そのときチャーハンは選ばれた


 男の価値は切り捨ててきたものの数で決まる――。
 昔、そういう名言を残した王がいた。人生とは取捨選択の積み重ねであり、切り捨ててきたものが多ければ拾い集めたものも多いというわけだ。人は日々くりかえされる無限の選択肢の中からそのときの自分に最も見合う選択をし、それ以外のすべてを切り捨てながら生きなければならない。望む望まざるにかかわらず、およそすべての人間はこの選択を無意識のうちに、あるいは意識的にくりかえしている。場合によっては、たったひとつの取捨選択が人生を一変させたり、瞬時に人生の幕を下ろしてしまうこともあるのだ。

 その日もまた、私は重大な選択をつきつけられていた。
 道は二つ。どちらか一方を切り捨て、もう一方の道を歩む。そういう選択だった。二者択一。人生において頻繁に現れる、最も単純でありながら最も残酷な選択。最悪の結果を考えれば、死をも覚悟しなければならない選択――。

「……どうしました?」
 声をかけられて、私は我に帰った。テーブルをはさんで、部下の一人が怪訝そうに私を見つめている。名は鷹野。その名のとおり、猛禽のような目を持った男だ。
「いや……」
 なんでもない。そう言おうとしたが、考えなおして私は首を振った。この鷹野は信頼できる男だ。もし私がアフガンの最前線に送られたとして、この男とさえコンビを組めれば命の心配はない――。そういう男だった。
「……そうだな。おまえの意見を聞いてみよう」
 私は手元のファイルを鷹野に渡した。強い油の匂いがするそのファイルはひどく年季の入った代物で、ところどころに血痕のようなものが散っていた。いったい、このファイルは何人の男たちの手を渡ってきたのだろうか。そして、その男たちのうち、生きているものの数は――。
「これが、迷うほどのことなんですか?」
 あっさりと、鷹野は言い放った。さすがに私の見込んだ男だけある。彼は、すでに選択を終えていたのだ。たのもしい思いで、私は訊いた。
「どっちを……いや、何を選んだ?」
 この問いに、鷹野は当然といった顔でこう答えた。
「ギョウザ定食です」

 ギョウザ定食。それは私の考えには存在しない選択だった。私の中にあったのはラーメンとチャーハン。その二つだけだった。
 初めて入る中華料理店だった。メニューは少なく、味の保証もなかった。季節は冬で、気分的に汁物を食べたかった私は迷わずラーメンを注文しようとしたのだが、メニューに記された「チャーハン(スープ付き)」との一文に非常な興味を覚えたのだった。
 ラーメンとチャーハン。重要な――あるいは切実な、と言い換えても良い選択だった。人類史上、どれだけの男がこの選択の前に立ち尽くし、そして無惨な敗北を喫していったことだろう。
 安易な選択をしてベトベトのチャーハンや伸びきったラーメンをつかまされるのは、死にもまさる敗北だ。慎重に両者を比較検討しながら、よりリスクの小さい選択をしなければならない。
 そもそも、私が食べたいのはラーメンだった。鷹野が今日の昼食を中華料理にしましょうと言ったときから、私の考えはそう決まっていた。私は麺類が好きなのだ。だが、初めて入る中華料理店でラーメンを食べるときには注意が必要だ。店によっては味噌味や塩味のラーメンが出てきたりする。これは大変な誤算だ。基本的にラーメンは醤油味のものであって、それ以外のスープであれば相応の注意書きが必要だと私は考える。これを怠った店で喫した敗北の数は、十や二十ではすまない。
 その点、チャーハンには味噌味や塩味などといった違いがない。せいぜい具の内容が少し違うぐらいで、基本的な味のベースはだいたい同じだ。私はチャーハンセットに納豆をつけてくれる中華料理店を知っているが、さすがに単品のチャーハンに納豆をつけてくる中華料理店は見たことがなかった。したがって、リスクの小さい選択という点で一歩リードしているのはチャーハンだった。
 問題は値段だ。あらためてデータファイル(おしながき)に目を通してみる。ラーメンが500円であるのに対して、チャーハンは550円。この点では明らかにラーメンが勝っている。もちろん、チャーハンにはスープが付属してくることを忘れたわけではない。純粋に値段だけを比較したうえでの話だ。あまり裕福でない家庭で育った私にとって、この50円の差は大きい。なにしろ、さらに50円を追加すればラーメンを大盛りにすることさえできるのだ。のみならず、ワンタンメンや中華丼などといった魅惑的な選択肢も視野に入ってくる。これこそが私にチャーハンをためらわせる最大の要因であった。
 だが、ここではラーメン大盛りという裏の選択は考えないことにしよう。ラーメンかチャーハンか。そのいずれかだ。どちらかを切り捨てて、私はこれからの人生を生きていかなければならない。

「……ふぅ」
 いつのまにか熱くなっていたことに気付き、私はおひやを一口飲んだ。そして、ふと思い出したのだ。子供のころ、私はデパートのレストランへ行くと決まってグラタンかスパゲティかという選択で悩み、母親を困らせたものだった。そういうとき、母は決まって一つの解決案を出したのだ。
「鷹野」
 私は呼びかけた。
「なんでしょう」
 火のついていないラッキーストライクをもてあそびながら、鷹野は鋭い眼光を返した。
「ジャンケンをしよう」
「は……?」
「今からジャンケンをして、おまえが勝ったらチャーハンを注文する。私が勝てばラーメンだ。……いいか?」
 これが、子供のころの私に母が与えてくれた叡智だった。どうしても道を選べないとき、人は運命を天にまかせても良いのだと、母は教えてくれた。
「それはかまいませんが……」
 鷹野はとまどっている様子だった。無理もない。こんな重大な選択をジャンケンひとつに預けてしまう私の神経が、慎重な性格の彼には理解できなかったのだろう。だが、もう遅い。賽は投げられたのだ。
「……いくぞ。最初はグー!」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「なんだ」
「最初はグーとか言いながらパーを出してるっていうのは、どういうことなんですか」
「……冗談だ」
「本当はラーメンが食べたいんじゃないんですか?」
「冗談だと言っているだろう。……いくぞ。仕切りなおしだ。最初はグー! ちっけった!」

