誕生日の夜に


 十月だというのに蒸し暑い夜だった。夜になっていくらか涼しくはなったものの、日中の強い陽射しによって熱せられたアスファルトの放つ熱は簡単に消え去りはしない。こもったような熱気と湿度が街を支配していた。その暑さから逃れるのが、男の目的だったのかもしれない。

 ハンカチで額をぬぐいながら、男は狭く開いた自動ドアをくぐり、その空間へ入り込んできた。
 多くの者にとって、その空間は聖地と認識されている。日に何百人もの礼賛者が訪れる、神聖なる地――。
 外の暑さのためか、男は疲れきった表情をその面に浮かべていた。足取りも重く、のっそりとした歩調で祭壇に向かって歩く。強すぎるほどに冷房の効いた聖地で、男は最も冷房の効果を受けることができる場所に腰を落ち着けた。祭壇の最深部に位置する場所だった。
 と同時に、一人の神官から声がかけられる。
「いらっしゃいませ」
 男の前に差し出された椀には、熱い茶。それがグラスに注がれた冷水であったならば、男がその後の失敗を犯すこともなかったかもしれない。
 男は、苦々しく眉を歪めて熱い椀を手に取った。茶を一口飲み、つぶやくように言う。
「トクモリツユダク、ギョク、ハク」
 低く響く声で紡がれた真言は、たちどころに神官を動かした。すぐさま男の前にギョクが運ばれ、次にハク、トクモリがやってくる。

 男は素早くギョクの中へ醤油を混ぜ込み、目にも止まらぬ早さでハクの上へ広げた。そのまま、返す手でトクモリから一片の肉をつまみ、ギョクの染み込んだハクと共に咀嚼する。それが、男のやりかたであるようだった。
 が、その一口を嚥下した時点で、男の動きが止まった。
 神器(ドンブリ)の上に箸を置き、男は祭壇(カウンター)の一部に目を向けた。その部分には、スライド式のドアがあった。ドアの向こうは小型の冷蔵庫として機能している。庫内に蓄えられているのは、サラダや漬物など何種類かの食物だった。
 男は、やにわにそのドアを横に滑らせた。慣れた手つきだった。男の目が獲物を狙う猛禽のように険しく動き、数秒後にはその右手が伸びて漬物のひとつをつかんだ。

 そこまでの男の動きには、一点の曇りもなかった。あらゆる動作が信者としての品位を示していた。男の失敗は、ごくわずかな過失によるものだった。あるいは、邪教の神が気まぐれに悪戯を働いたのかもしれない。
 男の伸ばした右腕。その上腕部がトクモリを載せた神器に触れたのは、ほんの一瞬のことだった。どういう力が作用したものだろうか。ごく軽く触れただけのはずの神器は、あっけなく転がった。肉と米、それに大量のツユを伴ったまま。そして、転がった先には男自身の手によって開かれたドアがあった。その中へ、神器は転がり落ちた。

 ガラッシャーバコバコ(サラダが潰れる音)ベシャベシャ(ツユ) ーーン(神器の割れる音)

 凄まじい音が聖地の中にこだました。
 唖然とする信者たち。なす術もなく立ち尽くす神官。
 神器と冷蔵庫の衝突する破壊音が静まった一瞬、世界は沈黙に包まれた。

 数秒の間、男は動かなかった。――いや、動けなかった。まだ一口しか食べていないトクモリをその手から喪失してしまったこと。それが男の精神を崩壊させた。せめて半分ほども食べた後だったならば、男の精神状態がそれほどまでに均衡を失うことはなかったかもしれない。
 しかも、トクモリだ。オオモリでも、ましてやナミでもない。トクモリなのである。まごうかたなきトクモリ。それを一口食しただけで、冷蔵庫へ落下させてしまったのだ。男の動揺は目に見えて余るものだった。くわえて、ツユダクという選択が事故の被害を増大させていた。冷蔵庫内に飛び散った大量のツユ。サラダの上にぶちまけられたそれら褐色の液体は、肉や米と混ざり合って収拾不可能な事態を呈している。どう見ても、サルベージは不可能だった。

 このとき男の頭にあったのは、ナミにしておけば良かったという後悔だけだった。神官への謝罪、商品の弁償などという考えはなかった。ナミ2丁(ふたちょう)にしておけば、どちらか一方は救われたに違いない。冷蔵庫への被害も少なかったはずだ。さらには、過失を犯すこともなかったかもしれない。
 その次に男の頭を悩ませたのは、残されたハクをどうするかという問題だった。不幸中の幸いと言うべきか、ギョクはトクモリでなくハクの方に投入してあった。したがって、これだけでハクを片付けることも不可能ではない。だが、聖地に赴いておきながら牛をしばかずに帰れるものか。――否。

 男は、瞬時に計算をはじめた。トクモリ、ギョク、ハク。それらの代金を支払った上で、新たにギュウドンを注文することができるだろうか。男の財政状況は厳しかった。トクモリを選んだことさえ、男にとっては大変な英断だったのだ。ましてや、ギョクにおいてをや。
 男は――いや、「男」などという婉曲的な表現は終わりにしよう。「私」だ。――私は、トクモリをあきらめナミの追加注文を決定した。これもまた、貧困な財政状態からは考えられない勇断だった。しかし、今日は私の誕生日だ。これぐらいの贅沢は許されるだろう。誰一人祝ってくれない誕生日をみずから祝うのに、これほどふさわしいプレゼントはあるまい。

 以上の決定に至るまでに要した時間は2秒ほどだった。事故発生から3秒弱である。冷蔵庫の中でひっくりかえった神器の下、じわじわとツユが浸蝕を進める。ゆっくりと、しかし確実に被害が広まる中、私は一人の神官に向きなおり、強く言った。

「ナミ、ツユダク」

 神官の復唱はなかった。
 教育がなっていないようだ。
 ここには、二度と来るまい。



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