我が家の女帝


 my母があらゆる食い物を冷凍させる人間だということは以前書いたと思うが、最近我が家の冷凍庫で幅をきかせているのが、こんにゃくゼリーである。どういうわけか最近、母がこれにハマっているのだ。そのハマリようといったら尋常なものではなく、現在我が家の冷凍庫はこんにゃくゼリーによって完全に占拠されている状態である。
 なにしろ冷凍庫を開けると桃のこんにゃくゼリーが転がり落ち、その奥にはライチのこんにゃくゼリー、さらにその奥には青リンゴ味のこんにゃくゼリーがひかえているといった具合。ちなみにその奥にはグレープフルーツ味が隠されている。まさにこんにゃくゼリーの一党独裁政権だ。もはや冷凍庫というよりこんにゃくゼリーの保管庫といったほうが良い。あるいは工場やもしれぬが、それはさだかでない。

 こんにゃくゼリーを知らない人のために説明しておくと、こいつはコンニャクで作ったゼリーである。決して、ゼリーで作ったコンニャクではない。コンニャクからゼリーを作ることはできるのに、どうしてゼリーからコンニャクを作ることはできないのか。それは謎である。もっとも、考えてみれば牛から牛丼を作ることはできても牛丼から牛を作ることはできない。それと同じことであろう。
 ところで、こんにゃくから作られた青リンゴ味のゼリーはおいしく食べられるが、ゼリーから作られた青リンゴ味のこんにゃくがあったとして、我々はそれをおいしく食べることができるだろうか。このあたりの微妙な違いを考証するのは、なかなか興味深い。とりあえず言えることは、味噌田楽にしたゼリーは食べたくないということだ。おでんダネにしたゼリーも、ちょっと勘弁である。

 my母の、こんにゃくゼリーに対するスタンスは明確だ。
 冷凍あるのみ。その一言である。それ以外の方法(たとえば生)で彼女がこんにゃくゼリーを食べるところを私は見たことがない。なにしろ、彼女は買ってきたこんにゃくゼリーを袋ごと冷凍庫へ入れてしまう。あたかも冷凍食品かアイスクリームを買ってきたかのごとく。当然、私も冷凍のこんにゃくゼリー以外を口にする機会はなくなる。
 はっきり言おう。私は生まれてこのかた柔らかいこんにゃくゼリーを食べたことがない。食べたことがあるのは、ガチガチに冷凍されたものだけである。これは何かまちがっているような気がしてならない。そもそも、柔らかいところがこんにゃくゼリーの良いところなのではないか。考えてもみてほしい、ただのコンニャクを冷凍にして食べる人間がいるだろうか。いや、いない。にもかかわらず、こんにゃくゼリーは冷凍される。これはなぜか。
 その質問を、私はmy母にぶつけてみた。答えは「だったら食べなくていいわよ」というものであった。ごめんなさい、ママ。

 ところが先日、思わぬ機会が訪れた。我が家のテーブルに、買ったばかりの(冷凍されていない)こんにゃくゼリーが放置されていたのだ。いや、放置されていたわけではなかったのかもしれない。my母はただ買ったばかりのこんにゃくゼリーを整理(冷凍)せぬまま近所の知人宅へ遊びに行ってしまっただけのことであった。が、これぞ生のこんにゃくゼリーを食べる絶好のチャンス! 私は迷うことなくその袋を開け、数個のこんにゃくゼリーを食べたのである。――食べてしまったのである、というべきだろうか。
 ともあれ、一時間後の私は母から叱責を受けていた。どうしてこんにゃくゼリーを生で食べたのか、と。どうして勝手に食べたのか、ではなかった。どうして冷凍せずに食べたのか、であった。そういうおしかりであった。延々30分にわたって、そのことを説教された。27歳にもなって、たかがこんにゃくゼリーで説教されるとは思わなかった私である。
 これ以後、私は母のこんにゃくゼリーを決して食べないようになった。こんにゃくゼリー3つと夕食のおかず一品とを交換する気には、さすがになれない。

