ハード・ボイルド指南


 男であれば、一度はハード・ボイルドな生きかたに憧れたことがあるはずだ。
 ハード・ボイルドとは固ゆで卵のことであり、つまりは強固な信念(を持った人物)のことである。揺らぐことのない信念、それを支える強靭な肉体と精神、死に直面しても動じない冷静さ――。それらがハード・ボイルドの条件だ。フィリップ・マーロウやジェームズ・ボンド、工藤俊作といった連中は皆、これらの条件を備えている。
 だが、私たちのように凡俗な人間がこれらを身につけるのは難しい。だれでも魅力的な誘惑や圧倒的な暴力の前には簡単に信念を捨てるし、殺意をもって拳銃をつきつける相手に向かってジョークを飛ばす余裕は持ち得ない。ついでに言うなら、だれもがマーロウやボンドのようなルックスを持ち合わせているわけでもない。
 ハード・ボイルドな生きかたとは、すなわち一つの信念を貫くことである。信念とは、自分にとっての正義だ。いかなる誘惑や暴力にも屈しない正義こそが、ハード・ボイルドの核となる。しかし、信念を貫くのは大変なことだ。たとえば私は牛丼を食べるときには必ずツユダクにするという信念を持っているのだが、吉野家以外の牛丼屋へ行くとたちまちこの信念は破綻する。この信念を貫くために吉野家以外の牛丼屋へ行かないようにすると、今度は一日一回牛丼を食べるという信念を崩されるハメになる。
 また私は居酒屋へ行くと必ずカタヤキソバを食べるという信念も持っているのだが、たまたま入った居酒屋にカタヤキソバが置いてないというだけのことで、この信念も崩壊してしまう。おまけに付け加えると、たいていの居酒屋にはカタヤキソバというメニューが存在しないのだ。
 ことほどさように、ハード・ボイルドを貫くのは難しい。

 これからの世紀末を生き残るのに、男たるものすべからく強くなければならない。強い生きかたとは、すなわちハード・ボイルドな生きかただ。信念を持たない男など、これからの混迷の世紀末を生きてゆくことはできないだろう。
 だが、ハード・ボイルドな生きかたを実践するのが困難であることもまた(私の体験によって)実証済みだ。そこで私は、まず外見からハード・ボイルドに身を染めてゆくことを提案したい。なにごとも、形から入るのは基本だ。では、以下にハード・ボイルドのための形を列挙してみよう。

・ 信念を持つ
 最も重要な条件である。この場合、あくまで外見上のもので良いので、「決して嘘をつかない」とか「女子供は殺さない」とか「金さえもらえば親兄弟でも殺す」とか、そういう信念は必要ない。もっと簡単かつ外面に現れるものが良い。
 たとえば、「歩きだすときには必ず右足を先に前へ出す」「コーヒーには決してミルクを入れない」「ラーメンには酢を入れる」などが挙げられよう。ちなみに私は「ラーメンに酢を入れるヤツはタダではおかない」という信念を持っている。

・ 服装に気を配る
 男たるもの、だらしない格好をしてはいけない。汗くさいTシャツによれよれのGパンを身に付けているようでは情けない。
 では何を着れば良いのかといえば、トレンチコートである。これを着ているだけで、気分はブレードランナーだ。着こなしのコツは、襟を立てること、絶対にコートのボタンをかけないこと、この二つである。凍りつくような真冬の日でも、決してボタンをかけてはいけない。そのかわり、襟を立てるのはOKだ。無論、真夏でもトレンチコートであることが望ましい。この場合は、冬とは逆にボタンをかけても良い。自らを追い込むのがハード・ボイルドな生きかたである。

・ サングラスをかける
 メーカーはレイバンが良い。というより、それ以外は認められない。トレンチコート同様、オールシーズンを通して身につけるべきである。夜中であろうと外してはいけない。むしろ、暗くなってから取り出すぐらいが適切だ。「サングラスなしで夜の街を歩くほど俺は自信家じゃない」ぐらいのセリフが言えれば完璧である。この言葉の意味を問うような愚か者には、冷笑の一つもくれてやれば良い。

