、ヨーコの彼氏よ。……いや、私は好きだがね、イカメシ。

 だが、次にヨーコが手を止めたのは「ウドとイカの梅ソースあえ」だった。
 私はその料理を食べたことがないのであまり強くは言えないのだが、もう少しノーマルな料理を彼氏には食べさせるべきではないか? これならイカメシのほうがまだ一般的だったぞ。
 ――おっと、またページをめくるのか。ずいぶんと移り気だな。浮気性かもしれぬ。気をつけたほうが良いぞ、ヨーコの彼氏よ。
 次は……、イカの姿焼き?
 またひどくシンプルな方向に走ったな、ヨーコ。たしかに、それなら大きな失敗はあるまい。だがそれにしても、なぜそこまでイカにこだわるのだ? ほかに食材はないのか? それとも単にイカが好きなのか?

 彼女はさらにページをめくる。
 手が止まったのは、「カキとコーンのクリーム焼き」だった。だから、そういう料理はやめろと言ってるだろ。せっかくイカの呪縛から解き放たれたというのに、まったく学ばぬ女である。
 その後もヨーコは、「カキの茶碗蒸し」、「カキのケチャップ炒め」と、正道とは言えぬ料理にばかり興味を示すのであった。完全なマイナー志向である。さらには、「タコの和風チャーハン」、「タコ焼きコロッケ」と、あらぬ方向へヨーコの食指は広がってゆく。何なんだよ、タコ焼きコロッケって。
 ここに至って、ようやく私はヨーコのゲテ食志向に気付いた。彼氏も災難である。自然災害だと思って耐えてくれ。

 そうこうするうち、満員電車は県境を越えた。
 ヨーコが窓ガラスの向こうの夜景に目を移す。肩に提げていたバッグを手に持ち替え、慌ただしげに本を閉じてバッグにつっこもうとした。どうやら次の駅で降りるようだ。
 が、彼女は一度閉じたその本を再び開いた。なにか思い出したかのように。そうして彼女はパラパラとページをめくり、「イカメシ」のページに折り目をつけてバッグにつっこんだのである。
 同時に電車が駅に到着し、彼女は颯爽とした動作で車両を降りていった。

 初志貫徹。すばらしい信念である。
 ……しかし、そんなにもイカメシに自信があるのか、ヨーコよ。



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