Jの右腕


 すこし退屈な昔語りをしよう。

 中学生のころの話だ。そのころから勉強がきらいだった私は、学校では教師の目を盗んで授業中に小説を読み、学校が終わればゲーセンへ直行して悪友どもと遊び散らし、暗くなって家へ帰れば寝るまでファミコンという、じつにどうしようもない生活を送っていた。
 十代の私は、今と比較にならないほどゲームにおぼれていた。ほとんどゲームをやるために生きていたといっても過言ではない。ファミコンにパソコン、アーケードと、ゲームに触れない日はなかった。この世の中にゲームより楽しいものなどないと、本気で思っていた。クラスの友人たちが芸能人や野球の話題で盛り上がるのをよそに、私と何人かのゲーム仲間たちは、一日中ゲームの話ばかりしていた。当時の私にとって音楽もスポーツも、ゲームとは比べるべくもないほどつまらないものだった。

 毎日のように通うゲーセンは、自宅のようなものだった。学校が終われば制服のまま直行し、暗くなるまで遊び続けた。ちょうど私が小学校を卒業した春に施行された新風営法のせいで、夜9時とか10時とかいう時刻まで遊び続けるのは不可能になっていたが、制限時間ぎりぎりまで粘っては顔見知りの店長に追い出されるという、そんな日々の繰り返しだった。
 そのゲーセンは1プレイ10円から30円という良心的な料金設定で、しかもボーリング場を改装して建てられた店内は広々として居心地が良かった。当時の世相もあってゲーセンには不良も多かったが、気心が知れてしまえば彼らも良い連中だった。15年経った今でも、私はあれ以上に居心地の良い空間を知らない。この店で、私のギルはカイを救い出し、ソルバルウはガンプの野望を打ち砕いた。その店では、私はちょっとした”顔”だった。

 そんな風にして、中学校の制服にも慣れてきたころのことだった。ある日の朝、教室に入るやいなや、数人のゲーム仲間が私を取り囲んだ。そして、「すごいゲームが現れた」ということを口々にまくしたてた。その前日、私は新しいファミコンのソフトが手に入ったか何だかで、ゲーセンに行かなかったのだ。
 私は訊いた。なんというゲームなのか、と。のちにゼビウス以来の革命といわれる、それがグラディウスだった。

 初めてグラディウスを目にしたときの感動は、忘れもしない。緻密でリアルに描き込まれたグラフィックが、まず私に衝撃を与えた。背景のゴツゴツした岩塊の質感、自機ビックバイパーの冷ややかで重厚な金属感、そして漆黒の宇宙空間を切り裂く青白いレーザー。そのすべてが、これまでのゲームの常識をくつがえしていた。これほどに美しいグラフィックがあるのかと、私は驚嘆した。そして、グラフィック以上に鮮烈なのが音だった。エコー感を保った軽快なBGMは、音質、メロディともに完璧だった。ザコの破壊音やレーザーを撃ち出す効果音までもが、一瞬で私の耳を虜にした。
 つまらないはずがなかった。席があくのを待って、私は即座にコインを投入した。そうして、半年間に及ぶ私とグラディウスとの勝負が始まった。

 今となってしまえば、簡単なゲームだ。一周クリア程度なら、すぐにできるだろう。しかし、グラディウス最大の特色ともいえるパワーアップ・カプセルによる自機の強化システムに、当時の私は――いや誰もが、慣れてなかった。
 逆火山ステージと呼ばれる4面、それに敵要塞内部の最終面で、何度となくつまづいた。グラディウスはそのシステム上、いちど撃墜されてしまうと立てなおしが困難だった。残機が20機あろうと30機あろうと、いちど死んでしまえば全滅。そんなゲームだった。
 とりわけ3周め以降の4面では実質上、復活は不可能といわれ、名を馳せた多くのプレイヤーたちがそこからの復活をあきらめるにいたった。最終的にはあるプレイヤーがそこからの芸術的ともいえる復活パターンを編み出して脚光を浴びるのだが、それはまた別の話。

 私が初めて最終ステージをクリアしたのは、もう夏休みも近くなるころだった。そのころ、すでに全国を見渡せば2周3周とクリアしているスコアラーもいたのだが、私の行くゲーセンではまだ全面クリアの声は聞こえてこなかった。事実、スコア・ランキングでは常に私のスコアがトップで、それ以下には見知った常連たちのスコア・ネームが並んでいた。日曜日など、開店から居座り続けると「G・I」というネームがランキングを埋め尽くすこともあった。このころ、私はそういうスコア・ネームを使っていたのだ。