・ タバコを吸う
 タバコを吸わずにハード・ボイルドを名乗ってはいけない。両者は切っても切れない関係にあるのだ。タバコはキツイものであればあるほど良い。とりあえずショートホープやピースなどを吸っておけば問題なかろう。マルボロやキャメルも悪くない。タバコの葉を買ってきて自分で巻くのも良い。この場合も、吸っている最中に火が消えてしまうぐらいまで葉の密度を高めるのがコツだ。吸ってはいけないタバコは多く存在するが、メンソール系のそれは最悪である。
 また、タバコを吸う際には煙を直接、肺へ流し込むべきである。このとき、むせてはいけない。それは男にとって、死ぬより恥ずかしいことなのだ。人前でむせてしまったときには、いさぎよく死を選ぶべきであろう。

・ ライターの火力を最大にする
 タバコに火をつけるときも、気を抜いてはいけない。火力は最大に調節し、己の眉を焦がさんばかりにするのだ。ガスバーナーの炎をイメージすると良い。なんならガスバーナーを持ち歩いてもかまわないぐらいだ。
 タバコに火をつけるときにはマッチという選択肢もあるが、これもスーパーで売っているような徳用マッチなどを使ってはいけない。来々軒のマッチも、ハード・ボイルドには適さない。最適なのは、場末のバーで手に入れたマッチである。ただし、「麗子」とか「和代」とかの名前が入ったマッチは論外。

・ 拳銃を所持する
 必須条件である。大型拳銃が望ましい。リボルバーとオートマチックでは、どちらを選んでも良い。信頼性で選ぶならリボルバーだが、故障に悩まされることにハード・ボイルド的な何かを感じる人種にはオートマチックが良い。お勧めは、ワイアット・アープも愛用したバントライン・スペシャルだ。極端に銃身の長いその銃は、扱いにくさでは天下一品である。敵を倒したあとで、その馬鹿馬鹿しいまでに長大な銃身に舌打ちするのがコツだ。
 日本では拳銃の所持資格を得るのは難しいので、狩猟用のショットガンやライフルなどで代用しても良かろう。これらの銃身は切り詰めてトレンチコートの下に隠し持つのが基本である。

・ 酒は蒸留酒しか飲まない
 蒸留酒とはウイスキーやウォッカ、ジンなどのことである。これに対してワインや日本酒を醸造酒と呼ぶ。言うまでもないことだが、ハード・ボイルドな生きかたに日本酒やビールは似合わない。さびれたバーのカウンターでバーボンやジンをストレートであおるのが、男の生きざまだ。カクテルは飲んでも良いが、許されるのはマティーニやギムレットまでである。まちがってもカルーアミルクとかエンジェルズキッスなんぞを飲んではいけない。
 ちなみにバーに入ってから口にしていいのは「マスター、酒だ」という言葉のみである。それ以外、一言も口をきいてはいけない。「酒」の部分を「バーボン」とか「スコッチ」などとアレンジしても良いが、できれば「酒」だけで通じるようにするのが目標だ。「酒」と言ったときに日本酒が出てくるようでは修行不足である。
 酒が出てきたら、利き腕とは逆の腕でグラスを持つ。これは、敵の不意討ちを受けたときのための防護策にほかならない。酒を飲むときにも、決してうまそうに飲んではいけない。馬の小便でも飲んでいるかのような顔をするのがハード・ボイルドな飲みかただ。もちろん、本当に馬の小便が出てきた場合には懐のバントライン・スペシャルを抜いてもかまわない。このときのために利き腕をあけておいたのだ。
 酒を飲み終えても、「おあいそ」などと言ってはいけない。無言で札と小銭をカウンターに置き、静かに立ち去るのである。おつりを受け取るような行動は言語道断だ。貧乏人には務まらないのがハード・ボイルドなのである。つまり私には務まらない。

・ 外車に乗る
 国産車は燃費が良いので乗ってはいけない。BMWやベンツなどの高級車も駄目だ。スポーツタイプの、無駄にガソリンを消費する外車を選ぶのが、ハード・ボイルド的選択である。車自体の価格よりも、燃費の悪さが基準になる。当然、燃費が悪ければ悪いほど良い。いっそガソリンタンクに穴をあけておいても良いだろう。
 注意するまでもないことだが、小型車やワゴン車、トラックなどには乗ってはならない。たとえ他人が運転する場合でも、これらの車に足を踏み入れるのは禁物だ。ただし、麻薬を積んだワゴン車、爆薬を積んだトラックなどは例外として認められる。

