Mr.Max


 ウォシュレットというものがある。現代社会でウォシュレットを知らない人がいる確率は大変低いと思うが万一のために説明しておくと、ウォシュレットとはトイレで大便をしたあと自動的に尻を洗ってくれるというまことに便利な、ある意味では文明社会の堕落を象徴するような機械のことである。
 その使用法はいたって簡単だ。スイッチを押すと水が噴出して尻の穴(及びその周囲)を洗い流す。たいていのウォシュレットには水圧の強弱と水温の調節をするためのスイッチやダイヤルがあるので、これを使って噴出する水を調節するのが普通だ。
 ──と説明しているうちに「いまどきウォシュレットを使ったことがないヤツなんているのか」という疑念にとらわれたのだが、「ふざけんじゃねぇ、ウチの便所は汲み取りだ!」という過激な保守派の人もいるかと思うので、一応説明した次第である。

 さて、このウォシュレットだが、あなたは一体これをどのように利用しているだろうか。寅さんは映画の中で顔を洗うのに利用していたような覚えがあるが、一般的には尻を洗う以外に使うことは、ほぼ無いと言っていいだろう。今回問題にしたいのは、この尻を洗う際の水圧と水温についてである。
 たとえば私の勤めている(そう、もはや私は無職ではない!)会社のトイレに取り付けられているウォシュレットは、水圧も水温もアンプのようなダイヤルスイッチで調節するように作られている。どちらのスイッチもかなり大きく、デジタル式の段階切り替えではなくアナログ式となっている。目盛りは時計でいうところの6時から12時までで、12時の位置がMAX(最強)となっている。さあ、あなたはこのダイヤルをどこまで回すだろうか。

 常識的な思考と判断を持つ人ならば、使ったことのないウォシュレットを最初に使うときは、まず最弱の状態で水噴出スイッチを押し、その勢いと温度を尻で計りながらゆっくりとダイヤルを7時の方向へ回して自分に最適な位置を把握しようとするだろう。その最適な位置が8時になるか9時になるか、それは個人個人の好みや体力の問題である。私の場合、会社のウォシュレットでは水圧水温ともに8時の位置がベストだ。これは標準的な値であるらしく、ほとんどの場合においてダイヤルはこの位置にセットされている。
 だが中にはこの標準規格から外れている人というのがいて、ときおりダイヤルが6時半ぐらいの(腑抜けた)位置にセットされていたり、あるいは9時半ぐらいまで回されているときがある。
 こういうとき、いつもどおりのダイヤル位置だと思い込んで「水出」スイッチをオンにすると、その人の尻には様々な不幸が訪れる。真冬の夜に凍りつくような冷水を浴びせられたり、痔になるんじゃないかと思うほどの水圧を尻の穴に与えられたりという不幸だ。とくに9時半まで回された水圧ダイヤルというのはかなりデンジャラスな代物で、ここから噴出された水流を尻穴にクリティカルヒットされようものなら、確実に血を見ることになる。自分の尻が機動隊の放水攻撃により一蹴される暴徒と化す瞬間である。さもなくばジャミラだ。当然、その日一日まっすぐイスに座れない。そうして人は(というかオレは)ウォシュレットが凶器であることを知るのだ。

 だがここで一つの、当然の疑問が出てくる。本当に人はウォシュレットの水圧ダイヤルを9時半まで回すことができるのか、という疑問だ。──そう、なにしろそれは尻が血を噴くほどの水圧なのである。一体どれほどの尻をもってすれば、この水圧に耐えることができるのだろうか。私には到底不可能な、それはあまりに圧倒的で破壊的な水圧だ。が、しかしその水圧を己の尻で受け止めている人間が実在するのは確かなのだ。ただダイヤルを回してあるだけとは考えられない。なぜなら、9時半の位置で水噴出スイッチをオンにしたとおぼしき痕跡があるからだ。
 私は考えた。他人にできて私にできないはずがない、と。そもそも他人と同じ、標準的なところで満足しているようでは大した人物にはなれないのだ、と。──そう、私はハードボイルドな生きかたをすると決めたのだ。ハードボイルドの基本は「なにごとも極端に」である。酒はパイント単位で飲み、ライターの火力は最大にしなければならないのだ。ウォシュレットとて例外ではない。
 私は顔も知らない九時半の男をミスター・ナインハーフと名づけて師と仰ぎ、日々ウォシュレットの水圧ダイヤルを右へ右へと回していった。流血が繰り返され、その傷が癒えるたびに私の尻は鋼鉄へと近付いていった。それは、つらく苦しい戦いの日々だった。
 8時から9時半まで目盛りを進めるのに、2ヶ月ほどの時間が必要だった。だが、最終的に私は師を超えた。かぎりなく10時に近い9時50分。それが私の到達点だった。それより右へ水圧ダイヤルを回すのは、人間の身では不可能だと私は判断した。10時の位置。それは尻ではなく胃や小腸が痛みを感じる水圧だった。それより先はまさに命を縮める領域だった。

 だが、私はあきらめきれなかった。前人未到の領域。それをこの身で確かめたかった。私の立つ10時の位置より先には、まだ2時間分もの目盛りが残っているのだ。この領域に踏み込んだ者は世界のどこにも存在しない。私はそう確信していた。登山家は目の前の山が高ければ高いほど意気が上がるという。私も同じだった。
 苦悩のすえ、私はついに実行した。
 水圧ダイヤルは、最初から12時の位置にセットした。9時や10時の位置から始めると気力が萎えそうだったのだ。だから、いきなり12時まで回した。水温ダイヤルは8時の位置だった。さすがにこれを12時にする勇気はなかった。ここまで触れてこなかったが、この水温ダイヤルは夏場なら10時あたりでインスタントラーメンが作れるぐらいの熱湯が出てくる。12時まで回したときの水温は考えるまでもなかった。さすがの私でもウォシュレットに病院送りにはされたくない。そういう次第で、水温ダイヤルは8時で妥協したのだった。
 あなたはMAX位置まで回されたアンプのボリュームスイッチというものを見たことがあるだろうか。そこから炸裂するスピーカーの断末魔の声を聞いたことがあるだろうか。私はある。あの、ほとんどのアンプにおいて永久に使われることのないボリュームスイッチの領域を自らの手で解放してやる瞬間──。それとまったく同じ悦楽が、ウォシュレットの水圧スイッチにも存在した。極限まで振り切れた水圧スイッチ。それはまさにハードボイルドの象徴だった。人外の領域のそこに、いかなる世界が待ち受けているのか──。

 私は二度三度と、水圧ダイヤルを確認した。
 それが間違いなく12時にセットされていることをたしかめ、それから──
 震える指先で「水出」のスイッチを押した。
 その瞬間。ウォシュレットは吼え猛り、地獄の殺人機械と化した。
 そして、私は鳥になった──。



 私がミスター・マックスと呼ばれるようになったのはそれからのことである。



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