 それが破られたのは、学校が夏休みに入ってしばらくしてからのことだった。ある日の夕方、いつものようにゲーセンへ行くと、グラディウスのスコア・ランキングに見慣れないネームが刻まれていた。「J」という、たった一文字だけのエントリー。性別は男で、ホロスコープは天秤座だった。私と同じだったので、はっきり覚えている。グラディウスのネーム入力には、そういう選択があったのだ。そして、そのスコアに私は目を疑った。
 たしか、150万点を超えていたと思う。そのころの私のハイスコアが80万ほどだったから、その差は歴然だ。突然のライバルの出現に、私は燃えた。絶対にお前を超えてみせると、まだ見ぬ敵に布告した。
 翌日の夕方にも「J」のネームはあった。天秤座、男。すぐにいなくなる気配はないようだと私は考えた。

 それからというもの、私は一日も休まずゲーセンへ通いつめた。常連たちと情報を交換し、やがて3周めをクリアできるようになるころ、スコアは150万に届いた。
 もちろん、「J」のほうもじっと待っているわけはなかった。2日に一度ぐらいの割合で、彼のネームは確実にランキングのトップを飾っており、それは着実に彼の技術が磨き上げられていることの証左となった。グラディウスでは、4周め以降の難易度は上がらない。したがって、あとは根気と集中力の勝負だった。そのころの私は、ゲームにかけての集中力だけは他の人間に負ける気がしなかった。
 暑い夏だった。ろくにクーラーの効かないその店で、70円のファンタを飲みながら、私は毎日のようにビックバイパーを駆った。たった数枚の十円玉に、馬鹿馬鹿しくなるほどの時間をかける勝負が続いた。

「J」は、いつも開店直後にやってくるようだった。ゲーセンの店長や何人かの常連から、そういう情報が流れてきた。私はといえば、だいたい夕方にしか店へ行かなかったので、「J」と顔を合わせることはなかった。それでも、ときおり閉店まぎわに現れるという店長の言葉から考えると、「J」は確実に私の存在を知っていたはずだ。ランキングで常に彼と並ぶ私のスコア・ネームを。
「J」のスコアは伸び悩んでいるようだった。300万点前後で終わるスコアが連日つづくようになり、やがて私はそれに追いついた。宣戦布告から3週間ほど過ぎていただろうか。400万弱のスコアを叩き出した私は、その日ようやく「J」に勝利した。

 だが、勝利の余韻にひたっている間はなかった。次の日、「J」は何と550万というスコアを残していたのである。今まで力を抜いていたのか、それとも私のスコアを見て奮起したのか――。ともかく、ここにいたって私たちの間に絶対の勝利条件が提示された。
 すなわちそれは、先に999万点(カンスト)を達成する、というものだった。取り決めなど必要なかった。顔も知らない、言葉も交わしたことのない相手だったが、それだけははっきりしていた。スコアにはスコアでもって応えるのみだった。私のビックバイパーは、そうして顔も知らぬライバルを倒すために出撃を繰り返した。
 ほかのゲームで「J」のエントリーを見ても、それほどの競争心は掻き立てられなかった。彼にしても、同じことだったのだろう。当時、私がランキングに名を残したメトロクロスやエグゼドエグゼスといったタイトルに、「J」のネームが刻まれることはなかった。私たちの戦いは、だからグラディウスだけで繰り広げられた。
 昨日は勝ち、今日は負ける。そういう日が続いた。1000点ぐらいの差で負けたときなど、筐体を蹴りつけたくなるほどくやしかった。たまに彼のネームがランキングされていない日があると、なにかあったのかと心配になるほどだった。その仕返しに3日ぐらい店へ行かなかったこともある。まるで男と女の駆け引きだ。言うまでもないことだが、そういう日には他のゲーセンに行っていた。とにかく負けたくなかったのだ。

 さて、結果から言おう。
 最終的に勝利したのは「J」だった。夏休みはとっくに終わり、秋になっていた。暖房をつけたほうが良いのではないかと思うほどに気温の低いその日、私は「J」の9999900というスコアを確認した。
 負けたんだな、とすなおに思った。敗北感はあったが、くやしくはなかった。こいつになら負けてもしかたない。そう思った。その日、私はグラディウスをプレイしなかった。

