真夏の夜の決闘
それは、ある真夏の夜のことだった。夕方に降った雨のために比較的涼しい夜だったのを覚えている。
空腹だった私は、いつものようにオレンジ色の看板を探して車を走らせていた。
初めての道だった。目的の看板は、なかなか見つからない。やきもきしながら片側三車線の国道を行くうち、ふと一台の車が後方にピッタリとついてくるのに気付いた。私は60キロ制限の道路を60キロで走らせるような運転をしていた。ふつう、追い抜くはずだ。が、後方の軽自動車は私と同じく法定速度を遵守しているのである。
まさか尾行されているのでは――。そう考えたが、心当たりはなかった。気にしないことにして、オレンジ色の看板を探すことに集中した。
じきに、目的の看板が視界に入った。
「吉野家」
そう書かれた看板が目印だった。
ウインカーを出し、せまい駐車場へ車を乗り入れる。――と、後方の軽自動車も同じように乗り入れてきた。どうやら、同じ目的地に向かっていたらしい。
手早く駐車し、まっすぐ店内へ。カウンターにつき、
「ナミ、ツユダク、ギョク」
いつものように注文した。
直後、入り口の自動ドアが開いて3人の女性が入ってきた。おそらく、先刻まで私を尾行していたのはこの3人に違いない。それにしても、3人ともまだ若い。二十代前半、あるいは十代後半かもしれなかった。にもかかわらず吉野家である。ほかに選択肢はなかったのだろうか。それとも、数ある選択肢の中から吉野家を選んだのであろうか。だとすれば、なかなか見どころのある女子だと言える。
3人は、私のすぐ横に並んで腰を下ろした。ズシッ、という重い音が響いたのは、私の隣に座った女のせいだ。
彼女たちは店員に向かって順に注文した。
「牛丼の並とゴボウサラダ」
「えーと、あたしはけんちん定食」
「特盛りのつゆだくと、ギョク」
なかなかやるな、この女。そう思った。
女だてらにつゆだくを注文するとは、ただものではない。ましてや「ギョク」とは。あるいは牛丼教の信者だろうか。――それとも彼女の体型からすると牛信者かもしれない。
「つゆだくって、なに?」
一人の女が、そう質問した。彼女は牛丼教徒ではないようだ。
「つゆを多めにした牛丼のこと」
信者の答えは簡潔だった。
「だったら『つゆたく』じゃないの?」
「どうして?」
「だって、つゆが『たくさん』入ってるんでしょ?」
「うーん。それは気がつかなかったかも。でも、『つゆだく』は『汗だく』と同じはずだから……」
比喩の例は悪いが、彼女の言うとおりだ。なにしろ吉野家の公式発表が「つゆだく」としているのだから、まちがいない。世の中には、それを承知の上で「つゆたく」と言っている人もいるようだが。
彼女は続けた。
「それに『たくさん』が語源だとしても、『子沢山』とか『実沢山』て言うじゃない。どっちも『だく』だよ」
さすがに信者である。みごとな論理だった。助け船を出そうかと思った私だが、その必要はなかったようだ。
「早い、安い、旨い」の売り文句通り、注文から一分と経たないうちに私の前に牛丼が出てきた。わずかに遅れて、隣席の信者の前に特盛り牛丼が置かれる。
さて、お手並み拝見――。私は彼女の手元に視線を向けた。
どうやら、私の目に狂いはなかった。
彼女は恐ろしく無駄のない動きで玉子をかきまぜると、それを迅雷のごとき素早さで牛丼に投入し、そのうえ紅生姜までをも追加したのである。芸術的なまでに洗練されたその動きには、非の打ちどころがなかった。
出遅れた思いで私が玉子に箸を入れるうち、彼女はガッシリと抱えたドンブリと大きく開いた口腔の間で箸を動かしはじめた。洗練されたストロークだった。乱れひとつない規則正しいリズムに、私は知らず見惚れていた。
もはや間違いない。彼女は牛丼教徒だ。こんな場末の吉野家で同志を見つけることができるとは。無論、相手が牛丼教徒であれば、こちらもそれなりの対応をせねばならない。
私は目の前の牛丼にとりかかった。
牛丼を咀嚼する際の注意点。それは、リズムである。とにかく一定のリズムを保ったまま、常に腕と口を動かし続けなければならない。このリズムは、早ければ早いほど良い。2ビートより4ビート、4ビートより16ビートのほうが優れているのである。――いまだに16ビートを刻む信者を見たことはないが。
規則正しいリズムを刻むコツは、とにかく一心不乱に食うことだ。ほかの何物にも心を動かされてはいけない。牛丼と自分だけの世界を構築すること。それが牛丼咀嚼の奥義である。
その点、牛丼教徒の彼女はよく理解していた。ツレの友人と言葉を交わすこともなく、彼女は変拍子気味のリズムを刻み続ける。それは既に芸術の域にまで昇華された食いっぷりだった。まさに食の芸術と言っても過言ではない。
だが、私とて牛丼教の一人である。やすやすと負けるわけにはいかなかった。慣れない4ビートのリズムで、彼女の後を追う。
いい勝負だった。少なくとも、私はそう思っていた。
が、わずかの不注意が勝負を分けた。
肉と米のバランスが少し悪いな──。彼女のドンブリを見て、私が気付いたのはそれだけだった。そのとき、彼女は明確な意図をもってそのバランスを作り出していたにも関わらず。
「ライスください」
店員に向けて発された彼女のその言葉に、私は石化した。
石化する寸前、彼女のドンブリを私は確かに見た。そのドンブリに米はなく、ただ肉だけが残っているのであった。
そうか。そのための特盛りだったか。
気付くのが遅かった。私は負けたのだ。
牛丼(並)を追加するような悪あがきは見せたくなかった。
勘定を済ませると、私は彼女の背に敬意を表して外へ出た。
牛には勝てない――。泣き言のように呟くのが、私にできる唯一のことだった。
![HOME](../icon/home.gif)