置換に注意


 ついさきほどのことだ。見知らぬ街の商店街を歩いていて、奇妙な看板を見かけた。いや、大袈裟に言うほどのものではなかったかもしれない。ただ、私は形容しがたい違和感を覚えた。

 薄汚れた木製の看板。その表面に毛筆体の文字で、こう大書されていたのだ。

「らめーん」

 経文の一種かと思った。あるいは、なんらかの掛け声だろうか。
 なにしろ「らめーん」なのである。「らーめん」ではないのだ。その下には「ぎょーざ」と書かれているが、それと「らめーん」とは何の関係もない。
 おそらく、この店は「らめーん」と「ぎょーざ」を売っている店なのだ。「ぎょざー」でなくて良かったと思うのは私だけではなかろう。

 腹がへっていないにもかかわらず、つい店の中に入りたくなる。
 店に入り、テーブルについてこう言うのだ。
「オヤジ、味噌らめーんの大盛りを持ってこい」
 これで「味噌らーめん」が出てくるようなら、すぐさまJAROに訴えなければならない。私がオーダーしたのは「味噌らめーん」であって「味噌らーめん」ではないのだ。看板にそう書かれているのだから、まちがいない。

 だが、このときはちょうど食事を終えたばかりで、とてもではないが味噌らめーんを食べる気にはなれなかった。ぎょざーだったら、ためしてみてもよかったのだが。
 命拾いしたな、らめーん屋のオヤジよ。

 それにしても、「らめーん」という言葉には実に不思議な響きがある。たった一文字を入れ替えただけでこれほどの情感を醸し出す例は少ない。
 以前、「まーぼどふー」というメニューを目にしたことがあるが、「らめーん」ほどのインパクトはない。これに匹敵する例といえば、「しゅまーい」とか「ちゃはーん」ぐらいだろうか。なぜか中華系が多いが、これにはなんらかの因果関係が存在するのだろうか。謎である。
 これを西洋風に「ケキー」とか「ラグタン」とやっても、おもしろくもなんともない。……いや、「ラグタン」はちょっとおもしろいかもしれないが。

 このような一文字だけを入れ替えることによって生み出される玄妙さや幽玄といったものは昔からよく使われる手法で、それは料理の範疇だけに収まるものではない。
 その中にはたとえば「あたしのジョー」とか「はだしのンゲ」などの作品が存在し、古来より人々をたのしませてきた。かのジュリアス・シーザーが死の間際に「ブルータス、おまえかも」という言葉を残したのは、有名な事実だ。

 これらは、たった一文字だけを入れ替えるというのが重要なポイントであって、これを二文字以上入れ替えたりすると、その面白味は完全に失われる。「めらーん」とか「ゅしまーい」、「あたしのョジー」などとやられても、そこには玄妙さのカケラもない。  万が一、これがおもしろいと思った方には、いちど自らのギャグセンスを見つめなおしてみることをおすすめする。私は既に見つめなおしておいた。

 そのような取り留めのない思考に脳を働かせながら街を歩いていると、「らめーん」に匹敵する看板を見かけた。それはまさに中華に対する日本料理からの反撃であった。

「ばそ」

 手打ちの「ばそ」だそうである。右から読むのではないか、などと考えてはいけない。たとえ、その下に「んどう」と書かれているのを見たとしても。



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