 こんにゃくゼリーをかならず冷凍して食べるmy母は、日常生活の中にいくつかのこだわりを持っている。
 たとえば、我が家の居間には二種類のティッシュペーパーが用意されている。これは硬いティッシュペーパーと柔らかいティッシュペーパーであるのだが、彼女はこの二種類のティッシュを用途に応じて使い分ける。鼻をかんだり口元をふいたりするときには柔らかいほう、こぼしたコーヒーをふいたりするときなどは硬いほうといった具合に。
 これを守らないと怒られる。先日なども柔らかいティッシュの上にクッキーを置いて食べていたら、硬いほうを使えと怒られた。こんなことで怒られるのは世界広しといえども私ぐらいだろう。まったく自慢にならないが。ちなみに子供のころなどは硬いティッシュで鼻をかむと怒られたものである。私の鼻なのだから、ほうっておいてほしいと思う。ちなみに最近、カミソリで頬を切ってしまったときに柔らかいティッシュで傷を押さえていたら、硬いほうを使えと怒られた。なかなか判断がむずかしいのだ。
 以前、母の命令でゴキブリを退治したときにも、つい手近にあったほうの柔らかいティッシュでゴキブリの死骸を包もうとして怒られた覚えがある。ひどい話だ。それなら自分で退治しろと言いたかったが、無論そんな言葉を実際に口に出せるはずがなかった。
 とりあえず以上の事例から導き出される結論は、私の頬とゴキブリとは同等だという事実である。そして、鼻のほうが頬より地位が高いこともうかがえる。わからないのは、鼻血を出したときには硬いティッシュと柔らかいティッシュのどちらを使えば良いのか、ということだ。これは永遠の命題である。

 my母のこだわりが最も強く反映されるのが料理だ。
 とくにヤキソバ、チャーハン、お好み焼きなどといった料理のときに、彼女のこだわりは炸裂する。たとえばヤキソバだ。昨日の朝食に食べたヤキソバには、以下の材料が入っていた。
 キャベツ、タマネギ、ニンジン、ピーマン、ジャガイモ、八宝菜、モヤシ、タケノコ、シイタケ、ニラ、カリフラワー、ニンニクの芽、キクラゲ、豚肉、ウインナー、鶏のカラアゲ、ハンバーグ、豆腐、炒り卵、コーン、剥きエビ、チリメンジャコ、クルミ、松の実、青ノリ、カツオブシ。
 やりたい放題である。具沢山などと言うなかれ。my母は単に冷蔵庫の残り物を片端からぶちこんでいるだけなのだ。その無秩序ぶりは常軌を逸している。まさに無政府主義だ。これを古館伊知郎風に言うなら、「おーーっと、コレはいったい何だ!? これはまさか、ヤキソバ、あの必殺の縁日攻撃、ヤキソバなのか? しかしこのヤキソバ、ソバがまったく見えない! これは冷蔵庫の反逆なのか!? まさに残り物オーケストラ状態!」とでも言おうか。
 以前、このヤキソバを私の友人に食べさせたことがある。彼は一目見て「野菜炒め?」と言った。無理からぬことである。my母の作るヤキソバは、野菜炒めヤキソバ風味とでもいったほうが近いのだ。古館伊知郎の実況どおり、ソバが見えないのである。

 彼女にとって、ヤキソバ、チャーハン、お好み焼きはほとんど同じ料理である。違うのは、ソバを使うか米を使うか、あるいは小麦粉を使うか、という点のみなのだ。残り物を入れて焼く、という基本プロセスに変化はない。したがって、サバの煮つけがチャーハンに入っていたり、セロリがお好み焼きに入っていたりする。最悪なのは、残ったお好み焼きがヤキソバやチャーハンなどに入っている場合だ。これは効く。サバの煮つけとハンバーグがヤキソバという地で邂逅するさまは衝撃的だ。両者にとってヤキソバなどまったく縁のない土地であろう。
 そこで私はキャベツと豚肉によるヤキソバのレコンキスタ(失地回復運動)を提唱したい。本来、ヤキソバに許されるのはキャベツと豚肉だけなのだ。それ以外の異民族は、すべて反動分子である。ヤキソバという国土を荒らす寄生虫なのだ。私は意気高く、この案件をmy母に提出した。
 ――結果、審議は0.1秒で下された。
「だったら食べなくていいわよ」と。
 ごめんなさい、ママ。



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