実録! 拷問歯科医院潜入24時間!
あなたの歯が痛いとする。鏡で見ると歯の表面に黒く小さい穴があいている。痛みはかなりのもので、眠れないぐらいだ。こういうとき、眼医者に行こうと考える人はあまりいないだろう。普通は歯医者へ行く。だれでもそうする。私もそうする。ところで歯医者へ行くという表現は自分で書いていてちょっとどうかと思ったので、「歯医者」でなく「歯科医院」と訂正しておきたい。どうでもいいことだが。
さて、そういう次第で私は虫歯を治療すべく(正確には治療してもらうべく)近所の歯科医院へ向かったのであった。言うまでもないことではあるが、あまり乗り気ではない。歯科医院へ行くのに「足取りも軽くルンルン気分」という人がいたら、お目にかかりたい。だれだって歯を削られるのは痛いし、痛いのが好きな人は滅多にいない。
とはいえ私も小学生ではないのでママに手を引っ張られて無理矢理つれていかれたというわけではない。自発的に歯科医院へ赴いたのである。どうだ、偉かろう。
歯科医院に入ると、受け付けに座っていたのは金髪の女性だった。肌の色は異様に黒く、小麦色というよりは焼死体のようである。念のために言っておくが、日本人だ。私は驚いた。何というか、何かが違うような気がする。べつに髪の色が金色だろうが銀色だろうが虹色だろうが何でも良いのだが、こういう所に座っている女性の髪は黒であるべきだと思うのだ。肌の色は白が望ましい。耳にピアスの穴が二つもあいているようなのは言語道断である。
もちろん私は紳士なので、そんなことを態度には表さない。スマートに、かつクールに「歯の治療をおねがいしたい」と、こう告げたのである。すると金髪(パツキン)の受付嬢は「それじゃぁ〜、コレに記入してくださぁい」とバカ丸出しのかわいらしい声で言ったのであった。この時点で、私は何かの選択を誤ったと思った。
金髪の女性が手渡したのは問診表だった。過去の病歴やアレルギーの有無など、いくつかの質問が並んでいる。どこにでもある問診表だった。右上に「昭和 年 月 日」という表記があることを除けば。
何年後かにこれを読む人のために記しておくが、このときすでに平成12年である。いったいこの問診表は何年前からここにあるのか。12年間で何人の患者がこの医院を訪れたのだろう。ひょっとすると、ここはとんでもないヤブ医者だったのかもしれない。そう思った。なにしろ「昭和」である。それともこの医院のドアをくぐった瞬間、私は昭和時代にタイムスリップしてしまったのだろうか。せめて戦時中でないことを祈るのみである。
ともかくも問診表を提出し、私は無人の待合室で自分の名が呼ばれるのを待った。こうした待合室には時間つぶしのために雑誌や漫画などが置かれていることが多い。この医院も例外ではなく、古ぼけた本棚にギッシリと漫画の単行本が詰め込まれていた。
まず気付いたのが、『美味しんぼ』が全巻そろっていることである。先日出版されたばかりの最新刊も、きっちり並べられている。どうやらタイムスリップ説は棄却せざるを得ないようだ。
その下には『包丁人味平』『ザ・シェフ』と続く。いずれも欠けがない。それだけではなかった。『美味しんぼ』の裏に隠されているのは『将太の寿司』である。ここの歯科医は食べ物に対してかなり関心が強いようだ。それにしても、歯科医院の待合室に置くべき漫画ではないようにも思う。「おいしいものを食べてしっかり虫歯になってくださいね」ということなのだろうか。
そして、本棚の最下層に並んでいるのが『プロレススーパースター列伝』と『空手バカ一代』なのであった。どういう趣味をしているのだ。
私の名が呼ばれたのは、スタン・ハンセンがブルーノ・サンマルチノの首を折ったときだった。
さぁ、いよいよだ。拷問台に向かう心境にも似た心持ちで、ゆっくりと扉を開ける。中で待ちかまえていたのは、まだ若い歯科医と受け付けの金髪女だった。助手であると思われる金髪女が、足りなさそうな素敵な声で「それじゃぁ〜、こちらにどうぞぉ」と拷問台に座るよう促す。あぁ、今から私の歯の命運の何割かはこの女に預けられるのだ。意味もなく叫びだしたい衝動に駆られる。なぜこんなことに。神よ救いたまえ。
