狼の夜 1st day (3)
彼は、夢の中にいた。
いつもの夢だった。巨大な獣に喰い殺される夢。獣は、いつものように彼の内側から爪と牙を伸ばし、彼の骨や肉、内臓を喰らい尽くす。月の綺麗な夜には朝まで続く、断続的な悪夢だ。今夜もまた、黒い獣は彼の腹を破って現れ、血肉を啜っていた。
彼にとっては見慣れた夢だった。が、今夜の夢にはどこか違和感があった。──否、正確には、違和感がないという違和感があったのだ。まるで、黒い獣と彼自身の肉体が同期したような一体感と満足感。いつものような苦痛や嫌悪感が、かけらもなかった。
ふだんと違うことは、もう一つあった。獣の腕や顎が、彼の意思に従って動くのだ。彼の思ったとおりに獣の爪が肉を抉り、牙が肉を噛み裂いた。飼い馴らされた見世物の猛獣のように、それは従順だった。が、その獣が喰っているのは間違いなく飼い主たる彼自身の体でもあった。
うんざりするほどに見慣れたはずの夢が、今夜は彼をひどく驚かせ、また狂喜させた。自分自身の肉体が刻一刻と削り取られてゆくさまが、恐怖ではなく愉悦となって彼を襲っていた。この脆弱な男の肉を喰い尽くし、いずれあの女の肉も喰らってやる──。そう考えただけで、たまらない喜悦が彼の全身を走り抜けた。
もはや、彼は悪夢の虜囚だった。完全に夢の世界に喰い取られ、崩壊した自我は黒い獣の血となり肉となって、跡形もなく消えうせていた。夢の中の彼は、彼ではなくなっていった。彼自身も、それを望んでいた。あるいは彼の意思などとは無関係に、黒い獣は完全に彼の存在を──その魂までをも、食い尽くすことができたのかもしれない。自らの意思で操られる獣の顎が最後の肉片を呑み込んだそのとき、彼はこの夢が終わらなければいいと思った。そして、そのとおりになった。
彼は目を覚ました。──二つの意味で。
生まれながらに課せられた血の呪縛が、彼の力と飢えとを月光の下にさらけだした。もはや、昨日を呼び戻すことはできなかった。誇り高くも呪われた人狼の血が、彼を衝き動かした。たまらない飢えと渇き、それに盲目的な破壊衝動だけが彼の行動理念を打ち壊し、いびつな形で再構築していった。彼の内に組み上げられたものは、人間の思考や倫理によるものではなかった。それは既に別種の生物の思考回路だった。彼は、人間には理解できない論理と衝動によって、闇夜に歩み出した。
雪に覆われた深夜の村落は、底なしの静寂と暗黒に包まれていた。今夜天空にあるはずの満月は大地の影に隠されて完全な蝕となり、漆黒の暗幕となって広がる夜空に無限の星々が瞬いていた。天を埋め尽くさんばかりの無数のきらめきの中、他を圧して輝く南の星が一つ。天の川のほとりで青白い炎を噴き上げる星。おおいぬ座の主星シリウス──天狼星だった。
いまや完全に人の姿を捨てた彼は、天狼星よりもなお青い光を放つ双眸で天の一角を睨みつけた。長く尖った獣の耳が、鋭く動いた。その方角から、同族の言葉が聞こえたのだ。助けを求める声だった。自らの置かれた境遇を知った、悲痛な叫びだった。
彼は、声を無視した。夜は短い。血の渇きを癒すのに、一刻たりと待てなかった。彼は、己自身となった黒い獣の衝動に身を任せた。彼には、一撃で人の命を刈り取る牙と爪があった。銃弾をも恐れる必要はなかった。夜空に天狼星のあるかぎり、彼には不死の生命が保証されていた。夜の闇と南の星が彼を裏切ることはなかった。
目覚めの飢えを満たすための贄を、彼は考えた。瞬間的に、彼の見知った女の肉が脳裏に浮かんだ。その仄白い柔肌に獣の牙を食い立たせる光景を思い浮かべて、彼は耳元まで裂けた口吻から唾液をこぼれさせた。そして、片時も迷わなかった。澄み切った冷気の中に鼻をひくつかせると、微かに届いてくる女の匂いを嗅ぎ取って、彼は足を運びだした。