 ――結果は私の負けだった。私の渾身のパーに対して、鷹野は卑劣にもチョキを出したのだった。
「僕の勝ちですね。それにしても『ちっけった』って……」
 鷹野が何か言おうとしたが、私はそれを遮った。
「待て。その前に異議がある」
「異議?」
「おまえ、今の勝負、あとだしをしただろう?」
「そんな馬鹿な。そんなことして僕に何の利益があるんですか」
「いいや、私は見た。おまえは明らかに私のパーを確認してから手の形を変えた」
「だから、どうして僕がそんなことしなけりゃならないんですか」
 鷹野は言い募った。あくまで自らのあとだしを認めないらしい。私はこの男を見損なった。
「そんなことは問題ではない。ただ一人の人間として、おまえの卑劣な行為が許せないだけだ。決闘を侮辱するな、JOJO」
「よく意味がわからないんですけど、そんなにラーメンを食べたければそう注文すればいいじゃありませんか」
「話をそらすな。私が今問題にしているのは、おまえの決闘に対する観念の低劣さだ」
「わかりましたよ。それじゃ三本勝負ってことにしましょう」
「なんだと貴様。私に情けをかけるつも」
「はい、いきますよ。最初はグー」

 ――結果は、またしても敗北だった。しかも今回、鷹野は正々堂々と戦った。いや、むしろ私のほうこそ無意識のうちにあとだしをしていたかもしれない。だが、それでも私は負けた。完敗だった。
「……わかった。チャーハンをたのもう」
 私はファイルを閉じた。パタン、と思いがけず大きな音が響いて、私はなんとなくおかしくなった。
「ようやく決まりましたか」
 どこかほっとしたような、鷹野の表情だった。そうして彼は店員を呼ぶべく右手を挙げた。まるで自らの勝利を誇るかのように。
「はい、何にしましょう」
 ようやくといった風に、店の奥から店主と思われる中年男が出てきた。
「ギョウザ定食」
 迷いのない口調で、鷹野が告げた。
「……私はチャーハンだ」
 対して私の言葉は歯切れが悪かった。まだラーメンへの思いを捨て切れていなかったのだ。本当に今このとき、最善の選択はチャーハンだったのだろうか。私が食べたいのはラーメンではなかったのか。ラーメンにライスのセットという手もあったはずだ。スープは単品でも注文できたかもしれない。そんな疑問や後悔が、次から次へと押し寄せてくる。ジャンケンなどという愚劣な手段に頼ってしまった自分は、人として何か重要なものを見失っていたのではないか。
 だが次の瞬間、そうしたもろもろの悔恨は店主の発した衝撃的な一言によって遠い次元の彼方に放逐されてしまった。
「チャーハンのスープは何にしましょう」
 こともなげに言い放たれた店主のその言葉は、雷撃のごとく私の脳を打ち砕いたのであった。
「……な、なんだと!?」
「玉子スープとワカメスープ、どっちにします?」
「玉子とワカメ、だと?」
 私は白痴のように、店主の言葉を繰り返すばかりだった。
「はい、玉子とワカメです」
「ぬぬぅ……」
 私は苦悩した。そんなことは、ファイルのどこにも記されていなかった。自慢ではないが、私は玉子スープもワカメスープも大好きだ。その両者に優劣をつけることなどできなかった。まさに究極の選択。銃殺刑と絞首刑の選択をゆだねられた死刑囚の気分だった。
 ここは再びジャンケンを――と思って鷹野を見ると、その目が「それだけはやめてくれ」と言っていた。やむをえず、私は最後の手段をとった。頭の中に玉子スープとワカメスープを思い描き、「ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な♪」と始めたのだ。
「……よし、決まった。玉子スープだ。玉子スープを持ってこい」
 このとき、私は苦悶の表情を浮かべていたに違いない。切り捨ててしまったワカメスープのことを思うと、涙が出そうだった。
 だが、店主は更に言葉をつなげるのだった。
「玉子スープですね。スープは先に持ってきてもいいですか?」
「うっ……」
 たのむ、もうこれ以上私に何かを選択させないでくれ。そう叫び出したい気分だった。
「……好きにしてくれ」
 そこまで言って、私はテーブルに突っ伏した。ただ一回の昼食をとるだけのために、人はこれほどの分岐に立たされなければならないのか。なにゆえに、人はこうまでして生きなければならないのか。私が今までに捨ててきた数多くのものたち。その中に今、ラーメンとワカメスープが新たに加えられた。残酷な――あまりに残酷な選択。

 ――と、ふいに鷹野が高いところを見上げて指差した。
「あぁ、あんなのもあったんですね」
 それは、私の後方の壁面にあった。ラーメンやチャーハン、中華丼などといったたくさんのメニューが貼り付けられたその中に、私は一枚の古ぼけた貼り紙を見たのだった。
 半ラーメン半チャーハンセット・550円、と書かれた貼り紙を。
 どうやら、私はまたしても人生の選択を誤ってしまったらしい。――それにしても許しがたいのは、半ラーメン半チャーハンセット550円のあとに小さく書かれた(スープ付き)の一文であった。



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