だが、そんな祈りの声もむなしく哀れな仔羊(私)は拷問台ならぬ診察台に乗せられ、なんだか羞恥プレイに使うような前掛けを首に巻きつけられるのであった。この前掛けをドイツ語ではヨ・ダーレカッヘと呼ぶらしいが、本当なのだろうか。そんなことをつらつらと考えているうちに、格闘と美食が趣味の歯科医が私の横に立った。
「今日はどうしました?」
と、美食医師が言った。意外と落ち着いた声である。頼り甲斐のある声であると言っても良い。『将太の寿司』の愛読者だということは、このさい考えないことにしよう。せめて『ミスター味っ子』でなかったことにこそ感謝すべきであろう。だから考えるなって。
虫歯がひどいのだと告げると、さっそく治療が始まった。Let's 拷問タイム♪ 明るく考えなければ、やってられない。
レントゲンを撮影し、歯茎を消毒。そうして麻酔用の注射器が登場する。このとき、私はちょっとした違和感を覚えた。注射器を持った美食医師の様子が、どうも気になるのである。私は彼を子細に観察した。
――鼻歌であった。あろうことか、彼は注射器を手にしながら鼻歌を歌っているのであった。かすかにそうだとわかるぐらいだったが、まちがいなかった。小さく流れているBGMに合わせて、たしかに彼の鼻歌が聞こえる。
BGMはビートルズの”ミスター・ムーンライト”だった。その鼻歌を続けたまま、彼は私の歯茎に注射針を打ち込んだ。本当に大丈夫なのか、この歯医者は。ちゃんと生きて帰れるんだろうな?
そんな私の不安をよそに、鼻歌医師は慣れた手つきで次々と三箇所ばかり麻酔薬を打ち込む。手際は悪くない。ただ、その鼻歌をどうにかしてくれまいか。
麻酔を終え、しばらくして鼻歌医師が戻ってきたとき、BGMは”テイスト・オブ・ハニー”だった。バラードだ。なんとなくホッとしたのもつかのま。「じゃあ削りますね」と彼が例のドリル(マイクロエンジン)を持ち出したとき、ちょうどBGMが替わった。次の曲は”プリーズ・プリーズ・ミー”だった。なぜだか妙に不安になる。
マイクロエンジンが甲高いモーター音を上げ始めると、彼の鼻歌は聞こえなくなった。歯を削られ始めれば、なおさらである。だが、私は彼の鼻歌が気になって仕方ない。まさか私の歯を削りながら”プリーズ・プリーズ・ミー”を歌っているんじゃあるまいな、この男は。
麻酔が十分に効いているのか、痛みはほとんど感じない。問題なのは鼻歌だ。――と思っていると、ふいにマイクロ・エンジンが停止した。鼻歌は――聞こえる。おいおい。
だが、まぁ良い。とりあえずこれで終わりのはずだ。私は安堵の胸をなでおろした。どうやら生きて帰れるらしい。
「はい、もう一度口開いてください」
え?
ちょっと待ってください。まだ削るんですか? あぁ、削るんですね。手にマイクロ・エンジン持ってますものね。いや、削るのはいいんですが、その鼻歌はどうにかしてもらえないかなぁ、と。しかもほら、今かかってるBGMって”アイ・アム・ザ・ウォルラス”だし。ちょっとキツイんじゃないかなぁ、と。いやキツイのは私なんですが。……はぁ、やるんですか。わかりました。口を開ければいいんですね。あなたもエッグマン、僕もエッグマン。……で、ちょっといいですか? なんだか麻酔がちゃんと効いてなかったのか、少し歯が痛……
キュィィィン、ガリガリガリガリガリ。
いてててててててててて!
ギュィィィィィン、ゴリゴリゴリゴリ。
ぐぉぁぁぁァぁ! オ、オレは何も知らねぇ! 本当だ! オレは組織の下っぱなんだ! 何も聞かされちゃいねぇんだぁぁっ! 助けてくれ、リンゴ!
祈る相手をまちがえているような気もしたが、ともあれ十分ほどで治療は終わった。どうやら組織を裏切らずに済んだようだ。拷問台を後にしてよろめきつつ受け付け口に戻り、治療費を支払う。拷問を受けたうえ金まで巻き上げられるとは、まさに泣きっ面に蜂、弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったり、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい状態だ。
「おだいじにどうぞぉ〜」
金髪嬢に送り出されて、ようやく私は拷問歯科医院を脱出することに成功した。虫歯はまだ二本残っている。次回の予約も済ませてしまった。他の医院へ移ることも考えたが、それだけはできなかった。まだ『プロレススーパースター列伝』を読み終えていないのだ。