雪は降っていなかった。往来の雪掻きも、ヴァルターやジムゾンの指示によって完璧に成されていた。一見して人間のものでないと知れる彼の足跡は、残されることがなかった。様子を見るようにそろそろと形を取り戻し始めた月の光が、人外となった彼の姿を青黒く照らし出した。それは、まさしく狼と人とを掛け合わせた異形の獣であった。
獣は、ゆっくりと歩いた。最初の十歩ばかりを。その後はやや小走りになり、そうして更に十歩ほど行ったところで猛然と駆けだした。全身の獣毛を風になぶらせ、泥の飛沫を蹴たてて、彼はまっすぐに走った。目指す女の家は、もう目の前だった。
突然だった。獣の足が止まった。尖った鼻先が、さっと右を向いた。その先に、人影があった。ブロンドの髪の男が、調子外れの歌を歌いながら歩いているのだ。左手にはウイスキーの瓶、右手には薄いシェードのかけられたランタンを提げている。その明かりに照らし出されているのは、苦労知らずの陽気な顔。ゲルトだった。
深夜、酒を飲んであちこち歩き回るのがゲルトの性癖だった。勝手を知り尽くした村の中を歩くのに、夜であろうと大した危険はなかった。ランタンと酒瓶以外に、身を守るものは何も持っていなかった。持っていたとしても、意味はなかったが。
獣と同じく、ゲルトの足もまた唐突にぴたりと止まった。姿を取り戻しはじめた月の下で、彼らはほんの一瞬お互いを確認しあった。細く絞られたゲルトの目が、次の瞬間には大きく見開かれていた。静まり返った空気の中に、驚愕とも恐怖ともつかないゲルトの悲鳴が小さく響いた。
ゲルトの手から酒瓶が落ち、派手な音をたてて割れた。それが合図だったように、ゲルトは振り返った。脇目も振らずに走りだした。それを見て、獣もまた走りだした。酒に酔ってはいたが、ゲルトの足取りは乱れていなかった。もともと、酒には強い。酔って転んだことなどなかった。必死の形相で、ゲルトは走った。自宅までは百メートルもなかった。自宅には護身用の拳銃もあれば、薪割り用の斧もある。それが役に立つか否かに関わらず、ゲルトにできるのは走ることだけだった。
ゲルトは、十五メートルも走れなかった。恐ろしい速さで距離を詰めた獣が、太い右腕を一掻きした。灰色熊のような一撃だった。頑丈な爪の何本かがゲルトの後頭部に入り込み、そのまま抉り飛ばした。ランタンの明かりの中に、血と脳漿にまみれた金色の髪が撒き散らされた。爆発したように吹き飛ばされたゲルトの頭の一部は五メートル近くも宙を飛んで路肩の雪面に落ち、赤と白の複雑な模様を作り上げた。
頭の三分の一ほどを削り取られたゲルトは、それでも慣性のまま二歩ばかり歩いた。彼はまだ生きていた。虚ろに見開かれた瞳の中に色はなく、恐らくゲルトは自らの身に何が起こったのかさえ知らずにいた。その右手からようやくランタンが転がり、少し遅れてゲルトの体が崩れ落ちた。倒れた拍子に、大きく抉られた頭蓋骨の穴から崩れた脳がこぼれだして、泥の中に広がった。うつ伏せに倒れたその体が、二度、三度と痙攣した。四度目はなかった。
獣は完全に絶命したゲルトを見下ろすと、まず右手にこびりついた血や毛髪を舐め取ることから始めた。それは、夢の中で毎日繰り返した作業だった。髪の色だけが違った。その事実が、彼を狂喜させた。初めて味わう自分のものでない血の味が、猛り狂う破壊衝動を引き潮のように鎮めていった。
もはや、彼は後戻りできなかった。するつもりもなかった。完全に、人外の領域に立ったのだ。そのことが、また彼を喜ばせた。ついに、現実と夢の境界が消え失せたのだ。彼は、いつもの夢を現実に実行するだけだった。
獣は、ゲルトの左腕をつかんで歩きだした。長いコートに包まれたゲルトの体は泥の中を引きずられて、たちまち泥と血にまみれていった。少し歩いたところで肩の外れる音がしたが、獣は一向に気にしなかった。そのまま、村はずれの炭焼き小屋へと引きずっていった。
そこで、ようやく彼は最初の食事を取った。