 次の日曜日、私は開店と同時にゲーセンへ足を運んだ。
 グラディウスの筐体には、プレイヤーがついていた。私服だったが、高校生ぐらいに見えた。直感的に「J」だとわかった。一分の無駄もないその洗練された動きは、並のプレイヤーに可能なものではなかった。必要最小限の動きしか見せない左手と、対称的によく動く右手が印象的だった。
 彼のパターンは独特だった。スピードアップを3段階まで上げ、レーザーをほとんど使わずダブルショットでステージを攻略していた。彼以外にそういうパターンを使うプレイヤーを、私は見たことがなかった。
 数時間後、彼は800万点ほどのスコアを出して「J」とエントリーした。
 イスを立った彼と、そのとき初めて目が合った。彼は無表情だった。私の愛想笑いにもこたえなかった。この時代の中学生にとって、高校生は畏敬の対象でしかなかった。日本中で、暴走族が抗争を展開しているような時代だった。「J」がそういう人間であるようには見えなかったが、私はどうしても声をかけることができなかった。13才の子供に、それは厳しすぎる試練だった。「J」は、そのまま店を出ていった。
 私は彼の座っていたイスに腰を下ろした。彼の使っていたパターンは把握していた。999万だろうと9999万だろうと、出せる自信があった。そして、私はグラディウスをカンストした。敗北感だけがあった。達成感など微塵もなかった。

 それからもしばらくの間、「J」のネームはグラディウスやそれ以外のゲームで見かけたが、ある日を境にぱったりと見かけなくなってしまった。そんなものかなと思いながらも、私はそれとなく店長に訊ねてみた。
 事故にあったらしい、と店長は答えた。「J」と同じ高校に通う常連客に聞いたということだった。しかし命に別状はないらしい、とも店長は言った。私は胸をなでおろした。
 その後、「J」はまったく姿を見せず、店長の言を証明した。
 じきに、私はグラディウスをやらなくなった。私のスコア・アタックの対象は、そのころ発売されたばかりの魔界村に移っていた。2面で苦戦しながら、私は「J」ならどう攻略するだろうと考えていた。

「J」が再び姿を見せたのは、年が明けた2月ぐらいのことだった。いつものように学校の授業を終えてゲーセンに行くと、グラディウスの前に彼は座っていた。そのときの、カチャカチャというボタンの音は今でも耳に残っている。
 彼の右腕は義手になっていた。制服の袖からプラスチックの手が伸びて、その指先がショットボタンを叩いていた。硬いゴムとプラスチックのぶつかる音が、ひどく間抜けに聞こえた。
 義手に慣れていないのか、義手自体が精巧なものではないのか、その動きは無様を通り越して哀れですらあった。ショットボタンを押しっぱなしにしていれば済むレーザー装備のときにはまだ良かったが、連射しなければならないダブルに変更したとたん、彼のビックバイパーは撃墜された。一周めの3面だった。スコアは10万点にも満たなかった。そのまま、復活もできずにすべての残機はつぶされた。
「J」の左手が、激しくコンパネを叩いた。右手はコンパネに乗ったまま動かなかった。彼はしばらくの間、イスを立たなかった。私もまた動けなかった。
 彼のうしろで順番待ちをしていた男が、「どけよヘタクソ」と言った。見るからに不良の高校生だった。──黙れ馬鹿野郎。そう思った。こいつはてめぇなんか足元にも及ばないプレイヤーなんだと、そう言ってやりたかった。だが、言えなかった。「J」の右腕は、もはや存在しなかった。ヒジから先を切断したのだろう。そういう風に見えた。機械で作られた義手が、切断された彼の右腕と同じ動きをするはずもなかった。
「J」はゆっくりと立ち上がり、もういちど左手で筐体を殴りつけた。それから背後を振り返り、不良高校生をにらみつけたあとで、私と目を合わせた。
 さびしげな、自らを嘲笑するような表情を、「J」は浮かべた。その表情は、しかし一瞬だけだった。左手でカバンを持つと、彼は走り去るようにゲーセンを出ていった。それが、「J」を見た最後だった。

 そのゲーセンも、数年後には駐車場になってしまった。’80年代の終盤から’90年代の初頭にかけて、ゲーム業界は低迷していた。そうして私は行くべき場所を失い、「J」との再会をあきらめた。
 のちにゲーセンの様式を一変させたストリートファイター2がゲーム業界を再興させるのは、その半年後のことである。



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