サファイアの瞳の女


 彼女と初めて出会った二月の夜、千葉は大雪だった。
 まだ高校を卒業して間もなかった私は友人の紹介で雀荘のアルバイトをしており、そのころから昼夜の逆転した生活に身を浸していた。とくに週末はひどいもので、夕方から雀荘へ行くと確実に翌朝まで麻雀を打ち続けるはめになり、最悪のときには金曜日の夜から月曜日の朝まで泊まり込みというケースもすくなくなかった。
 そんな、ぼろぼろに疲れきって家路をたどる日曜日の深夜。雀荘を出て駅へ向かう途中で、私は彼女に会った。終電まぎわの駅構内は人影もまばらで、閑散とした切符売場の片隅に彼女はうずくまっていた。泣いているのだということは、すぐにわかった。
 別れ話の直後だろうかと、そんな風に思いながらも私は関心のないそぶりで彼女の脇を通りすぎようとした。――と、そのとき。
「待って」
 そう彼女が言ったように聞こえた。
 私は立ち止まり、うずくまったままの彼女を見下ろした。
「どうしたんだ?」
 声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げて、その青みがかった瞳で私を見つめ返した。どこか冷たい感じの、しかしきれいな瞳だった。その瞳の濡れた色を見た瞬間から、私はすこし平常心を失っていたのかもしれない。一目惚れ――陳腐な表現だが、それ以外のものではありえなかった。
 彼女は私の問いに答えなかったが、その必要はなかった。こんな冬の夜中に女が駅で泣いている理由など、ひとつしかない。私は手を差し伸べると、彼女を立ち上がらせた。
 すっと身体を起こした彼女は、驚くほどしなやかで艶めかしい動きを見せた。そうして、立ち上がったまま彼女はじっと私の目を見つめた。自分の頬が紅潮したのがわかった。雀荘で飲んだビールが回っていたのかもしれない。――いや、そんな言いわけなど必要としないほど、彼女は魅力的だった。
 どういう言葉を交わしたか、覚えていない。とにかくその夜、彼女は私の部屋で寝ることになった。

 その夜から何回、私は彼女を抱いただろうか。覚えていないが、十回や二十回どころではなかった。彼女が部屋にいるあいだ、私は一日とあけずに彼女を抱いた。一日に五回でも六回でも、気が済むまで抱き締めた。彼女もそれを望んでいたし、それが自然だった。暖房のない四畳半の部屋で、私たちは互いの時間と体温を交換しあった。
 彼女の細い身体は恐ろしく柔軟で、私の望むどんなことにでも応えてくれた。気性の激しい彼女は私の腕に抱かれてもじっとしておらず、率先して動いた。そうした彼女とのやりとりは飽きることがなく、私の知る他のどんな女よりも私を満足させてくれた。
 そうして、二月の始まりから終わりまでの一ヶ月間を、私たちは一つの部屋で過ごした。

 一ヶ月間、私は彼女を「おまえ」と呼び続けた。私がいくら名前を訊いても、教えてくれなかったのだ。彼女は徹底して自分のことを語らなかった。家はどこなのか、家族はいるのか、歳はいくつなのか――。それらの問いに、彼女は一切答えようとしなかった。
 私も、そうした質問をしつこく訊いたりはしなかった。そんなことをすればいつでも出ていってしまうようなところが彼女にはあって、結局私は彼女についてほとんど何も知ることができなかった。私が知り得た彼女のことといえば、濡れた瞳の青さや抱き締めたときの柔らかさと匂い――それに澄みわたるような声だけだった。
 ただ、帰るべき家がないことだけは何となく察することができた。その理由を彼女は語らなかったが、直情的な彼女がどういう形で周囲の人間とうまくやっていけなくなったのか私にはすぐ理解できた。
 彼女は私の知る限り最も感情的で、そしてとにかくきまぐれだった。ついさっきまで私の腕の中で眠っていたかと思えば急に起き上がってどこかへ行ってしまったり、おいしそうに食事をしていたと思ったら突然食器をひっくり返したりといった具合に。そういうときの彼女をなだめようとすると決まって暴力をふるわれ、痛い思いをするのだ。仕方なくほうっておくと、一時間も経たないうちに私の寝ているベッドに入り込んできて、暖めてほしいとせがむ。まるで子供のようなそんな彼女のふるまいには辟易することもあったが、それもまた魅力のうちだった。

 仕事も何もない彼女は昼も夜も関係ないといった調子で、寝たいときに眠り、食べたいときに食べていた。彼女のためのベッドも食事も、すべて私が整えた。彼女は一切の家事ができないくせに私にはそれを要求する性格で、料理の出来が悪いとたちまち機嫌をそこね、こんなものを食べるぐらいなら外で食べてくるわとでもいわんばかりに、口もきかずに外出してしまうのだ。我ながらひどい扱いを受けていたと思うが、それでも惚れた弱みというのだろうか、私は一種被虐趣味にも似た感覚を覚えながら彼女に尽くしていた。
 今から考えれば、彼女には幼少時の人格形成になにか問題があったのかもしれない。情緒不安定でつねに誰かのぬくもりを求めている彼女は、体だけが大人になってしまった子供のようだった。それでも、そんな欠陥だらけの彼女を私は愛した。われながらあきれるほど、彼女の美しさの虜になっていたのだ。若かったのだと思う。

 しかし、そんな生活が長く続くはずもなく、二月の終わりのある夜に外へ出ていった彼女は、そのまま二度と帰らなかった。ちょうど彼女と出会った日のような雪が降っていて、雀荘での仕事を終えて帰宅した私の横をすっと通り抜けた彼女は、いつもと何ら変わりない様子だった。ちょっとそこまで買い物に、という風な感じで出ていって、しかし彼女との関係はそれきりだった。
 私に飽きたということだったのだろう。たしかに彼女は私を満足させてくれたが、私が彼女を満足させてやれたかというと疑問だった。私は高校を卒業したばかりの若造で、彼女をやしなってやれるほどの器ではなかったし、おまけに彼女のような魅力もそなえていなかった。彼女が出ていったのは、したがって必然的な結末だったといえるだろう。
 彼女がどこへ行ったのか、まったくわからなかった。行くべき場所などなかったはずだが、彼女にそんな場所は必要なかったのかもしれない。どこでも好きな場所へ行き、好きな場所で寝る。彼女は、そんな女だった。
 私は彼女を捜さなかった。ただ部屋の大掃除をして、彼女の匂いの染みついた毛布や枕を捨てただけだった。一ヶ月間だけの共同生活はそうして終わり、私はそれまでと変わることなく雀荘でアルバイトを続けたのだが、なぜか麻雀がまるきり弱くなってしまった私はその後一ヶ月でこのバイトを辞めてしまった。雀荘のマスターに作ってしまった借金だけが、彼女の残した唯一の痕跡だった。

 あれから十年が経った。多少なりとも成長した今の私の前に彼女が現れたとして、さて私は彼女を満足させてやることができるだろうか。――もちろん、彼女は私を満足させてくれるに決まっている。あの、深いサファイアの瞳で。

 どうでもいいことだが、それ以来私は猫を飼ったことがない



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