・ 職業を選ぶ
 サラリーマンや政治家、教師などといった職業はハード・ボイルド向きではない。魚屋、八百屋、パン屋などもいけない。最悪なのは、保父や小児科医だ。
 男たるもの、すべからく孤独な職につくべきである。最も適した職業は私立探偵とスパイだ。殺し屋も、それらに匹敵するハード・ボイルド専用職である。これらの次に良いのは、刑事、軍人、ヤクザ、テロリスト、バーテンダー、マジシャン、忍者、ライセンスを持っていない医者、耳の聞こえないピアニストなどだ。
 職業を兼用するのも良い方法である。スパイ兼バーテンダー、テロリスト兼耳の聞こえないピアニスト、それに忍者刑事(ニンジャデカ)などは、かなりのハード・ボイルド具合だと言えよう。

・ 家庭を持たない
 ハード・ボイルドなマイホームパパなどというものは存在しない。ハード・ボイルドの世界に結婚という言葉はないのだ。特定の女性とつきあうのはかまわないが、籍を入れてはいけない。その女性が敵対組織に殺されるのがベストである。
 過去に離婚歴があるというのは、なかなかにハード・ボイルド的な人生である。この場合も、離婚相手が敵対組織によって殺されると良い。離婚以前に死別しているのは完璧だ。
 現在結婚している読者は、今すぐ離婚すべきである。男の人生に女など不要だ。相手が承服しない場合は死別の方法を考えたほうが良い。

・ 人には言えない過去を持つ
 過去の秘密が多いほど、男としての魅力は増す。とくに女性から過去のことをたずねられた際には、どんなに些細なことでも答えてはいけない。それでもしつこく訊かれた場合には、「それを話したら俺はおまえを殺さなければならない」とでも答えておけば良かろう。
 とりあえず人を2、3人殺しておくと、なにかと便利である。

・ 雨の日には外へ出る
 雨の降る街を歩くのがハード・ボイルドの基本だ。まちがっても傘をさしてはいけない。トレンチコートのポケットに両手をつっこみ、うなだれるようにして歩くのがコツである。このとき、腹をすかせた小犬を見つけて手を差し伸べたりするとポイントが高い。また、架空の敵を追って全力疾走してみるのも良いだろう。

・ やせ我慢をする
 結局のところ、すべてはここに集約される。夜中にサングラスをかけるのも、キツいタバコを吸うのも、ライターの火力を最大にするのも、燃費の悪い車に乗るのも、雨の日に傘をささないのも、やせ我慢のためなのだ。
 なぜ、やせ我慢をするのか。それは自分を鍛えるためである。苦しみの中に身を置くことで、精神も肉体も鍛えることができる。男たるもの、つねに自己を鍛練しなければならない。ハード・ボイルドとは、そういうことなのだ。では次に、ハード・ボイルド的やせ我慢の例を挙げてみよう。

・ 電車ではシートに座らない。
・ どんなに寒くても暖房をつけない。
・ ヤケドするほど熱いシャワーを浴びる。
・ ホットドッグを食うときには、尋常でないほど大量のマスタードをかける。
・ 銃弾を受けたときには自分で弾丸を摘出し、縫合する。
・ アルミホイルを噛みしめる。

 これらは基本中の基本である。とくにアルミホイルのチューイングは、朝昼晩と欠かしてはならない。
 すなわち、理想的なハード・ボイルド像とは、こういう人物である。

 真夏でもトレンチコートに身を包み、夜はサングラスをかけ、毎日欠かさず牛丼を食べる。職業は忍者刑事で、愛車のガソリンタンクには穴があいている。ショッポに火をつけるのはガスバーナーを使い、つねにアルミホイルを噛んでいる。過去に3人以上の人間を殺めたことがあり、妻とは死別。東京−博多間の新幹線に乗る場合でも決してシートには座らず、雨が降りだすと見えない敵を追って走りまわる。

 キチガイなどと言ってはいけない。これこそ、完璧なハード・ボイルド像なのだ。



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