文学的疾患
十年ちかくも無職生活を続けていると生活のリズムは不規則にならざるをえないわけで、たいていの日は眠くなったら寝るという生活を送っているのだが、それでもどういうわけかむやみに健康で困る。
どれぐらい健康かというと、産まれてこのかた病気らしい病気をしたことがない。医者にかからなければならない病気の経験といえば虫歯くらいのもので、骨を折ったり体を切ったり(手術)したことがない。最後に風邪をひいたのは、中学生ぐらいのときだったと思う。俗に、頭の弱い人は風邪をひかないというが、これが迷信であることは私を見ればわかるだろう。逆に確信を深めるかもしれないが。
なにしろ、この十年間というもの薬を飲んだ記憶がない。風邪薬、頭痛薬、胃薬、酔い止め、いずれも飲んでいない。一般的な見地から見て、これはかなりの健康体であると言わざるを得ないのではなかろうか。
むろん、健康であるに越したことはない。好きで病気になる人はいないだろう。だが、かりそめにも文筆に手を染めている人間があまり不必要に健康なのも、ちょっとどうかと思う。なんだか、いかにも無神経な人間みたいではないか。
およそ文筆家たるもの、ひとつぐらいは持病を患っていてしかるべきである。それも、いわゆる不治の病が良い。そういう病気を患っている人の書く文章は、いかにも純文学という感じがする。言い換えるなら、純文学をやりたければ持病のひとつも患っておけということだ。私のように十数年のあいだ風邪薬さえ飲んだことがないというのでは、繊細な感性を必要とする純文学には向いていないような気がする。
だが不治の病といっても、水虫とか痔などという病気は、ちょっといけない。どちらか(あるいは両方)の病気を持っている人には申しわけないが、これらの病気にはあまり繊細なイメージがない。どちらかといえば、他人に笑われるための病気だ。加えて言うならば、水虫や痔で死んだ人の話は聞いたことがない。
では、どういう病気が良いのか。
まずおすすめなのが、結核や肺浮腫、喘息などといった呼吸器系の病気である。とくに結核(労咳)は由緒正しい文学的疾患であり、非常にポイントが高い。実際にこれで死んだ文豪も数多く、まさに文学者のための病と言って良かろう。
――男が一人、薄暗い書斎で原稿用紙に万年筆を走らせている。男の手は骨が浮いて見えるほどやせ細り、頬のこけた顔はまるで骸骨のようだ。どれだけ散髪に行っていないのか、髪は乱れてザンバラになっている。ふいに男は万年筆を置き、その手で口元をおさえた。ごふっ、ごふっ。くぐもった音が喉の奥から漏れる。男が口元から手を離すと、真っ赤な血が原稿用紙の上に落ちた。
どうだろう。これぞ純文学ではないか。こういう作家の書く小説は、命というものに対して非常に深い書き込みがされていそうである。風邪ひとつひいたことのない健康な作家などには、決してこの男のような作品は書けないだろう。文学者になりたければ、肺の一つぐらいは切り取っておくべきなのである。
文学的な病気といえば、血液系の疾患も忘れてはならない。白血病や血友病などの疾患は薄幸の美少女のために用意されたものだが、繊細な純文学者にも似合いの病である。呼吸器系の病気があるていど年配の文学者用の病気なら、血液系の病気は若い文学者向けの病だと言えよう。影の薄い二枚目なら完璧である。
私など非常に似合うと思うのだが、不幸なことに私の血液はいたって健康だ。もし私が先天性の血液病を患っていたら、まちがいなく大作家になっていたことだろう。このことについては、両親を恨むしかない。
細胞腫や骨肉腫といった、いわゆるガンも、文学的疾患のひとつである。注意すべきは、決してそれらの病をガンと言ってはならないことだ。可能なかぎり難しく言うのが良い。たとえば神経芽細胞腫骨髄転移などと言ってみると良い。それを聞いた人の多くは、うへぇまいりました、と思うことだろう。そうして、そんなすごい病気にかかる人が書く小説はおそろしくものすごいに違いない、と思うのである。水虫や痔などとは格が違う。なにしろ命がかかっているのだ。くやしかったら痔で死んでみろということである。だれに言っているのかよくわからないが。
また、神経失調や精神衰弱などの病気は直接死につながることはないものの、なかなかロマンを感じさせる疾患である。こういう作家は、一ヶ月に一度ぐらいは手首を切ってみたり、ロープをかけるために枝ぶりの良い木を探してみたりするのだろう。そもそも文学をこころざす者であれば、一度ぐらいは抗鬱剤や睡眠剤を飲んでおくべきだ。それぐらいでなければ、深い小説は書けない。
ある種のアレルギーや恐怖症なども、夢のある病であろう。過去によほどの精神的外傷を受けたのではないかと思わせる。私の知人に、寝るのが怖いという男がいるが、これはかなりの文学具合である。私のように毎日10時間も寝ているようでは、良い小説は書けない。
さて、ここでふと気付いたのだが、私は先天的に(かつ後天的にも)たったひとつ、不治の病を患っているのであった。言うまでもなくそれは金欠病のことなのだが、はたしてこれは文学的疾患なのだろうか。そして、いま「金欠病」が一発で変換されたことに驚いたのだが、これはどうでもいいことであった。
考えてみれば、金欠病というのはかなり深刻な疾患である。根本的な治療法も特効薬も存在しないし、悪化すれば命を落とすこともある。これが原因で他の疾患を併発する可能性も高く、伝染性も強い。それでもこの病気に文学的ロマンが感じられないのは、どういった理由によるものだろうか。私も早いところこの病気を返上して、神経芽細胞腫骨髄転移の一つも患っておきたいところだ。
いや、それよりも先にまず、この痔をどうにかしなければ。